由緒
延喜式神名帳に載る和泉国の式内社で、創建年代は不詳。『日本三代実録』には貞観元年(859)に官社に列し、正五位下を授けられたと記される。社名の由来には、和泉国府が当地から府中へ移った後の旧国府跡を意味するという説と、神功皇后の行在所・小竹宮に由来するという説がある。江戸時代には牛頭天王社と称し、明治5年(1872)に村社に列した。大正4年(1915)に信太森葛葉稲荷神社へ合祀されたが、のちに旧地へ復した。祭神は素盞鳴命。境内の若宮社には葛の葉伝説ゆかりの白狐化石が祀られている。
大阪府に鎮座する神社です。御祭神は素盞鳴命。開運のご利益で知られます。
延喜式神名帳に載る和泉国の式内社で、創建年代は不詳。『日本三代実録』には貞観元年(859)に官社に列し、正五位下を授けられたと記される。社名の由来には、和泉国府が当地から府中へ移った後の旧国府跡を意味するという説と、神功皇后の行在所・小竹宮に由来するという説がある。江戸時代には牛頭天王社と称し、明治5年(1872)に村社に列した。大正4年(1915)に信太森葛葉稲荷神社へ合祀されたが、のちに旧地へ復した。祭神は素盞鳴命。境内の若宮社には葛の葉伝説ゆかりの白狐化石が祀られている。
舊府神社の御祭神は素盞鳴命です。
ご利益や御朱印情報を、地域で絞り込んで確認できます。
同じ地域や分類に近い神社を合わせて見られます。
雄略天皇の御代(5世紀後期)に物部目大連がその祖神・饒速日命を祀ったのに始まると伝わる古社で、延喜式神名帳に記載される式内社。のちに一族の物部辛國連が社を守り「辛國神社」と称するようになったという。室町時代には春日の神(天児屋根命)を合祀し、周辺の地名「春日丘」にその名を残す。明治時代には長野神社(素盞鳴命)を合祀した。深い緑に囲まれた長い参道は「大阪みどりの百選」に選ばれており、数十種類の椿をは
岸和田市北部の春木地区に鎮座する神社。社地は洪積台地の先端部を覆う砂丘の上にあり、古くから八幡山と呼ばれてきた。創建の年代や由緒は明らかでないが、室町時代後期の天文年間(1532〜1555年)にはすでに神社としての形を整えていたと伝えられる。主祭神は素盞嗚尊。現在は春木地区の氏神として崇敬を集めており、毎年9月に行われる岸和田のだんじり祭では、春木地区のだんじりが当社へ宮入りする。祭礼の日は境内が
出雲国府跡に鎮座し、『出雲国風土記』『延喜式』の双方に記載される古社。社伝では元は佐久佐神社と称したとされ、式内社・佐久佐神社の論社にあたる。奈良時代以降は出雲国の総社としての社格を有し、国内の神社へ幣帛を分かつ班幣式や諸祈願は、出雲国中の神主を当社に集めて国司が斎行した。社名の六所は六柱の神を祀ることによるとも、諸社を管理・統括する「録所」に由来するともいわれる。王朝時代から続く古伝の御田饌(み
大阪市淀川区東三国に鎮座する氏神社。社伝では南北朝時代、この地の有力者であった佛生院又三郎が播磨国室津の「室の明神」の分霊を迎え、村の鎮守として祀ったことに始まると伝わる。あわせて、上賀茂社の分霊を船で室の宮へ移す途中につむじ風に遭い、この地で風待ちをした縁で当社にも勧請したという古伝も残る。祭神は食物と稲を司る宇賀御魂神と、雷除け・厄除けの神である別雷神。明治5年(1872年)に村社に列し、明治