兵庫県で開運の神社を選ぶポイント
開運の参拝先を選ぶときは、所在地だけでなく、御祭神・由緒・アクセスを合わせて確認すると巡りやすくなります。兵庫県内で複数の神社を比較し、旅程に合う場所から参拝先を絞り込んでください。
兵庫県で開運のご利益を目的に参拝したい神社を一覧で紹介します。
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社伝では推古天皇2年(594年)、この地の有力者・伊福部連駁田彦が神託を受けて創祀したと伝える。神託とともに稲種と水田を授かって耕したところ一粒万倍の大豊作となり、そこから一帯が「イイボ(粒・飯穂・揖保)」と呼ばれるようになったという伝承が残る。社名の「粒坐」は「粒(揖保の郡)に坐す」の意で、揖保の地名の語源ともされる。主祭神は天照国照彦火明神で、稲穂が熟して赤らむ「穂明かり」に由来する稲作・五穀豊穣の神として信仰されてきた。『延喜式』神名帳に載る名神大社にして朝廷の崇敬も厚く、近代社格では県社に列した。伊和神社・海神社とともに播磨三大社と称される。明治12年(1879年)に神仏分離を受けて現在の社号に復し、龍野の町を見下ろす日山(白鷺山)に鎮座している。
兵庫県豊岡市日高町上郷に鎮座する式内社で、但馬国の総社にあたる。旧社格は郷社。主祭神は大己貴命で、地元では「けたさん」と呼ばれ、近世までは「総社気多大明神」と称された。総社とは一国の主要な神社の神々を集めて祀る神社のことで、但馬国府が置かれたこの地域の中心的な社として崇敬されてきた。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳には但馬国気多郡の「気多神社」として記載され、式内社に列している。『播磨国風土記』宍禾郡御方里条には、葦原志許乎命(大己貴命)と天日槍命が黒葛を投げ合って国を占う争いをし、葦原志許乎命の投げた黒葛3本のうち1本が但馬の気多郡に落ちたという伝承が記され、郡名を冠するこの社が相当古くから鎮座していたことをうかがわせる。鎌倉時代の『但馬国太田文』によれば、大般若田4町、三十講田1町5反という社領があったとされる。
兵庫県赤穂市、旧赤穂城内の大石内蔵助屋敷跡に鎮座する神社。明治天皇の宣旨を契機として明治33年(1900年)に神社創立が公許されたが、造営資金が集まらず着工は明治43年(1910年)にずれこみ、大正元年(1912年)11月に四十七義士命を祀る神社として鎮座した。主祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と、討ち入り前に自刃した中折の烈士・萱野三平命。あわせて赤穂藩主浅野長直・長友・長矩の三代と、その後に赤穂を治めた森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀する。大石邸庭園には、元禄7年(1694年)に大石内蔵助が笠間から勧請したと伝える大石稲荷社が鎮座する。かつて藩民の信仰を集めた七つの古社は平成12年(2000年)に境内社合祀殿へまとめられ、山鹿素行命を祀る山鹿社や天満宮、八田社などが並ぶ。大願成就の神として広く信仰を集めている。
社伝によれば、神功皇后が外征からの帰途にこの地へ船を寄せ、加護を受けた大己貴命を国家鎮護のために祀ったのが始まりとされる。天禄年間(970〜972)に疫病が流行した際、神託により素盞嗚命と奇稲田姫命を合わせ祀ったところ疫病が鎮まったと伝わる。文禄元年(1592)には豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して参拝し、戦勝を祈願したと伝えられる。慶長6年(1601)、姫路城主の池田輝政が社地に高砂城を築くことを定めて社領を寄進し、慶長10年(1605)の築城にともなって社殿は西北の松林へ移された。元和元年(1615)の一国一城令で高砂城が廃されたのち、寛永2年(1625)に姫路藩主本多忠政が社領を寄進して旧地へ戻している。境内の「相生の松」は一つの根から雌雄二本の幹が立つ松で、尉(伊弉諾尊)と姥(伊弉冊尊)が宿る霊松と伝えられ、謡曲『高砂』ゆかりの社として知られる。現在の松は5代目にあたる。旧社格は県社。
