京都府で開運の神社を選ぶポイント
開運の参拝先を選ぶときは、所在地だけでなく、御祭神・由緒・アクセスを合わせて確認すると巡りやすくなります。京都府内で複数の神社を比較し、旅程に合う場所から参拝先を絞り込んでください。
京都府で開運のご利益を目的に参拝したい神社を一覧で紹介します。
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京都府福知山市大江町内宮に鎮座し、天照大神を祀る。三重県の伊勢神宮より54年前に、大和地方から天照大神の御神体をこの地へ遷し、4年間お祀りした場所と伝えられることから「元伊勢内宮皇大神社」と呼ばれる。全国的にも珍しい黒木の鳥居をもち、静かな森の中に茅葺・神明造の本殿が鎮座する。本殿を中心に、樹齢2000年とされる御神木「龍燈の杉」や、2社の脇宮と83の小宮が前後左右を囲んでいる。近隣の豊受大神社(元伊勢外宮)、天岩戸神社とあわせて「元伊勢三社」と総称される。
橘諸兄の母である橘三千代が、酒解神と酒解子神を祀って酒造の安全と子孫の繁栄を祈願したのが始まりと伝えられ、創建は奈良時代の750年頃とされる。当初は南山城の井手のあたりに鎮座していたが、嵯峨天皇の皇后である檀林皇后(橘嘉智子)が現在の梅津の地へ遷したという。皇后がこの社に祈って皇子を授かったと伝わることから授子・安産の神として信仰を集め、境内の「またげ石」は子授けの石として今も知られる。酒解神を祀ることから醸造の守護神としても崇敬され、4月中酉日の献酒報告祭(中酉祭)、11月上卯日の醸造安全繁栄祈願祭(上卯祭)が営まれる。ほかにも嵯峨天皇祭・檀林皇后祭・橘清友公祭など、橘氏ゆかりの人々を偲ぶ祭典が受け継がれている。
京都市北区に鎮座する旧官幣大社。奈良時代末期の創建で、『続日本紀』の延暦元年(782年)に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」との記載があり、当初は平城宮の宮中に祀られていた。延暦13年(794年)の平安遷都と同時に現在の平野の地へ遷座した。御祭神は今木皇大神・久度大神・古開大神・比賣大神の四座で、それぞれ源気新生と活力生成、竈と生活安泰、邪気を振り開く平安、生産力の神とされる。創建当初の境内は平安尺で1500メートル四方に及び、現在の京都御所とほぼ同じ広さだったが、時代とともに縮小して今は200メートル弱四方となっている。本殿は寛永2年(1625年)と同9年(1632年)に建てられた二殿一体の「平野造」で国の重要文化財、拝殿は慶安3年(1650年)の建立。境内では神職と桜保存会が桜の保存・育成を続けている。
京都府亀岡市千歳町国分に鎮座する式内社で、旧社格は村社。火の神である火産霊神を主祭神とし、伊邪那美神・大国主神をあわせて祀る。社伝では、この社の分霊が京都の鷹ヶ峰に祀られ、のちに和気清麻呂によって嵯峨の愛宕山へ遷されて現在の愛宕神社になったと伝えることから、「元愛宕」あるいは「愛宕の本宮」と呼ばれ、全国に数多い愛宕社の総本宮ともいわれる。檜皮葺の一間社流造である本殿は鎌倉時代後期の建立と伝えられ、昭和52年(1977年)1月28日に国の重要文化財に指定されている。火伏せ・防火の神として広く信仰され、4月24日には鎮火祭が営まれる。愛宕山の愛宕神社と同様に「愛宕の三つ参り」の信仰が伝わり、3歳までに参詣すると一生火災に遭わないとされている。
京都市北部の京北地域、旧山国郷に鎮座する延喜式内社です。社伝では光仁天皇の宝亀年間(770〜780)の鎮座と伝えられ、延暦13年(794)の平安遷都にあたって大内裏造営の用材がこの郷から徴されたため一帯が御杣料地と定められ、修理職の官人が本殿を造営し、和気清麻呂が祭主を務めたといいます。以後、大嘗祭の悠紀殿・主基殿の用材を調える役も担いました。長和5年(1016)には三条天皇から正一位を賜り、御祈願所として菊花の紋章を許されたと伝わります。源平の争乱や元弘の乱でたびたび社殿を失いましたが、細川頼之の執奏により応永6年(1399)に復旧し、このとき足利義満が奉納した丸に二つ引きが以後の神紋となりました。慶長元年(1596)に後陽成天皇によって再建され、明治6年(1873)に郷社、明治33年(1900)に府社へ列格。幕末に官軍として東征した山国隊ゆかりの社としても知られます。
