伊勢・神明信仰は、天照大御神を中心に祀る信仰です。伊勢神宮を源流とし、皇室の祖神、太陽の神、国土を照らす神として全国の神明社へ広がりました。
地域の神明社は、伊勢まで参拝できない人々が身近に天照大御神を拝むための場としても大切にされてきました。
伊勢神宮を源流とし、天照大神を祀る神明信仰。
伊勢神宮を源流とし、天照大神を祀る神明信仰。信仰ごとの由緒や流れを踏まえて、神社を横断的に見比べる入口として使えます。
代表格として伊勢神宮 内宮を登録しています。
中心祭神は天照大御神です。
由来と信仰の広がりを整理します。
伊勢・神明信仰は、天照大御神を中心に祀る信仰です。伊勢神宮を源流とし、皇室の祖神、太陽の神、国土を照らす神として全国の神明社へ広がりました。
地域の神明社は、伊勢まで参拝できない人々が身近に天照大御神を拝むための場としても大切にされてきました。
伊勢・神明信仰を理解するうえで中心になる御祭神です。
天照大御神は、日本神話で高天原を治める太陽神で、伊勢神宮内宮の主祭神です。皇室の祖神とされ、国土を照らし、暮らしの根本を守る神として広く信仰されています。
神明社や皇大神宮を名乗る神社にも祀られることが多く、伊勢信仰・神明信仰をたどるうえで中心になる御祭神です。
伊勢・神明信仰の神社を訪れる前に押さえたい観点です。
神明社では、個人的な願いだけでなく、日々の感謝、家族の平穏、地域の安泰を伝える参拝がよく合います。伊勢参りの前後に地域の神明社へ参拝するのも自然な流れです。
有名神社を中心に、大社・一宮・総鎮守など比較の起点にしやすい神社をまとめます。
伊勢神宮 内宮は天照大御神を祀る神社。国家安泰・開運のご利益で知られ、紀元前4年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
朝鮮神宮は、日本統治下の京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の南山に鎮座していた神社である。1919年に「朝鮮神社」として創立が仰せ出され、建築家・伊東忠太の設計により1920年から6年をかけて社殿が造営された。祭神には天照大神と明治天皇が祀られたが、創建に先立っては朝鮮の地の神や偉人を祀るべきとする檀君奉斎論も議論されたと伝わる。1925年6月に「朝鮮神宮」へと改称されて官幣大社に列せられ、同年10月には勅使が参向する鎮座式が執り行われ、朝鮮半島における中心的な神社として位置づけられた。しかし1945年8月の日本の敗戦により同月16日に御霊を送る儀式が執り行われ、神宝は宮内省に返納された。同年11月に廃社となり、社殿も解体された。跡地は現在、ソウル特別市の南山公園として整備されている。
伊雑宮は、志摩市磯部町に鎮座する皇大神宮の別宮で、天照大御神御魂を祀る。志摩国の古い神宮信仰を伝える社で、地元では「いぞうぐう」とも呼ばれる。御田植式などの祭祀を通じ、伊勢・志摩の農耕信仰とも結びついている。
芝大神宮は天照大御神・豊受大御神を祀る神社。縁結び・商売繁盛のご利益で知られ、1005年(寛弘2年)に創建された由緒ある神社です。
開成山大神宮は天照大御神・豊受大神を祀る神社。厄除け・家内安全のご利益で知られ、1876年(明治9年)に創建された由緒ある神社です。
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大阪キタの中心、梅田・曽根崎の総鎮守で、通称「お初天神」。社伝によれば、上古に大阪湾へ浮かぶ小島の一つであった現在地に「住吉須牟地曽根ノ神」を祀ったのが始まりで、古代難波の「難波八十島祭」旧跡の一社とされる。創建年代は定かでないが、八十島祭が文徳天皇の嘉祥3年(850年)まで遡り、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察されている。社名は、昌泰4年(901年)に大宰府へ左遷される途中の菅原道真が当地で詠んだと伝わる「露と散る涙に袖は朽ちにけり」の歌にちなむとされ、元和8年(1622年)の社殿再建の際に道真公が相殿に合祀された。元禄16年(1703年)に境内で起きた心中事件を題材に近松門左衛門が『曽根崎心中』を著したことから、主人公お初の名にちなむ通称で広く知られる。現社殿は昭和20年6月の戦災で焼失した後、昭和32年9月に再建されたもの。
