熊本県で開運の神社を選ぶポイント
開運の参拝先を選ぶときは、所在地だけでなく、御祭神・由緒・アクセスを合わせて確認すると巡りやすくなります。熊本県内で複数の神社を比較し、旅程に合う場所から参拝先を絞り込んでください。
熊本県で開運のご利益を目的に参拝したい神社を一覧で紹介します。
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加藤清正を主祭神とし、清正に殉じた家臣の大木兼能と韓人金宦(良甫鑑)を相殿に祀る。慶応4年(1868)、熊本藩主細川韶邦の弟・長岡護美の建議により、本妙寺にある清正の廟所「浄池廟」を神道式で守るよう朝廷から命じられたのが始まり。神仏分離令の後、明治4年(1871)に熊本城内に社を建てて錦山神社と称したが、城内に熊本鎮台が置かれたため明治7年に京町台へ遷り、西南戦争で失った社殿を明治19年に再建した。明治42年(1909)、清正公三百年祭を機に加藤神社へ改称。昭和37年(1962)に念願の熊本城内への遷座を果たし、櫨方会所跡の現社地に鎮まる。令和7年には熊本地震からの復興を兼ねた「令和の大造営」を終えている。
熊本城稲荷神社は倉稲魂命を祀る神社。商売繁盛・縁結びのご利益で知られ、熊本城内に鎮座する由緒ある神社です。
文安元年(1444年)、伊勢神宮を篤く信仰していた太田黒孫七郎が天照大神の託宣を受け、翌文安2年(1445年)に伊勢の神を当地へ勧請して創建したと伝わる。孫七郎は菊池氏六代隆直の末裔とされ、伊勢へ足しげく参宮したことから「飛行孫七郎」と呼ばれた逸話が残る。天正年間(1573〜1592年)に佐々成政によって社殿が焼かれたが、のちに加藤清正が再興して崇敬を寄せ、細川家の代になると手厚い保護を受けた。幕末には思想家の林桜園がこの宮を深く崇敬し、宮部鼎蔵ら門下生も信仰を注いだ。敬神党(神風連)の首領・太田黒伴雄が祠官太田黒伊勢守に入婿して神主を務め、神風連の変の挙兵にあたって神意を問う宇気比が行われた社でもある。境内には伴雄が身を清めたと伝わる「みそぎの井戸」が残る。旧社格は郷社で、地元では「伊勢宮さん」と親しまれている。
南北朝時代に南朝方として戦った菊池氏を祀るため、明治3年(1870年)4月28日に菊池城址の丘で鎮座祭が行われました。発端は慶応4年(1868年)、熊本藩から明治新政府の参与に出仕した細川家一門の長岡護美が、菊池氏と加藤清正を祀る神社の創建を建議したことにあり、同年7月18日に太政官がこれを採択して熊本藩に祭祀を命じています。鎮座時は第12代菊池武時を主祭神とし、第13代武重と第15代武光を配祀神としていましたが、大正12年(1923年)に武重と武光も主祭神となり、三柱を主祭神とする現在の形になりました。あわせて菊池一族26柱を配祀しています。社格は明治6年(1873年)に郷社、明治8年(1875年)に県社、明治11年(1878年)に別格官幣社へと昇格し、現在は別表神社です。境内には菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物を展示する菊池歴史館が置かれています。
平成16年(2004年)春、南阿蘇村河陰の土地造成中に重機が大きな岩に当たり、取り壊そうとすると重機が繰り返し故障したという出来事に始まると伝えられる。工事に携わっていた人物が夢のお告げに従って宝くじを買ったところ当選したことから岩を掘り出して祀り、その話が広まって岩は「当銭岩」と呼ばれるようになった。当選者らの寄進によって宝来宝来神社として建立された。社名は「陽幸和福招金萬宝来(ようこうわふくしょうきんまんほうらい)」の御神言に由来する。境内には御神体の当銭岩のほか、ぽっくり天狗、夫婦白蛇、大龍神、縁結び宝来観音など多くの祠や神像が寄進によって整えられ、金運祈願の社として県内外から参拝者を集めている。
熊本県八代市妙見町に鎮座し、「妙見宮」の名で親しまれる。社伝によれば妙見神は680年(白鳳9年)の秋、中国の明州から亀蛇(きだ)の背に乗って海を渡り、八代郡竹原津に上陸したと伝えられる。その後、益城郡の千代松峯を経て758年に八代郡横嶽の嶺へ移って上宮が開かれ、795年に桓武天皇の勅願で上宮の社殿が、1160年に二条天皇の勅願で中宮が、1186年に後鳥羽天皇の勅願で下宮が創建されたという。信仰は北極星と北斗七星を仰ぐ星辰信仰に発し、のちに天之御中主神・国常立尊と習合した。1622年には加藤氏により殿宇が造営され、明治初年の神仏分離で白木山神宮寺の十五坊が廃されて八代神社となった。