桓武天皇の弟・早良親王を祭神とする。親王は藤原種継暗殺事件に連座して廃太子となり、淡路へ配流される途上で没した。その後、都で疫病や近親者の不幸が相次いだことが親王の祟りとされ、鎮魂のために当社が創建されたと伝わる。創建年は詳らかでないが、御霊信仰が広まった貞観年間(859〜877)頃とされる。鎌倉から室町期にかけて周辺の廃絶した社を合わせ、上高野一帯の産土神となり、江戸時代には「高野御霊」と呼ばれた。明治41年(1908)には式内社・伊多太神社を境内へ遷座し、大正4年(1915)には出雲高野神社と小野神社を再興して合祀している。崇道天皇のみを祭神とする神社としては京都で唯一とされる。
光孝天皇の女御で宇多天皇の母である班子女王を祀る。昌泰3年(900年)に68歳で崩じた班子女王の陵墓が付近にあったことに由来し、多くの皇子皇女を生んだことから「福王子」の社名がついたとも伝える。前身は『延喜式』に名の見える深川神社とされるが、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468年)に焼失した。寛永21年(1644年)に徳川家光と仁和寺の覚深法親王によって社殿が再建され、以後は宇多天皇が開いた仁和寺の鎮守神、また近隣旧6か村の氏神として信仰されてきた。寛永再興の本殿・拝殿・鳥居は1973年に国の重要文化財に指定されている。境内には、氷室から宮中へ氷を運ぶ途中で命を落とした役夫の霊を慰める夫荒神社が末社として祀られている。
向日山に鎮座していた「向神社(上ノ社)」と「火雷神社(下ノ社)」を起源とし、いずれも延喜式神名帳に載る古社である。社伝では養老2年(718)に向神社が現在地へ鎮座したとされ、火雷神社は継体天皇の頃の創建と伝わる。建治元年(1275)に両社が合わせ祀られ、現在の向日神社となった。本殿は応永29年(1422)の再建で、室町時代の三間社流造を代表する建築として国の重要文化財に指定されており、明治神宮本殿の設計に際して参考にされたと伝えられる。本殿の覆屋や幣殿、拝殿、境内の門や摂末社など多数の建物も国の登録有形文化財となっている。地元では「明神さん」の名で親しまれている。
正式には御霊神社といい、京都御所の北、上京区上御霊竪町に鎮座する。下御霊神社に対して上御霊神社と通称される。延暦13年(794年)の平安遷都に際し、桓武天皇が非業の死を遂げた弟・早良親王(崇道天皇)の神霊をこの地に祀ったのが起こりと伝わる。以後、井上大皇后や他戸親王、橘逸勢、文屋宮田麻呂ら政争に倒れた人々の霊が加えられ、十三柱を祀るようになった。貞観5年(863年)には神泉苑で御霊会が営まれ、疫病を鎮める霊社として都人の厚い信仰を集めた。応仁元年(1467年)、畠山政長と畠山義就が境内の御霊の森で衝突したことから、応仁の乱の発端の地としても知られる。「こころしずめの社」と称され、厄除けや学業成就の祈願に訪れる人が多い。
社地は菅原道真の邸宅であった紅梅殿・白梅殿と、学問所「菅家廊下」の跡と伝えられ、道真誕生の地ともされています。境内には産湯に用いたと伝わる井戸が保存されており、大宰府へ左遷される道真が「東風吹かばにほひおこせよ梅の花」と詠みかけた飛梅の地であるとも伝えられます。創建は道真の没後まもなくと伝えられますが、その後たびたび兵火にさらされ、鎌倉時代には南北二つの社に分かれました。応仁の乱によって荒廃したのち、慶長19年(1614年)に再興されています。現在の本殿は天保6年(1835年)に造られたもので、明治2年(1869年)に他所からこの地へ移築されたものです。学問の神として、また道真ゆかりの地として参拝者を集めています。
『日本書紀』顕宗天皇3年(487)の条に、任那へ派遣される阿閉臣事代に月神の託宣があり、朝廷が山背国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)の地を月神に奉って、壱岐の押見宿禰が社を造営し祠官として奉仕したと記されており、これが当社の創祀と伝わる。以後、押見宿禰の子孫(壱岐氏・卜部氏)が世襲の祠官として仕えた。斉衡3年(856)、度重なる桂川の氾濫を避けて現在の松尾山麓に遷座し、以後は秦氏や松尾大社との関係を深め、現在は松尾大社の摂社となっている。御祭神は月読尊。天文・卜占の神から転じて、近世以降は農耕の神、また安産の神として崇敬されている。