さいたま市浦和区岸町に鎮座し、地元では「つきのみや」と親しまれる。社伝『調宮縁起』によれば第10代崇神天皇の勅命による創建と伝わり、伊勢神宮へ納める調(貢)物の初穂を収めた倉庫群の中に造営されたため、貢物の搬出入の妨げとなる鳥居を設けないとされる。確かな文献では延喜5年(905年)に編纂が命じられた『延喜式神名帳』に武蔵国四十四座の一社として記載される。御祭神は天照大御神・豊宇気姫命・素盞嗚尊。「調(つき)」が「月」と同じ読みであることから、月の動物とされた兎が神使とされ、中世の月待信仰と結びついて江戸時代には月読社とも呼ばれた。南北朝期の延元2年(1337年)に足利尊氏の命で一色範行が荒廃した社殿を復興し、天正18年(1590年)の小田原兵乱で再び焼失したが徳川家康の関東入部後に再建された。現社殿は安政6年(1859年)竣工の総欅権現造である。
天禄元年(970)、伊勢の天照大御神が榛谷の峯に現れたという伝承にもとづき、平安時代中頃に創建されたと伝えられる。鎌倉時代初期の嘉禄元年(1225)には神託によって神明の下宮が造られて現在の地へ遷り、榛谷御厨八郷の総鎮守として広く崇敬を集めて隆盛した。元和5年(1619)に改めて現在地へ遷座し、江戸時代の慶安年間には朱印地4石1斗を安堵されている。明治6年(1873)に村社に列格。明治2年の社殿修営に際しては、明治天皇の御東行の折に本陣・苅部清兵衛宅へ臨時に設けられた鳳輦安置所の御用材を下賜されたと伝わる。平成10年(1998)には約380年ぶりの大造営が行われ、本社・摂末社・神楽殿など境内建物12棟が一新された。御祭神は天照大御神、摂社に豊受大御神を祀る。
愛知県岡崎市大高味町字向田の山あいに鎮座し、天照大神を祀る神社。地元では大川神明宮とも呼ばれる。境内には「大川神明宮の舞台」と称される農村舞台が残されており、明治15年(1882)に建てられた入母屋造・茅葺平入で、棟に千木を載せた特徴的な外観をもつ。間口12.28m、奥行9.41m、高さ10.9mの規模で、内部には直径6.7mの回り舞台(22個の木車を用いた皿回し式)と、3.6m×1.5mの穴を使ったせり出しの仕掛けを備え、地芝居の上演設備をよく伝えている。大正11年(1922)には市川団吉一座が上演するなど、昭和30年(1955)ごろまで実際に芝居の舞台として使われた。昭和51年(1976)11月1日に愛知県指定有形民俗文化財となり、現在も神明宮が所有・管理している。
サンマリノ共和国セラヴァッレのポデーレ・レジニャーノに鎮座する、ヨーロッパで初めて本格的に建立された神社。2011年の東日本大震災に心を痛めた駐日サンマリノ共和国特命全権大使マンリオ・カデロ氏の発案により建設が進められ、平成26年(2014)6月22日に東京大神宮の権宮司によって鎮座祭が斎行された。御祭神は伊勢神宮と同じ天照大御神で、世界平和と縁結びの神として祀られている。本殿は伊勢神宮と同じ神明造で、一部に伊勢神宮の古材が用いられ、日本で組まれた社殿を船で運んで現地で建て起こした。狛犬は靖国神社のものを写したレプリカで、愛知県岡崎市で製作されている。2024年には創建10年の記念式典が行われた。
京都府福知山市大江町内宮に鎮座し、天照大神を祀る。三重県の伊勢神宮より54年前に、大和地方から天照大神の御神体をこの地へ遷し、4年間お祀りした場所と伝えられることから「元伊勢内宮皇大神社」と呼ばれる。全国的にも珍しい黒木の鳥居をもち、静かな森の中に茅葺・神明造の本殿が鎮座する。本殿を中心に、樹齢2000年とされる御神木「龍燈の杉」や、2社の脇宮と83の小宮が前後左右を囲んでいる。近隣の豊受大神社(元伊勢外宮)、天岩戸神社とあわせて「元伊勢三社」と総称される。
神奈川県藤沢市鵠沼神明に鎮座し、天照皇大神を主祭神に、相殿として天手力男命・天太玉命・天児屋根命・天宇受売命・石凝刀売命を祀る。淳和天皇の天長9年(832年)に社殿を造立した記録が残り、勧請の時期はさらに遡ると考えられている。延喜式が撰進された醍醐天皇の頃には、藤沢・西富・大鋸・鵠沼・辻堂などを含む相模国土甘郷の総社とされ、「相模国土甘郷総社神明宮」と称された。長治元年(1104年)に鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮へ寄進して大庭御厨が成立すると、その広大な神領の総鎮守と定められ、いっそう篤い崇敬を受けた。寿永3年(1184年)には那須与一宗高が屋島で扇の的を射た弓と残りの矢を奉納したと伝わる。社殿は天喜3年(1055年)・元亨2年(1322年)・天正13年(1585年)・昭和60年と造営を重ねている。
