大社は、大きな由緒や地域信仰の中心性を持つ神社に用いられる社号です。出雲大社、諏訪大社、春日大社、伏見稲荷大社など、全国的に知られる信仰の中心が多く含まれます。
大社号の神社は、総本社や地域の信仰の核として参拝されることが多く、関連する分社・末社をたどる入口にもなります。
大社号を持つ由緒ある神社。
大社は、大きな由緒や地域信仰の中心性を持つ神社に用いられる社号です。出雲大社、諏訪大社、春日大社、伏見稲荷大社など、全国的に知られる信仰の中心が多く含まれます。
大社号の神社は、総本社や地域の信仰の核として参拝されることが多く、関連する分社・末社をたどる入口にもなります。
大社を参拝するときは、御祭神と信仰圏を先に把握すると理解が深まります。総本社の場合、同じ系統の神社をめぐる前後に参拝すると、信仰のつながりが見えやすくなります。
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熊野大社は加夫呂伎熊野大神(素戔嗚尊)を祀る神社。縁結び・厄除けのご利益で知られています。
南宮大社は金山彦命を祀る神社。金運・金属業守護のご利益で知られ、神代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
南洋神社は、日本の委任統治領であった南洋群島(現在のパラオ共和国などに相当)の行政庁所在地コロールに、群島全体の総鎮守として創建された神社である。1922年に南洋庁による統治が始まって以降、各地に民間有志の手による神社が建てられていたが、庁所在地のコロールには社が無かったため、紀元二千六百年記念事業の一環として1937年から用地選定が進められ、コロール島郊外のアルミズ高地に鎮座地が定められた。1938年から約2年をかけて社殿の造営が行われ、1940年2月には主祭神を天照大神とし、社格を官幣大社とすることが定められた。同年11月1日、勅使を迎えて鎮座祭が執り行われた。しかし太平洋戦争の終結にともない、1945年9月に社殿は焼却され、翌1946年1月には御霊代が宮内省へ遷され、神社としての歴史に幕を閉じた。跡地には1997年に日本の民間団体の手で小さな祠が設けられたが、御神体は宮内省へ遷されたままであり、神道上は先の官幣大社と連続性を持たないとされる。
建部大社は日本武尊を祀る神社。開運招福・厄除けのご利益で知られ、316年(景行天皇46年)伝承に創建された由緒ある神社です。
朝鮮神宮は、日本統治下の京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の南山に鎮座していた神社である。1919年に「朝鮮神社」として創立が仰せ出され、建築家・伊東忠太の設計により1920年から6年をかけて社殿が造営された。祭神には天照大神と明治天皇が祀られたが、創建に先立っては朝鮮の地の神や偉人を祀るべきとする檀君奉斎論も議論されたと伝わる。1925年6月に「朝鮮神宮」へと改称されて官幣大社に列せられ、同年10月には勅使が参向する鎮座式が執り行われ、朝鮮半島における中心的な神社として位置づけられた。しかし1945年8月の日本の敗戦により同月16日に御霊を送る儀式が執り行われ、神宝は宮内省に返納された。同年11月に廃社となり、社殿も解体された。跡地は現在、ソウル特別市の南山公園として整備されている。
樺太の豊原に建てられた官幣大社で、札幌神社と同じく大国魂命・大己貴命・少彦名命を祀りました。1910年に官幣大社とすることが決まり、翌1911年に鎮座祭が行われました。1945年の敗戦後に廃絶し、現存しません。
気多大社は大己貴命を祀る神社。縁結びのご利益で知られ、崇神天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
河内国一之宮とされる枚岡神社の起こりは、神武天皇の即位3年前と伝わる。東征の途上、天皇の命を受けた天種子命が国土平定を祈り、霊地とされる神津嶽(かみつだけ)に磐境を設けて天児屋根命と比売御神を祀ったのが始まりという。白雉元年(650)に平岡連らによって山麓の現社地へ遷り、神護景雲2年(768)に二神が春日の地に迎えられて春日神社(現・春日大社)に祀られたことから「元春日」と呼ばれる。宝亀9年(778)には春日から武甕槌命と経津主命(斎主命)を迎えて四殿となった。延喜式神名帳では名神大社に列し、明治4年(1871)に官幣大社となっている。鎌倉時代には西大寺の叡尊が蒙古襲来に際して当社で敵国降伏を祈ったと伝えられる。