豊臣秀吉公を祀る神社。秀吉の没後、慶長4年(1599)に京都・阿弥陀ヶ峰に葬られた秀吉を「豊国大明神」として祀るために創建された。元和元年(1615)の豊臣氏滅亡後、江戸幕府により廃絶されたが、明治元年(1868)に明治天皇が祭祀の復興を命じ、明治6年(1873)に別格官幣社に列格、明治13年(1880)に社殿が再興された。正面の唐門は伏見城の遺構と伝えられる国宝で、西本願寺・大徳寺の唐門とともに「京の三唐門」と称される。大正14年(1925)には北政所おね様を祀る貞照神社が創祀された。出世開運・厄除招福の神として全国から崇敬を集める。
明治元年(1868)、明治天皇の御沙汰により、維新に殉じた志士の霊を祀るため京都府や山口・高知・福岡・熊本・鳥取などの諸藩が東山霊山の山上に祠宇を建立したのが創祀で、日本の招魂社の嚆矢とされる。当初は「霊山官祭招魂社」と称し、昭和14年(1939)に内務大臣指定により京都霊山護国神社と改称した。坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允ら明治維新の志士から日清・日露戦争、大東亜戦争に至る戦没者約7万3千柱を祀る。山上の霊山墳墓には坂本龍馬・中岡慎太郎らの墓があり、命日の11月15日には墓前で龍馬祭が斎行される。
全国に約900社ある愛宕神社の総本宮で、京都市最高峰・愛宕山の山頂に鎮座する。大宝年間(701〜704)に修験道の祖・役行者と白山開祖の泰澄が朝日峰に神廟を建立したのが始まりと伝わり、天応元年(781)には慶俊僧都が中興し、和気清麻呂が白雲寺を建立して愛宕大権現を祀る鎮護国家の道場とした。神仏習合の山岳修験霊場として栄え、9世紀には七高山の一つに数えられたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶し愛宕神社となった。伊弉冉尊など五柱を祀り、古くから火伏・防火に霊験あらたかな神として知られ、「火迺要慎」の火伏札は京都の台所や厨房に広く貼られている。3歳までに参拝すると一生火事に遭わないという言い伝えもある。
弘仁2年(811)、修験道の祖・役小角から十世にあたる僧日圓が、国家護持のため紀州熊野大神を勧請したのに始まると伝わる。聖護院の守護神として奉祀され、平安末期には熊野信仰に篤い後白河法皇が社殿を修造し境内を寄進した。歴代天皇や庶民の信仰を集めたが応仁の乱で荒廃し、寛文6年(1666)聖護院門跡の助成により再興、天保6年(1835)に大修造が行われた。本殿に伊弉冉尊、相殿に伊弉諾尊・天照大神・速玉男尊・事解男尊を祀り、縁結び・安産・病気平癒の神として信仰される。
建仁2年(1202)、禅の祖といわれる栄西禅師が建仁寺を建立するにあたり、その鎮守として建てられたのが起源。西宮神社・大阪今宮戎神社と並んで「日本三大ゑびす」と称され、「えべっさん」の名で親しまれる。祭神は八重事代主大神・大国主大神・少彦名神。商売繁盛の縁起物として知られる笹は、もともと当社独自の御札の形態が広まったものとされる。平成14年(2002)には創建800年を迎え、記念行事が行われた。1月8日〜12日の「十日ゑびす大祭(初ゑびす)」には多くの参拝者で賑わう。
永暦元年(1160年)、後白河上皇が造営した御所・法住寺殿の鎮守として、比叡山東坂本の日吉山王七社を勧請したのに始まる。大山咋命をはじめとする日吉山王七柱を主神とし、後白河天皇を併せ祀り、相殿に素戔嗚尊・大年神を祀る。創建当初の社地は現在地より南にあったが、元和元年(1615年)に豊国廟社の破却に伴い旧廟前へ移り、明治30年(1897年)に現在地へ遷座した。酒造・医薬・縁結びの神として信仰を集めている。
梨木神社は、明治18年(1885)に三條實萬公を御祭神として創建され、別格官幣社に列した。大正4年(1915)、大正天皇即位式に際して三條實萬公の子である三條實美公を第二座御祭神として合祀した。社名は旧地名の梨木町に由来する。
平安神宮は桓武天皇・孝明天皇を祀る神社。開運招福・厄除けのご利益で知られ、1895年(明治28年)に創建された由緒ある神社です。
松尾大社は、大山咋神と市杵島姫命を祀る京都西部の古社。古代には松尾山の磐座を神体として祀った信仰に始まるとされ、大宝元年(701)に秦忌寸都理が社殿を造営したと伝えられる。平安京遷都後は王城鎮護の社として崇敬された。
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