創建の年代は明らかでない。江戸時代の初めに、古くからこの地で祀られていた帝釈天と、他村から迎えた王子権現を合わせ祀ったのが始まりと伝えられ、近世を通じて王子権現宮と称された。主祭神は大己貴命で、顕宗天皇と仁賢天皇を配祀する。明治44年(1911)には元清水神社を合祀している。新田開発の進んだ魚住の地で村の鎮守として信仰され、田植えを終えた6月下旬には豊作を祈る「おくわはん」の神事が今も続けられている。この行事は江戸時代に始まったとされ、明石市の無形民俗文化財に指定されている。例祭は10月17日。現在は近隣の住吉神社が兼務している。
創立の年月は火災で記録を失い不詳。社伝によれば、神功皇后が西征の途中に二見浦へ船を寄せて船子を集め兵糧を調えた際、土地の人々が食物を献じたことに由来し、神饌を調える場所を意味する「御厨」が社名になったと伝える。伊勢神宮の御厨(荘園)であったとする説もある。貞観年間(859〜877)に八幡宮を勧請し、延喜元年(901)に大宰府へ左遷される途上の菅原道真が船を二見浦へ寄せて社地に上陸したという所縁から、寛和年間(985〜987)に天満宮を勧請したと伝わる。長暦年間(1037〜1040)に現在地の「卯の花の森」へ遷り、以後は誉田別命・菅原道真・素盞嗚命の三座を相殿に祀る。道真が一夜を明かしたという「仮寝の岡」の伝承が残り、船頭や回船業者など海運関係者の信仰も集めてきた。境内には紅梅・白梅があり、紅梅は2月上旬から中旬、白梅は2月中旬から3月上旬に見頃を迎える。
創建の詳しい経緯は記録の散逸により不明だが、社に伝わる神具の銘から元禄2年(1689年)にはすでに祀られていたことが分かる。江戸時代前期から中葉にかけて、播州明石郡山田村の総鎮守として六社大明神の社を建て、六柱の神を祀ったのが創始とされる。明治初年の神仏分離令により明神号が廃されて六社神社となり、明治7年(1874年)2月に現在の社名である舞子六神社と改称した。明治10年(1877年)には落雷による火災で社殿を焼失し、のちに再建されている。明石海峡を望む高台に鎮座し、「まいこむの宮」の呼び名でも親しまれている。
推古天皇18年(610)の創建と伝わる古社で、延喜5年(905)制定の延喜式神名帳に摂津国の式内社として記載され、官幣社として神祇官から幣帛を供進された。主祭神は高比売神(下照姫神)、配祀神は天稚彦神。文徳天皇の綸旨以降代々の天皇の崇敬を受け、源頼朝の命を機に庶民の信仰も広まり、後宇多天皇が参籠したとも伝わる。いつしか「貴船大明神」と誤って崇められていたが、江戸時代の元文元年(1736)、幕命による考証で式内社・売布神社であることが判明し社名を改めた。衣・食・財の守護神として繊維・食料・金融業界の信仰が篤く、夫婦の神を祀ることから恋愛・結婚・就職の神としても崇敬される。境内のシイ林は市の天然記念物。
播磨国一宮。主祭神の大己貴神は播磨国内を巡歴して国造りを行い、最後に伊和の里で「我が事業は終わった」と仰せられて鎮まったと伝えられ、人々がその神徳を慕って社殿を営んだのが創祀とされる。「我を祀れ」との神託の後、一夜のうちに草木が生い茂り、石の上に二羽の大きな鶴が眠っていた場所に社殿を造営したという伝承があり、創建は成務天皇の甲申年(144)あるいは欽明天皇25年(564)と伝わる。延喜式では明神大社に列し、神階は正一位、明治の社格制度では国幣中社。古来、農工商など産業の神、縁結び・福の神、厄除け・病気平癒・交通安全の神として崇敬されてきた。配祀神は少彦名神・下照姫神。
神功皇后が三韓からの帰途、暴風雨に遭った際に綿津見三神を祀って天候の回復を祈ったのが創始と伝わる古社。祭神は上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神の三柱で、それぞれ海上・海中・海底を司り、航海安全や漁業繁栄の神として信仰されてきた。古くから海上交通と漁業の要地であった垂水の地にあって、神戸市垂水区の総氏神として崇敬を集める。
飛鳥時代に聖徳太子に仕えた渡来系氏族・秦氏の族長、秦河勝を大避大神として祀る。伝承では、河勝は太子の没後に難を避けて坂越に移り住み、没後にこの地の人々によって祀られたのが始まりとされる。平安時代末期にはすでに有力な神社であったといわれ、現在の拝殿と神門は延享3年(1746)、本殿は明和6年(1769)の再建。絵馬堂には約280年前の船絵馬をはじめ約40点の絵馬が掲げられている。秋の例祭に行われる「坂越の船祭り」は船渡御で知られる祭礼で、平成24年(2012)に国の重要無形民俗文化財に指定された。