明治39年(1906年)、出雲大社教の布教のため広島県出身の神職・宮王勝良が渡布し、ホノルルで開教したのが始まりとされる。明治40年(1907年)に最初の社殿が建てられ、大正11年(1922年)には出雲大社を模した大社造の社殿が完成した。太平洋戦争開戦後の1941年、分院長らはFBIに拘束されて米本土に抑留され、教団は解散、社地・社殿は市郡当局の管理下に置かれた。戦後1952年から返還運動が続けられ、1961年に教団側の勝訴によって社殿が戻り、1969年に竣工大祭が斎行された。大國主大神とハワイ産土神を主祭神とし、沖縄県出身移民の氏神など複数の御分霊も合祀する。出雲大社の分社として「出雲大社ハワイ分院」とも称される。
橘諸兄の母である橘三千代が、酒解神と酒解子神を祀って酒造の安全と子孫の繁栄を祈願したのが始まりと伝えられ、創建は奈良時代の750年頃とされる。当初は南山城の井手のあたりに鎮座していたが、嵯峨天皇の皇后である檀林皇后(橘嘉智子)が現在の梅津の地へ遷したという。皇后がこの社に祈って皇子を授かったと伝わることから授子・安産の神として信仰を集め、境内の「またげ石」は子授けの石として今も知られる。酒解神を祀ることから醸造の守護神としても崇敬され、4月中酉日の献酒報告祭(中酉祭)、11月上卯日の醸造安全繁栄祈願祭(上卯祭)が営まれる。ほかにも嵯峨天皇祭・檀林皇后祭・橘清友公祭など、橘氏ゆかりの人々を偲ぶ祭典が受け継がれている。
「難波大社」「いくたまさん」と呼ばれる大阪最古級の古社。社伝では、神武天皇が東征の途上で難波碕(現在の大阪城付近にあたる石山碕)に至り、日本の国土そのものの神である生島大神・足島大神を祀って国家の安泰を祈ったことに始まるとされる。『日本書紀』孝徳天皇即位前紀には、難波宮の造営に際して「生國魂社の樹」が伐られたという記事が見え、『延喜式』神名帳には「難波坐生國咲國魂神社 二座」として名神大社に列している。中世は現在の大坂城の地に鎮座していたが、天正8年(1580年)の石山合戦の兵火で焼失。豊臣秀吉による大坂城築城にともない、社領三百石の寄進と社殿の造営を受けて天正13年(1585年)に西成郡西高津村の現在地へ遷座した。相殿に大物主大神を祀る。
奈良盆地を流れる川が合流する河合の地に鎮座し、水を司る神として信仰されてきた。社伝では崇神天皇9年、廣瀬の河合の里長への神託により沼地が一夜で陸地に変わって橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建てて祀ったのが始まりという。『日本書紀』には天武天皇4年(675年)に大忌神を廣瀬の河曲に祀ったとあり、これが毎年4月と7月に営まれた大忌祭の起こりとされる。龍田の風神と一対をなす祭祀として朝廷に重んじられた。『延喜式』神名帳の名神大社で、朝廷奉幣二十二社のうち中七社の一社。弘仁13年に従五位、永保元年(1081年)に正一位を授けられ、明治4年に官幣大社へ列した。現在は神社本庁の別表神社である。
京都市北区に鎮座する旧官幣大社。奈良時代末期の創建で、『続日本紀』の延暦元年(782年)に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」との記載があり、当初は平城宮の宮中に祀られていた。延暦13年(794年)の平安遷都と同時に現在の平野の地へ遷座した。御祭神は今木皇大神・久度大神・古開大神・比賣大神の四座で、それぞれ源気新生と活力生成、竈と生活安泰、邪気を振り開く平安、生産力の神とされる。創建当初の境内は平安尺で1500メートル四方に及び、現在の京都御所とほぼ同じ広さだったが、時代とともに縮小して今は200メートル弱四方となっている。本殿は寛永2年(1625年)と同9年(1632年)に建てられた二殿一体の「平野造」で国の重要文化財、拝殿は慶安3年(1650年)の建立。境内では神職と桜保存会が桜の保存・育成を続けている。
JR両毛線岩宿駅の近く、みどり市笠懸町阿左美に鎮座する。明治の神仏分離以前の姿を守る神仏習合の社であることを掲げ、神と仏の双方を祀る点に特色がある。祀られるのは天地宇宙を司る造化三神、現世と霊界を司り因縁の浄化を導くとされる天照大御神・月読大御神・月輪観世音菩薩、商売繁盛や金運・良縁を導くとされる大國主大神をはじめとする福徳の神仏、学業や芸能を司る文昌帝君と菅原道真公など十二柱。護摩による祈祷、お祓い、御供養のほか、宗旨宗派を問わない相談や占術鑑定にも応じている。
