由緒
社伝によれば、敏達天皇の御願により宮中で祀られていた菅生石部神を、用明天皇即位元年(585年)にこの地へ遷したのが創祀と伝わる。越の江沼の地の農桑を励ます思し召しにより、当地方の鎮護と五穀豊穣、万民の富饒が祈願されたと伝えられる。菅生石部神は天津日高日子穂穂出見命・豊玉毘売命・鵜葺草葺不合命の三柱の総称で、五穀豊穣、疫病退散、安産育児の守護神として信仰されてきた。天武天皇の代には御願神事が始められたと伝えられ、この神事は今も2月10日に「竹割まつり」の名で受け継がれている。延喜式神名帳に記載される式内の古社で、越前国三宮、加賀国二宮として朝廷の崇敬を受け、天慶3年(940年)には正四位下に叙されたと伝わる。木曾義仲や足利義持、豊臣秀吉、前田利家をはじめとする前田家からも寄進や奉納を受け、明治29年に国幣小社へ列格した。社宝として、国の重要文化財である蒔絵角赤手箱と正親町天皇宸翰御詠草を伝える。