伊勢国一之宮とされる都波岐神社と、同じく延喜式内社である奈加等神社を合わせ祀る神社。創立は雄略天皇の御代(5世紀後半)と伝えられる古社で、みちひらきの神とされる猿田彦大神を都波岐神社の祭神、天椹野命と中筒之男命を奈加等神社の祭神として、現在は一つの社殿に相殿の形で祀っている。本殿には平安時代に弘法大師が奉納したと伝わる獅子頭二体を御神体として納め、古くから中戸流獅子舞が受け継がれてきた。同じ鈴鹿市内の椿大神社とともに伊勢国一の宮を称し、全国から一の宮巡拝の参拝者が訪れる。2021年からは手水舎を季節の花で飾る花手水を始め、獅子頭と花をあしらった季節の御朱印を月替わりで頒布している。
社伝では推古天皇2年(594年)、この地の有力者・伊福部連駁田彦が神託を受けて創祀したと伝える。神託とともに稲種と水田を授かって耕したところ一粒万倍の大豊作となり、そこから一帯が「イイボ(粒・飯穂・揖保)」と呼ばれるようになったという伝承が残る。社名の「粒坐」は「粒(揖保の郡)に坐す」の意で、揖保の地名の語源ともされる。主祭神は天照国照彦火明神で、稲穂が熟して赤らむ「穂明かり」に由来する稲作・五穀豊穣の神として信仰されてきた。『延喜式』神名帳に載る名神大社にして朝廷の崇敬も厚く、近代社格では県社に列した。伊和神社・海神社とともに播磨三大社と称される。明治12年(1879年)に神仏分離を受けて現在の社号に復し、龍野の町を見下ろす日山(白鷺山)に鎮座している。
京都市北区に鎮座する旧官幣大社。奈良時代末期の創建で、『続日本紀』の延暦元年(782年)に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」との記載があり、当初は平城宮の宮中に祀られていた。延暦13年(794年)の平安遷都と同時に現在の平野の地へ遷座した。御祭神は今木皇大神・久度大神・古開大神・比賣大神の四座で、それぞれ源気新生と活力生成、竈と生活安泰、邪気を振り開く平安、生産力の神とされる。創建当初の境内は平安尺で1500メートル四方に及び、現在の京都御所とほぼ同じ広さだったが、時代とともに縮小して今は200メートル弱四方となっている。本殿は寛永2年(1625年)と同9年(1632年)に建てられた二殿一体の「平野造」で国の重要文化財、拝殿は慶安3年(1650年)の建立。境内では神職と桜保存会が桜の保存・育成を続けている。
伊勢神宮外宮(豊受大神宮)の末社の一社。外宮には末社が八社あり、そのひとつにあたる。祭神は葦原神。伊勢神宮崇敬会の解説によれば五十鈴川の河口を守る神とされ、港口の潮の神であることが社名からうかがえるという。現在は外宮境内の北御門側の参道から脇道へ入り、摂社・度会国御神社の先に鎮座する。神宮125社をめぐる参拝の一社として訪れる人が多い。
公式サイトの社伝によれば、永久元年(1113年)11月20日、この地の開発にあたって大神を勧請し氏神として奉ったのが起源とされる。境内に伝わる御影石の建石には「ゑみすのみや」と刻まれ、側面に「永久三乙未年三月」(1115年)の年紀があることから、平安時代末期には鎮座していたとみられる。祭神は恵美須大神(事代主大神)・天照皇大神・八幡大神の三柱で、創建以来「えびす様」として信仰されてきた。大阪湾が深く入り込んでいた時代にこの地を開いたのは漁業を営む人々だったと伝わる。元亀元年(1570年)には三好氏が野田城を築き、当社を城の守護神として武士の信仰も集めた。江戸時代には商都大坂の発展とともに「福の神」として商人の崇敬を受けるようになった。
長野県に鎮座する出雲系の神社です。御祭神は手力雄命、八意思兼命、大己貴命。縁結び・開運・家内安全のご利益で知られます。
宮崎県高千穂町岩戸に鎮座し、天照皇大神が弟・素盞鳴尊を避けてこもったと『古事記』『日本書紀』が伝える天岩戸そのものを御神体として祀る。岩戸川の渓谷を挟んで西本宮と東本宮が向かい合い、西本宮は大日霎尊(天照皇大神の別称)を、東本宮は天照皇大神を祀る。西本宮の社殿背後の断崖中腹に御窟があり、古くからその神域を御神体として拝してきた。東本宮に伝わる昌泰年間の記録には、天照皇大神が岩戸から出た際、思兼神がその手を取って当地に造営した社殿へ鎮まるよう願ったと記される。弘仁の頃には三田井氏の遠祖・大神大太惟基が荒廃した社殿を再興したと伝わる。約500m上流には八百萬神が集って相談したという天安河原があり、間口40m・奥行30mの大洞窟「仰慕窟」に願をかける信仰が全国に広がっている。