近江神宮は、天智天皇を祀る大津市の神社。天智天皇が近江大津宮で営んだ政治と文化の遺徳をたたえ、昭和15年に創建された。漏刻による時の制度にちなみ、時の神・かるたの聖地としても知られる。
『日本書紀』顕宗天皇3年(487)の条に、任那へ派遣される阿閉臣事代に月神の託宣があり、朝廷が山背国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)の地を月神に奉って、壱岐の押見宿禰が社を造営し祠官として奉仕したと記されており、これが当社の創祀と伝わる。以後、押見宿禰の子孫(壱岐氏・卜部氏)が世襲の祠官として仕えた。斉衡3年(856)、度重なる桂川の氾濫を避けて現在の松尾山麓に遷座し、以後は秦氏や松尾大社との関係を深め、現在は松尾大社の摂社となっている。御祭神は月読尊。天文・卜占の神から転じて、近世以降は農耕の神、また安産の神として崇敬されている。
創祀年代は不詳です。この地の古代豪族・小槻山君の祖神である落別命(於知別命)を祀る式内社で、栗太郡八座の一つに数えられます。小槻氏は奈良時代に宮廷へ采女を出し、平安時代から明治に至るまで千年近く官務家として朝廷に仕えました。『日本三代実録』には貞観5年(863年)に従五位下、元慶6年(882年)に従五位上を授けられた記録があり、『日本紀略』には延喜11年(911年)に従四位下を受けたと見えます。中世には青地庄に拠った近江守護佐々木氏の分流・青地氏が篤く崇敬し、弘安4年(1281年)に青地基氏が本殿内陣の元宮殿を新造、康永年間には正一位の神位授与を朝廷に願い出て許されました。現在の本殿は永正16年(1519年)に青地元真が再建したもので、国の重要文化財に指定されています。配祀の大己貴命は、境内に接していた天台宗音楽寺との関わりから日吉西本宮を勧請合祀したものと推察されています。
素盞嗚尊を祀る上の宮「神の宮」と、天照大御神を祀る下の宮「日沉宮(ひしずみのみや)」の上下二社からなり、両宮を総称して日御碕神社と呼ぶ。社伝では、素盞嗚尊が柏葉を風で飛ばして鎮まる地を占い、その御魂を天葺根命が隠ヶ丘に奉斎したのが神の宮の起源とされ、日沉宮は天照大神の神勅により祀られたと伝わる。伊勢神宮が「日の本の昼」を守るのに対し、「日の本の夜を守れ」との勅命を受けたことが日沉宮の名の由来とされる。現在の社殿は徳川家光の命により寛永11年(1634)に着工し、寛永21年(1644)に竣工した権現造で、社殿群と境内の石造建造物は国の重要文化財に指定されている。
明治22年(1889)、明治天皇が南朝初代・後醍醐天皇の遺徳を偲んで創立を命じた神社で、明治25年(1892)の鎮座祭では、それまで吉水神社に奉安されていた後醍醐天皇の尊像が本殿へ遷された。祭神は後醍醐天皇。現在の社殿は昭和7年(1932)に改築された総檜造で、近代神社建築の代表作と評される。本殿が北を向いて建つのは、吉野で崩御した後醍醐天皇の京都への帰還の願いを汲んだものと伝わる。境内の摂社3社には日野資朝・児島高徳ら建武中興に尽くした7人の功臣が祀られている。
社伝では神武天皇2年、神武東征ののち初代紀伊国造となる天道根命が二種の神鏡を奉じて祀ったのに始まると伝えられ、創建2600余年と称される古社。同一境内に二つの本宮が鎮座し、日前神宮は日像鏡を御神体として日前大神を、國懸神宮は日矛鏡を御神体として國懸大神を祀る。両鏡は三種の神器の八咫鏡に先立って鋳造されたと伝えられ、伊勢の神宮に次ぐ宝鏡と尊ばれた。垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝わり、紀伊国一之宮として朝野の崇敬を集め、明治4年には官幣大社に列した。地元では「日前宮」の名で親しまれている。
大社は社号の一種で、由緒や信仰上の中心性を持つ神社に用いられます。すべての大社が同じ制度で決まったものではなく、歴史的背景も神社ごとに異なります。
出雲大社、諏訪大社、春日大社、伏見稲荷大社、松尾大社などが代表的です。地域や信仰系統ごとに重要な大社があります。
必ずしも同じではありません。ただし、大社号を持つ神社には特定信仰の総本社や中心的神社が多く含まれます。