由緒
緑川が急峻な山間を抜けて平野が広がり始める右岸の丘陵地に鎮座する阿蘇神社の摂社で、阿蘇社の二の宮とされ、阿蘇神社・健軍神社・郡浦神社とともに「阿蘇四社(四ヶ社)」と総称される。12世紀には阿蘇本社領の末社領となり、中世以降「阿蘇家文書」にたびたび登場する。肥後の御家人・竹崎季長が元寇での奮戦を描かせた『蒙古襲来絵詞』は当社に奉納されたと伝えられる。参道には江戸時代に奉納された、灯籠を担ぐ力士像と灯籠に乗る龍という珍しい一対の灯籠が立つ。
熊本県に鎮座する神社です。御祭神は八井耳玉命。開運のご利益で知られます。
緑川が急峻な山間を抜けて平野が広がり始める右岸の丘陵地に鎮座する阿蘇神社の摂社で、阿蘇社の二の宮とされ、阿蘇神社・健軍神社・郡浦神社とともに「阿蘇四社(四ヶ社)」と総称される。12世紀には阿蘇本社領の末社領となり、中世以降「阿蘇家文書」にたびたび登場する。肥後の御家人・竹崎季長が元寇での奮戦を描かせた『蒙古襲来絵詞』は当社に奉納されたと伝えられる。参道には江戸時代に奉納された、灯籠を担ぐ力士像と灯籠に乗る龍という珍しい一対の灯籠が立つ。
甲佐神社の御祭神は八井耳玉命です。
10月9日
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加藤清正を主祭神とし、清正に殉じた家臣の大木兼能と韓人金宦(良甫鑑)を相殿に祀る。慶応4年(1868)、熊本藩主細川韶邦の弟・長岡護美の建議により、本妙寺にある清正の廟所「浄池廟」を神道式で守るよう朝廷から命じられたのが始まり。神仏分離令の後、明治4年(1871)に熊本城内に社を建てて錦山神社と称したが、城内に熊本鎮台が置かれたため明治7年に京町台へ遷り、西南戦争で失った社殿を明治19年に再建した
熊本城稲荷神社は倉稲魂命を祀る神社。商売繁盛・縁結びのご利益で知られ、熊本城内に鎮座する由緒ある神社です。
延久3年(1071)、肥後国司の菊池則隆が摂津の住吉宮から分霊を勧請し、海上安全の守護神として創建したと伝わる。以後は菊池氏の手厚い保護を受けたが、戦国期の争乱で社殿を失った。寛文13年(1673)に熊本藩主の細川綱利が現在地へ再建し、以降は藤崎八旛宮・北岡神社とともに細川家歴代が崇敬する肥後三大社の一つに数えられた。藩主の参勤交代の航路や、有明海に生きる地域の海上安全が祈願され、雨乞い祈祷の記録
文安元年(1444年)、伊勢神宮を篤く信仰していた太田黒孫七郎が天照大神の託宣を受け、翌文安2年(1445年)に伊勢の神を当地へ勧請して創建したと伝わる。孫七郎は菊池氏六代隆直の末裔とされ、伊勢へ足しげく参宮したことから「飛行孫七郎」と呼ばれた逸話が残る。天正年間(1573〜1592年)に佐々成政によって社殿が焼かれたが、のちに加藤清正が再興して崇敬を寄せ、細川家の代になると手厚い保護を受けた。幕