熊本市東区健軍本町に鎮座し、熊本市内で最も古い神社とされる。古くは「たけみや」と呼ばれ、のちに「けんぐん」と読まれるようになった。阿蘇神社を中心とする阿蘇四社の一つに数えられ、健軍大神・健磐龍命を祀る。市電通りに立つ大鳥居から社殿まではおよそ1200mにわたって「八丁馬場」と呼ばれる長い参道が続き、その並木には加藤清正の頃に植えられたと伝えられる杉並木の一部が今も残る。明治10年(1877年)2月22日には、西南戦争で薩軍を救援するために結成された熊本隊がこの地で挙兵しており、近代史の舞台ともなった。
八代平野の北部、氷川町宮原に鎮座する旧郷社。伊勢神宮内宮の天照皇大神、近江日吉社の国常立尊、山城下鴨社の神武天皇の三神を祀ることから三神宮と称する。社伝では平治元年(1159年)、二条天皇の勅命を受けた平重盛が平盛俊に命じて社殿の造営を始め、応保元年(1161年)に落成、盛俊の弟盛房が社司となって神霊を勧請したと伝え、当初は三宮社と呼ばれた。天正16年(1588年)にキリシタン大名小西行長の焼き討ちで社殿を失うが、慶長年間に加藤清正によって復興され、その後は細川氏の保護を受けた。現在の社殿は天保10年(1839年)の造営である。明治の神仏分離により別当の神蔵寺を廃して社号を宮原三神宮と改め、八代北部一帯の総鎮守として崇敬されてきた。
肥後細川家の筆頭家老を務めた松井家の初代・松井康之と、八代城主となった二代・興長を祀ります。明治14年(1881年)、松井家の旧家臣団やゆかりの人々によって創建された比較的新しい神社で、旧社格は郷社です。境内地はもと八代城の北の丸にあたり、元和8年(1622年)に加藤正方が母・妙慶禅尼の隠居所を建てた場所でした。加藤家改易後は茶人としても知られる細川忠興(三斎)の居所となって庭園が整えられ、興長が八代城主に任じられてからは松井家代々の居館が置かれています。境内の茶庭と心字池は市指定史跡で、忠興手植えと伝わる臥龍梅は熊本県指定天然記念物。枝が竜の臥す姿のように曲がりくねることからこの名があり、2月下旬から3月初めにかけて淡紅色の八重の花を咲かせます。
松橋熊野宮、松橋権現社とも呼ばれる熊野系の社。創建については、永承4年(1049)に勅を受けて勧請されたとする伝えと、社家である下田家の祖・下田伊予守惟勝が夢のお告げを受けて熊野権現を勧請したとする伝えの二つが残る。室町時代には宇土城主の菊池氏や名和氏から寄進・保護を受けた。慶長4年(1599)、キリシタン大名・小西行長により社殿が焼き討ちに遭ったため神体を山中へ避難させ、加藤清正の時代になって現在地に復興したと伝えられる。旧社格は村社。境内には推定樹齢700〜800年とされる大楠がそびえ、恵比須社・天神社・水神社の石祠が末社として祀られている。
永暦元年(1160)、当時の領主であった阿蘇大宮司惟恭が、阿蘇の神である健磐龍命の分霊を池田村亀ノ甲の地に勧請し、領内鎮護の神として創建したと伝わる。祭神は健磐龍命・国龍命・若彦神の三柱。天正19年(1591)に小西行長の兵火で社殿を焼失し、長い仮殿での奉斎を経て延宝6年(1678)に現在の片平の地へ遷宮・再建された。明治6年(1873)に郷社に列格。江戸時代前期の様式を残す楼門と狛犬は美里町指定文化財で、境内のイチョウは「ふるさと熊本の樹木」に登録されている。平成22年(2010)には鎮座850年を記念する式年祭が執り行われた。
緑川が急峻な山間を抜けて平野が広がり始める右岸の丘陵地に鎮座する阿蘇神社の摂社で、阿蘇社の二の宮とされ、阿蘇神社・健軍神社・郡浦神社とともに「阿蘇四社(四ヶ社)」と総称される。12世紀には阿蘇本社領の末社領となり、中世以降「阿蘇家文書」にたびたび登場する。肥後の御家人・竹崎季長が元寇での奮戦を描かせた『蒙古襲来絵詞』は当社に奉納されたと伝えられる。参道には江戸時代に奉納された、灯籠を担ぐ力士像と灯籠に乗る龍という珍しい一対の灯籠が立つ。
