大阪府で開運の神社を選ぶポイント
開運の参拝先を選ぶときは、所在地だけでなく、御祭神・由緒・アクセスを合わせて確認すると巡りやすくなります。大阪府内で複数の神社を比較し、旅程に合う場所から参拝先を絞り込んでください。
大阪府で開運のご利益を目的に参拝したい神社を一覧で紹介します。
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岸和田市北部の春木地区に鎮座する神社。社地は洪積台地の先端部を覆う砂丘の上にあり、古くから八幡山と呼ばれてきた。創建の年代や由緒は明らかでないが、室町時代後期の天文年間(1532〜1555年)にはすでに神社としての形を整えていたと伝えられる。主祭神は素盞嗚尊。現在は春木地区の氏神として崇敬を集めており、毎年9月に行われる岸和田のだんじり祭では、春木地区のだんじりが当社へ宮入りする。祭礼の日は境内が一年で最もにぎわう。南海本線春木駅から西へ徒歩15分ほど、住宅と商店が並ぶ市街地のなかに社叢を残して鎮座している。
大阪市淀川区東三国に鎮座する氏神社。社伝では南北朝時代、この地の有力者であった佛生院又三郎が播磨国室津の「室の明神」の分霊を迎え、村の鎮守として祀ったことに始まると伝わる。あわせて、上賀茂社の分霊を船で室の宮へ移す途中につむじ風に遭い、この地で風待ちをした縁で当社にも勧請したという古伝も残る。祭神は食物と稲を司る宇賀御魂神と、雷除け・厄除けの神である別雷神。明治5年(1872年)に村社に列し、明治42年(1909年)12月、一帯が蒲の茂る田園であったことにちなんで現在の社名に改められた。境内には樹齢650年以上と伝わる楠の切り株が安置され、その上に小さな祠が祀られているほか、樹齢数百年の楠が数本現存している。
創建年代は詳らかでない。社伝によれば、古く境内に一本の大杉があり、そこに交野物部氏の祖神である饒速日命を「交野大明神」として祀ったのが起こりとされる。天文4年(1535年)の奥書をもつ神名帳に交野大明神の名が見え、正平21年(1366年)銘の石塔も伝わっていたという。宝永年間(1704〜1711年)に磐船神社から住吉四神の神霊が遷され、現在の本殿が建立された。以後は底筒男命・中筒男命・表筒男命と神功皇后を祀り、総称して住吉大神と称して、航海守護や産業・住居の守護、安産の神として崇敬されている。もとの祭神である交野大明神は境内の交野社(古宮)に祀られ、毎年6月19日に古宮祭が営まれる。
大阪キタの中心、梅田・曽根崎の総鎮守で、通称「お初天神」。社伝によれば、上古に大阪湾へ浮かぶ小島の一つであった現在地に「住吉須牟地曽根ノ神」を祀ったのが始まりで、古代難波の「難波八十島祭」旧跡の一社とされる。創建年代は定かでないが、八十島祭が文徳天皇の嘉祥3年(850年)まで遡り、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察されている。社名は、昌泰4年(901年)に大宰府へ左遷される途中の菅原道真が当地で詠んだと伝わる「露と散る涙に袖は朽ちにけり」の歌にちなむとされ、元和8年(1622年)の社殿再建の際に道真公が相殿に合祀された。元禄16年(1703年)に境内で起きた心中事件を題材に近松門左衛門が『曽根崎心中』を著したことから、主人公お初の名にちなむ通称で広く知られる。現社殿は昭和20年6月の戦災で焼失した後、昭和32年9月に再建されたもの。
延喜式内社で、中世以前には和泉国内でも有数の大社として和泉五社の一社に数えられた古社。牛滝川の上流に鎮座し、水利の神として流域の人々の信仰を集めた神社であったと考えられている。現在の本殿は豊臣秀頼が再建したと伝えられ、三間社流造・正面千鳥破風付・桧皮葺の建築で、国の重要文化財に指定されている。このほか鎌倉期の木造男女神像8体と、熊野街道沿いの遥拝鳥居に掲げられ白河院の宸筆と伝わる木造扁額が大阪府指定文化財となっており、淀殿の寄進と伝わる神輿も伝存する。岸和田市域を代表する式内社として、現在も地域の信仰を集めている。