滋賀県米原市宇賀野に鎮座し、内宮に天照皇大神、外宮に豊受毘売命を祀る。社伝によれば垂仁天皇8年、天照大神を淡海の甲可日雲宮からこの地へ遷して2年間奉斎したとされ、その御分霊を祀る旧社として古くは坂田宮・坂田大神宮とも称され、坂田郡の総社として信仰を集めた。大神の鎮座地を求めて諸国を巡った倭姫命の神徳を偲び、倭姫命を祀ったことが当宮の起源とも伝えられる。江戸時代には彦根藩井伊家の崇敬が篤く、享保18年(1733)に藩主井伊直惟が社殿を造営して神殿を寄進、以後も社殿修復の費用が献じられ、奥方からは鏡・絵馬・石燈籠などが奉献された。明治14年(1881)に郷社、昭和20年(1945)に県社へ列した。社宝として後陽成天皇宸筆の御神号懸軸(重要文化財)を伝える。
倭姫宮は、天照大神の御杖代として諸国を巡り、伊勢の地に皇大神宮を定めた倭姫命を祀る神社。大正12年に皇大神宮別宮として創建され、神宮創祀に関わる倭姫命の功績を後世に伝えている。
創建年代は明らかではないが、社伝によれば、中世にこの地が伊勢神宮の神領「葛西御厨」であった頃、領主の葛西三郎清重が皇大神宮を勧請し、氏神として祀ったのが始まりと伝わる。かつては神明社・明神社と呼ばれ、のちに三社明神、江戸時代には三社大明神と称されるようになった。江戸期の地誌『新編武蔵風土記稿』には三社明神社として記載があり、曲金村・細田村・新宿町・鎌倉新田の鎮守であったこと、別当寺が真言宗豊山派の金亀山神宮院観蔵寺であったことが記されている。明治6年(1873)、社名は現在の天祖神社に改められた。御祭神は天照坐皇大御神で、建甕槌命・経津主命を合わせ祀る。
月讀宮は、皇大神宮の別宮で、月讀尊・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮の四宮から成る。月讀尊は伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子神と伝えられ、内宮別宮として古くから崇敬されてきた。
祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大御神・速玉之男命・事解之男命の五柱で、総称して王子大神と呼ばれる。創建年代は不詳だが、源義家が奥州征伐の折に社頭で慰霊祈願を行い甲冑を納めたと伝わる古社。元亨2年(1322)に領主豊島氏が紀州熊野三社から王子大神を勧請して「若一王子宮」と奉斎し、これが「王子」の地名の由来となった。徳川家康は天正19年(1591)に朱印地二百石を寄進して将軍家祈願所と定め、三代家光は社殿を造営、紀州徳川家出身の八代吉宗は元文2年(1737)に飛鳥山を寄進して桜を植え、江戸庶民の行楽地とした。明治元年には准勅祭社(東京十社)に列せられた。戦災で社殿を焼失したが、樹齢600年と伝わる大イチョウ(東京都天然記念物)が焼け残り、戦後に黒塗りと金箔の権現造の社殿が再建された。
社名は日本武尊の東征伝説に由来する。尊が賊退治の矢を求めた際、一匹の蝶が人の姿となって矢作川の中州に生える竹を採ってきて、矢作部がその竹で一夜のうちに一万本の矢を作り献じたと伝えられ、境内には「矢竹」と日本武尊の像が祀られている。江戸時代には幕府直営で行われた矢作橋の掛け替え工事の完成を記念する絵馬が奉納されており、宝暦12年(1762)や天明元年(1781)奉納の絵馬を含む「矢作神社絵馬群」12点が岡崎市指定有形民俗文化財となっている。約300年続くと伝わる大祭は、五穀豊穣などを願う行事として今も受け継がれている。
伊勢・神明信仰の神社一覧から、よく紐づくご利益をまとめています。
伊勢・神明信仰についての疑問に答えます。
神明社は天照大御神を祀る神社に多い社号で、伊勢神宮の信仰を地域に広げる役割を持ってきました。
家内安全、開運、地域安泰、日々の感謝など幅広く祈れます。太陽の神として、暮らしの根本を照らす信仰と考えると分かりやすいです。
日本神話で高天原を治める太陽神で、皇室の祖神とされます。伊勢神宮内宮の主祭神として最も広く知られています。