『播磨国風土記』にその名が見える式内社で、祭神は大国主神の別名とされる葦原志許男神を祀る。社名は、祭神がこの地に杖を刺し植えて形見(御形見)としたという伝承に由来すると伝わり、但馬の神・天日槍命と境を定めたという説話でも知られる。若き日に根の国での試練を乗り越えた祭神の神話にちなみ、人生の節目や試練の折に心を鎮めて新たな歩みを祈る社として崇敬されてきた。室町時代後期に建立された本殿は国の重要文化財に指定されている。
創立年月は不詳。文武天皇の慶雲3年(706)、丹波・但馬両国で山災があった際に勅使が遣わされ幣帛を奉ったと伝わる古社で、承和9年(842)に官社に列し、貞観10年(868)には従五位上に進んだ。延喜式の制では名神大社に列せられ、延喜22年(922)には勅使の差遣があったと伝えられる。主祭神は大雷神で、須佐之男命・菅原道真を配祀する。康永2年(1343)に本殿階段の修理と本殿覆の建立、明暦2年(1656)には五味備前守により流造檜皮葺の本殿が再築された。明治6年(1873)村社に列し、明治26年(1893)に上佐野の須賀神社を合祀した。
創立年代は不詳だが、和銅元年(708)に祭神や歴代祭主を詳細に記した「粟鹿大明神元記」の写本(宮内庁所蔵)が残る、但馬国最古級と伝わる古社。国土開発の神と称され、延喜式の制では名神大社に列し、但馬国一宮として広く崇敬を集めてきた。兵庫県神社庁によれば主祭神は日子坐王で、開化天皇の第三皇子として四道将軍の一人に任ぜられ丹波一円を平定した人物とされ、粟鹿の地はその終焉の地、本殿後方の円墳は王の埋葬地と伝わる。約600年前の建立と伝わる勅使門は市指定文化財。例祭日の10月17日には特殊神事「瓶子渡し」が行われる。旧県社。
崇神天皇の時代、国内に疫病が流行した際、石の宝殿に鎮まる二神が夢に現れて祀られることを願ったのが創建の由来と伝わる。主祭神は大穴牟遅命・少毘古那命。御神体の「石の宝殿」は横約6.4m・高さ約5.7m・奥行約7.2m、推定約500トンの巨大な石造物で、水に浮かぶように見えることから「浮石」とも呼ばれ、日本三奇の一つに数えられる。誰が何のために造ったのかは今も解明されていない。天正7年(1579)には豊臣秀吉の焼き討ちに遭った。「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」として国の史跡に指定されている。
創建年代は不詳だが、大和朝廷の淡路進出に伴い、大和国の大和坐大国魂神社(現・大和神社)の神を分祀したと伝わる古社。平安時代の延喜式神名帳に載る三原郡唯一の式内大社で、淡路国二宮として高い社格を誇った。主祭神は大和大国魂神で、八千戈命・御年命・素盞嗚尊・大己貴命・土御祖神を配祀する。境内から出土した平安初期鋳造とされる銅印「大和社印」は兵庫県指定文化財で、当社の古い由緒を物語っている。
兵庫県赤穂市の御崎に鎮座する、赤穂市内唯一の延喜式内社。一千年以上前の延喜式神名帳にその名を載せる古社で、主祭神の伊和都比売大神は御崎の地名から「御崎明神」とも称され、朝廷や国司の尊崇を受けたと伝わる。もとは社前沖合の御前岩(八丁岩)の上に祀られていたが、天和3年(1683)に赤穂藩主・浅野長矩が現在地に遷した。海に向かって鳥居が立つ景勝の地にあり、古くから航海安全・大漁祈願の神、また縁結びの神として信仰を集める。境内には恵比須社と金比羅社が祀られている。
西宮神社はえびす大神を祀る神社。商売繁盛・福徳円満のご利益で知られ、不明(平安時代に記録あり)に創建された由緒ある神社です。
湊川神社は楠木正成公を祀る神社。国家安泰・開運招福のご利益で知られ、1872年(明治5年)に創建された由緒ある神社です。
伊弉諾神宮は、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀る淡路国一宮。国生み神話で淡路島を生んだ伊弉諾尊が余生を過ごした幽宮の旧跡と伝えられる。古くから国生みの島・淡路を象徴する神社として崇敬されてきた。
開運の参拝先を選ぶときは、所在地だけでなく、御祭神・由緒・アクセスを合わせて確認すると巡りやすくなります。兵庫県内で複数の神社を比較し、旅程に合う場所から参拝先を絞り込んでください。
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