大阪府に鎮座する八坂系の神社です。御祭神は須佐之男命、天児屋根命、事代主命。厄除け・病気平癒・開運のご利益で知られます。
大阪府泉大津市の「穴師の里」に鎮座する式内社で、和泉五社の一社、和泉国の二ノ宮として広く崇敬を集めてきた。公式の由緒によれば御鎮座は天武天皇の白鳳元年で、およそ1350年の歴史をもつ。主祭神は農業の神・天忍穂耳尊と、紡織の神・栲幡千々姫命の夫婦二柱で、泉州の地が農耕と紡織によって栄えてきたのは両神の御神徳によるとされる。歴代天皇の崇敬が篤く、正倉院文書によれば聖武天皇が和泉国五社大明神へ社領を下賜した際、当社は大鳥神社とともに千三百石を賜った。天正3年(1575年)10月20日には織田信長から社領安堵の朱印状を受けている。古くから幼児の虫封じに霊験があるとも伝えられる。本殿は豊臣秀頼の造営によるもので、摂社の春日社・住吉社とともに国の重要文化財に指定されている。
「難波大社」「いくたまさん」と呼ばれる大阪最古級の古社。社伝では、神武天皇が東征の途上で難波碕(現在の大阪城付近にあたる石山碕)に至り、日本の国土そのものの神である生島大神・足島大神を祀って国家の安泰を祈ったことに始まるとされる。『日本書紀』孝徳天皇即位前紀には、難波宮の造営に際して「生國魂社の樹」が伐られたという記事が見え、『延喜式』神名帳には「難波坐生國咲國魂神社 二座」として名神大社に列している。中世は現在の大坂城の地に鎮座していたが、天正8年(1580年)の石山合戦の兵火で焼失。豊臣秀吉による大坂城築城にともない、社領三百石の寄進と社殿の造営を受けて天正13年(1585年)に西成郡西高津村の現在地へ遷座した。相殿に大物主大神を祀る。
大阪市中央区久太郎町に鎮座する旧官幣中社で、生井神・福井神・綱長井神・阿須波神・波比岐神の五柱を総称して坐摩大神と称する。『古語拾遺』などによれば神武天皇の即位に際して神勅により宮中に奉斎されたのが起源とされ、社名は土地や居住地を守る「居所知」が転じた名称という。社伝では神功皇后が新羅からの帰還の折、淀川南岸の田蓑島(現在の天満橋西方、石町付近)に奉祀したのが始まりとされる。『延喜式』には摂津国西成郡唯一の大社と記され、天慶2年(939年)以降は祈雨十一社の一つに列した。天正10年(1582年)の豊臣秀吉による大坂築城に際して替地を命じられ、寛永年間に現在地へ遷座した。鎮座地名の「渡辺」は旧社地の地名を移したもので、渡辺姓発祥の地とされる。現在の社殿は昭和11年(1936年)の官幣中社列格時に造営されたものを、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造で戦前の姿のまま復興したもの。
公式サイトの社伝によれば、永久元年(1113年)11月20日、この地の開発にあたって大神を勧請し氏神として奉ったのが起源とされる。境内に伝わる御影石の建石には「ゑみすのみや」と刻まれ、側面に「永久三乙未年三月」(1115年)の年紀があることから、平安時代末期には鎮座していたとみられる。祭神は恵美須大神(事代主大神)・天照皇大神・八幡大神の三柱で、創建以来「えびす様」として信仰されてきた。大阪湾が深く入り込んでいた時代にこの地を開いたのは漁業を営む人々だったと伝わる。元亀元年(1570年)には三好氏が野田城を築き、当社を城の守護神として武士の信仰も集めた。江戸時代には商都大坂の発展とともに「福の神」として商人の崇敬を受けるようになった。