和銅6年(713)、元明天皇の御代に宇土の総鎮護として創建されたと伝わる古社。当初は春日大神と住吉大神を祀り、平安時代の1048年に八幡大神を合わせ祀って「三宮大明神」と称され、今も「三宮さん」の名で親しまれる。天正16年(1588)、キリシタン大名であった宇土城主・小西行長により社殿を焼かれたが、慶長6年(1601)に加藤清正が現在地に再興し、その後は肥後熊本藩主細川家代々の保護を受けた。明治4年(1871)に西岡神宮と改称。境内には神の宿る岩「磐座 百官石」があり、例祭で奉納される御獅子舞は熊本県指定の無形民俗文化財となっている。
和銅6年(713)、元明天皇の勅願により国郡鎮護のため創建されたと伝わる古社。祭神の海童神(わだつみのかみ)が巨大なエイの背に乗ってこの地に鎮座したという伝承があり、地形がエイの尾にあたることから「永尾」の地名が生まれ、尾が剣の形であることから「剱神社」とも呼ばれる。不知火海(八代海)に面して海中に鳥居が立ち、旧暦8月1日の八朔の未明には、日本書紀にも記される怪火「不知火」が沖合に現れる地として知られる。菅原道真公・大山祗神・火産霊神なども合わせ祀り、胃腸病平癒の御神徳でも崇敬される。旧社格は村社。
天養元年(1144)の創建と伝わる古社で、肥後国三宮とされる。主祭神の蒲智比咩命は古くから当地の近くに祀られていた姫神で、のちに阿蘇神社の健磐龍命、国造神社の速瓶玉命、神武天皇が合わせ祀られた。阿蘇神社・甲佐神社・健軍神社とともに「阿蘇四社」と称され、阿蘇信仰の広がりを示す神社として知られる。境内には平安時代初期のものとされる石造五重塔や、明治9年(1876)の神風連の変で自刃した六烈士ゆかりの石碑が残る。旧社格は郷社。
社伝によれば、神武天皇の孫・健磐龍命が阿蘇へ下向する途中この地で休み、幣帛を立てて天神地祇を祀ったのが始まりとされる。延喜年間(901〜923)に阿蘇大宮司友成が神殿を造営して伊勢両宮を祀り、幣立社と号した。天養元年(1144)には阿蘇十二神が合祀されて大野郷の総鎮守となる。現社殿は享保14年(1729)に肥後藩主細川宣紀が改修したもので、明治6年(1873)に郷社に列した。祭神は神漏岐命・神漏美命など。高天原伝承の地と仰がれ、神漏岐・神漏美命が天降ったと伝わる檜の御神木や、世界人類の調和を祈る五色神祭で知られる。
正治2年(1200)11月、坂梨弥吾助が阿蘇神社から勧請したと伝わる阿蘇神社系の神社で、阿蘇の彦御子神(阿蘇惟人)を祀る。祭礼で奉納される子ども神楽は江戸時代に始まり270年以上の歴史を持ち、昭和54年(1979)11月に熊本県から顕彰された。舞手は1人・2人・4人の構成で九つの演目を舞う。境内には樹齢約800年と推定される大クスがそびえ、昭和40年(1965)2月25日に熊本県の天然記念物に指定されている。
建武中興十五社の一つ。後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州の南朝方を率いた懐良親王を主祭神とし、その跡を継いだ良成親王を配祀する。明治維新後、親王の墓所がある八代の住民から創建の請願が重ねられ、明治13年(1880)8月3日に太政官が創立を決定。明治17年(1884)4月20日、八代城本丸跡に社殿が完成して鎮座祭が行われた。旧社格は官幣中社。例祭の8月3日は創建決定の日にちなむもので、地元では「将軍さん」の愛称で親しまれている。
長久元年(1040)、肥後の阿蘇大宮司が家臣を遣わして阿蘇神社の分霊を勧請し創建されたと伝わる。御祭神は健磐龍命をはじめとする阿蘇十二神。天正年間には社領の没収や社殿の焼失に遭ったが、のちに加藤清正によって社領が回復されたと伝えられる。境内には、勧請の際に神霊を奉じた船を繋いだと伝わる御神木「船繋ぎの樟」(樹高約35m・幹周約13m、樹齢1300年以上)がそびえ、市指定天然記念物となっている。10月の秋季大祭は400年以上の歴史を持ち、奴舞・獅子舞・亀蛇舞の三つの伝統芸能が奉納される。
青井阿蘇神社は、大同元年(806)に阿蘇三神を勧請して創建されたと伝えられる人吉球磨の古社。相良氏入国以前から地域の信仰を担い、のち相良氏の崇敬も受けた。現在の社殿群は桃山様式を伝える建築として国宝に指定されている。
開運の参拝先を選ぶときは、所在地だけでなく、御祭神・由緒・アクセスを合わせて確認すると巡りやすくなります。熊本県内で複数の神社を比較し、旅程に合う場所から参拝先を絞り込んでください。
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