大阪市阿倍野区北畠に鎮座し、南北朝時代に南朝方として各地を転戦した北畠顕家と、その父・北畠親房を祀る。社地は顕家が戦った古戦場にあたり、近くの北畠公園には顕家の墓と伝えられる場所がある。この古戦場と墓所の由縁により明治18年(1885)に創建され、鎮座に際して、南朝の中心人物として活躍した父・親房も併せて祀られた。夏祭の本宮祭にあたる7月22日には、北畠公園の顕家墓所まで渡御式が斎行され、あわせて夏を無事に乗りきることを祈る夏越祓の儀式も行われる。
大阪・道修町は豊臣期の頃から薬種取引の場として薬種業者が集まる町だった。薬は人命に関わるうえ品質の見極めが難しいことから、神の加護を得て職務を正しく果たそうと、安永9年(1780)に京都の五條天神から少彦名命を仲間の寄合所へ迎え、以前から祀っていた中国医薬の祖神・炎帝神農と併せて祀ったのが始まりとされる。以来「神農さん」の愛称で親しまれ、日本医薬総鎮守として病気平癒・健康成就の信仰を集めてきた。文政5年(1822)に大坂でコレラが流行した際、薬種仲間が虎の頭骨などの和漢薬を配合した丸薬「虎頭殺鬼雄黄圓」を作り、病名と薬に「虎」の字が当てられていたことから張り子の虎の守りとともに施与した。これが家内安全・無病息災を願う当社独自の授与品として全国へ広まった。
旧記によれば、文禄年間(1592〜1595)に出雲国意宇郡の熊野大社(現在の島根県松江市)から御分霊を迎えて祀ったのが創建と伝わる。当初は牛頭天王社と呼ばれ、創立以来この地の鎮守として信仰されてきた。明治5年(1872)に村社に列せられ、社号を現在の彌榮神社に改めている。明治43年(1910)には旧岡村の御館神社を合祀した。御祭神は素戔嗚尊と仁徳天皇。7月の夏祭では御神輿と鳳輦を中心とした行列が氏地を巡り、天王寺区餌差町の味原御旅所と生野区勝山北の岡御旅所へ渡御する。鶴橋・桃谷の市街地に鎮まる氏神として、今も地域の祭礼の中心となっている。
大阪湾を西に望む高師浜の松林に鎮座する式内社で、旧郷社。創建の年代は詳らかでないが、白雉元年(650年)の鎮座と伝えられ、平安時代の『延喜式』神名帳にも「高石神社」の名が記される古社である。古くは天神の社と呼ばれていた。祭神は少彦名命に天照大神と熊野坐神を合わせ祀る。鎮座地の高師浜は万葉の時代から白砂青松の景勝地として和歌に詠まれてきた土地で、境内には往時の面影を残す松林が広がり、百人一首の歌碑も置かれている。紀州街道が近くを通ることから熊野詣との関わりも深く、境内には熊野権現の御拝所が残る。海に生きる人々の信仰も篤く、船乗りが航海の願解きに相撲を奉納する慣わしがあったと伝わる。
堺の鉄砲鍛冶・芝辻理右衛門にゆかりの深い神社です。境内の案内板によれば、理右衛門は慶長14年(1609)に徳川家康の命を受け、国内で初めての鉄製大型大砲を鋳造しました。さらに慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際しては短期間で多数の鉄砲を仕上げるよう命じられ、その功により元和元年(1615)に高須の地を与えられます。芝辻家は自家と堺の鉄砲鍛冶の繁栄を願い、この地に稲荷明神を勧請して当社を建てたと伝えられます。祭神は豊受大神・猿田彦命・大宮姫命・大物主命の四柱で、豊受大神が稲荷神と重ねて信仰されることから「高須のお稲荷さん」と呼ばれ親しまれてきました。社名は阪堺電気軌道の停留場名にも採られ、鉄砲鍛冶の町として栄えた堺北部の歴史を今に伝えています。
狭山池の北東の高台に鎮座する式内社で、旧社格は郷社。創建年代は不詳だが、社伝では崇神天皇の勅願により、狭山池が築かれるより前から祀られていたと伝える。『延喜式』神名帳には、現在は境内に合祀されている狭山堤神社とともに、河内国丹比郡の大社として記載されている。南北朝時代にはこの一帯が南北両軍の争う地となって社殿がたびたび兵火にかかり、現在の本殿は室町時代中期、明応2年(1493年)ごろの再建と推定されている。室町期から江戸期にかけては牛頭天王社とも称した。主祭神は天照大神と素盞嗚命で、狭山連の祖神とされる臣狭山命や天児屋根命を配祀し、明治の神社合祀により大山祇神・稲田姫命なども合わせ祀る。狭山郷の鎮守として今も崇敬を集めている。
創建年代は不詳だが、昭和10年(1935)の本殿修理の際に平安時代中期の瓦が発見され、その頃までさかのぼる古社と考えられている。錦織という地名は、百済から渡来した人々が綾織・錦織の技術を伝えて朝廷に献じたことに由来するとされ、当社もその一族の氏神として祀られたと伝わる。大和川支流の石川の谷に位置することから、建水分神社・美具久留御魂神社とともに河内国の三水分社の一つに数えられ、古くは『水郡神社』とも呼ばれた。現在の本殿は正平18年(1363)に三善貞行が再建したもので、総檜皮葺・漆塗り、丸みを帯びた唐破風の上に三角形の千鳥破風を載せた装飾性の高い建築として知られる。本殿と摂社天神社本殿・摂社春日社本殿の3棟が国の重要文化財に指定されている。明治40年(1907)に現在の社名へ改称された。
『延喜式』神名帳に河内国石川郡の式内社として載る古社で、旧社格は郷社。社伝では崇神天皇10年、この地に五彩の大蛇が現れたのを大国主命の荒御魂の現れとみて祀ったのが始まりとされ、のちに丹波からの神懸かりによって「美具久留御魂」の神名を贈られたと伝える。『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)12月の条には「河内国和爾神の階を進め、従五位上を加う」とあり、当社は和爾神社の別名でも呼ばれてきた。本殿には五座を祀り、中央に美具久留御魂神、左に天水分神・弥都波廼売命、右に国水分神・須勢理比売命を配して、水を司る神への信仰を伝えている。羽曳野丘陵の東斜面中腹、標高約103メートルの地に鎮座し、富田林市の文化財解説では「下水分(しもすいぶん)神社」の通称でも紹介されている。
正式名称は小松神社だが「星田妙見宮」の名で広く知られる。創建は平安時代の弘仁年間(810〜824年)と伝わり、弘法大師空海が交野を訪れて獅子窟寺で秘法を唱えた際、天上から七曜の星(北斗七星)が交野の三か所に分かれて降ったという降星伝説を起源とする。その一つが落ちたとされる地が当社で、大師自ら妙見を祀ったのが始まりという。江戸時代までは仏教では北辰妙見大菩薩、陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神として信仰され、明治の神仏分離を経て天之御中主大神ほかを祭神とするようになった。御神体は影向石と呼ばれる巨岩で、織女石(たなばたせき)とも呼ばれ、古代の磐座信仰の名残とされる。平成28年(2016年)には鎮座1200年の奉祝大祭が営まれた。
大阪府堺市西区草部に鎮座し、彦坐王・神武天皇・道臣命を主祭神とする。彦坐王は、この一帯を拠点とした豪族・日下部首氏の祖神とされる。創建の経緯は詳らかでないが、本居宣長『古事記伝』は、神武天皇が東征の際に上陸し長髄彦と最初の戦いをした「日下の蓼津」をこの一帯に比定している。明治44年(1911)に近隣の八坂神社・熊野神社・菅原神社を合祀し、旧八坂神社の社地へ遷座した。現在の社地・本殿・神門は旧八坂神社のもので、拝殿は旧菅原神社から移築されたものである。本殿は、その前にあった石燈籠に「正平二十四年卯月八日」(正平24年/1369年)の銘が刻まれていることや建築様式から、その頃の建立と考えられ、石燈籠とともに大正6年(1917)に国の重要文化財に指定された。本殿の蟇股には多彩な彫刻が施される。神門は江戸時代の作で堺市指定文化財。
開運の参拝先を選ぶときは、所在地だけでなく、御祭神・由緒・アクセスを合わせて確認すると巡りやすくなります。大阪府内で複数の神社を比較し、旅程に合う場所から参拝先を絞り込んでください。
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