八幡信仰は、応神天皇を八幡神として祀る信仰です。武家の守護神として源氏をはじめ多くの武士に崇敬され、国家鎮護・勝負運・厄除けの神として全国へ広がりました。
宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮を代表格に、地域の総鎮守としての役割を持つ八幡宮も多くあります。
応神天皇を祀る八幡信仰。
由来と信仰の広がりを整理します。
八幡信仰は、応神天皇を八幡神として祀る信仰です。武家の守護神として源氏をはじめ多くの武士に崇敬され、国家鎮護・勝負運・厄除けの神として全国へ広がりました。
宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮を代表格に、地域の総鎮守としての役割を持つ八幡宮も多くあります。
八幡信仰を理解するうえで中心になる御祭神です。
応神天皇は、八幡神として全国の八幡宮に祀られる御祭神です。武家の守護神、国家鎮護の神として信仰され、勝負運や厄除け、地域守護の祈願先として知られます。
八幡信仰では、比売神や神功皇后と合わせて祀られることも多く、地域の総鎮守としての役割も担ってきました。
八幡信仰の神社を訪れる前に押さえたい観点です。
八幡宮では、勝負事だけでなく地域や家族の安泰を願う参拝も自然です。受験、試合、仕事の節目では、結果だけでなく正しい判断と平常心を願うと祈りが整います。
有名神社を中心に、大社・一宮・総鎮守など比較の起点にしやすい神社をまとめます。
宇佐神宮は八幡大神・比売大神を祀る神社。勝運・厄除けのご利益で知られ、725年(神亀2年)に創建された由緒ある神社です。
和銅6年(713)、元明天皇の御代に宇土の総鎮護として創建されたと伝わる古社。当初は春日大神と住吉大神を祀り、平安時代の1048年に八幡大神を合わせ祀って「三宮大明神」と称され、今も「三宮さん」の名で親しまれる。天正16年(1588)、キリシタン大名であった宇土城主・小西行長により社殿を焼かれたが、慶長6年(1601)に加藤清正が現在地に再興し、その後は肥後熊本藩主細川家代々の保護を受けた。明治4年(1871)に西岡神宮と改称。境内には神の宿る岩「磐座 百官石」があり、例祭で奉納される御獅子舞は熊本県指定の無形民俗文化財となっている。
高良大社は、高良玉垂命・八幡大神・住吉大神を祀る筑後国一之宮。延喜式では名神大社に列し、筑後地方の総鎮守として朝廷や武家から崇敬された。高良山に鎮座し、九州最大級の社殿と長い信仰史を伝える。
長門国一宮で、大阪の住吉大社、博多の住吉神社と並ぶ「日本三大住吉」の一社。社伝では、神功皇后が三韓出兵の折に住吉大神から「吾が荒魂を穴門の山田村に祀れ」という神誨を受けて創祀したと伝え、住吉三神の荒魂を祀るのが大きな特色である。相殿に応神天皇・武内宿禰命・神功皇后・建御名方命を祀る。『延喜式』神名帳には名神大社として載る。本殿は応安3年(1370年)に大内弘世が造進したもので、五つの社殿を檜皮葺の屋根で連ねた九間社流造という全国的にも特異な形式をもち、室町初期の社寺建築として昭和28年に国宝に指定された。拝殿は天文8年(1539年)に毛利元就が寄進したもので、室町末期の手法をよく伝え昭和29年に国の重要文化財に指定されている。歴代の領主から手厚い保護を受けてきた古社である。
公式サイトによれば、神亀元年(724年)に肥前国養父郡司・壬生春成が神託を受けて創建したと伝わり、令和6年に御創建千三百年を迎えた。祭神は應神天皇・仲哀天皇・神功皇后のほか、難波皇子・宇治皇子・住吉明神・武内宿禰を合わせ祀る。古くから宇佐神宮の別宮として知られ、平安時代には五所別宮の一社として朝廷の崇敬を受け、肥前国一の宮とされてきた。筑後川を望む段丘上に鎮座し、社前の石段が参道をなす。境内社には手足の神として信仰される武雄神社と、郡司が狩猟中に八幡神の使いである鳩が弓の上にとまったという創建伝承にちなむ鳩森稲荷神社がある。3月15日の「お粥試し」は日本有数の粥占神事として知られる。
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筥崎宮は応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祀る八幡宮です。創建の時期には諸説がありますが、延喜21年(921)に宸筆が下賜され、社殿が建てられたと伝わります。厄除・勝運の神として信仰されています。
亀山八幡神社(呉市安浦町)は、広島県呉市安浦町内海北に鎮座する八幡神社。市有形文化財の本殿は江戸初期の特徴を残す、瀬戸内沿岸・島嶼部を代表する建造物です。
亀岡八幡神社(中津市山国町)は、大分県中津市山国町中摩に鎮座する八幡神社。亀岡八幡宮とも称される、中津市山国町の八幡信仰の社です。
櫻田山神社は、正式名称を「山神社」といい、鎮座する地区の名を冠して「櫻田山神社」の名で親しまれている。由緒によれば、武烈天皇に仕えた狩野掃部之祐と久我大連の両名が、西暦506年12月8日の天皇崩御の後に東駒形山の麓へ赴き、天皇を偲んで社を建てて山神社と称したという。創建から約1500年になると伝えられる。古くから安産・子育ての神として近隣の人々に篤く信仰され、栗駒山麓の里に鎮座する氏神として地域に大切に守られてきた。
社伝では第8代孝元天皇の御代の鎮斎と伝えられる古社で、主祭神の武水別大神は水を司る神として善光寺平の五穀豊穣と千曲川の氾濫防止を祈って祀られたとされる。安和年間(968〜970年)に京都の石清水八幡宮から相殿神の誉田別命・息長足比売命・比咩大神が勧請され、「八幡宮」として広く崇敬された。延喜式神名帳には名神大社として記載され、『三代実録』によれば貞観8年(866年)に無位から従二位の神階を授けられ、翌9年に官社に列した。戦国から江戸時代にはこの地方随一の八幡宮として武将の尊崇が篤く、慶安元年(1648年)には幕府から朱印地200石を与えられた。明治41年に県社に昇格し、現在は神社本庁の別表神社。
少彦名神・大毘古神・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王の四座五柱を「佐佐木大明神」と総称して祀る。延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に名が載り、少彦名神がササゲの莢の舟で海を渡ってササキの郷に来たという伝承が残る。古くは沙沙貴山君の祖神とされる大毘古神を祀ったのが始まりとみられる。平安時代に宇多天皇の流れをくむ源成頼が佐々木庄に住み、孫の経方が佐々木を名乗って神主を務めて以来、宇多源氏・佐佐木源氏の氏神として六角・京極・黒田・朽木など一族の崇敬を受けた。文治2年(1186)には佐々木定綱が、源頼朝の筆と伝わる「佐佐木大明神」の額を大鳥居に掲げたとされる。現在の本殿・権殿・拝殿は江戸末期の火災後に丸亀藩京極家が再建したもので、楼門や回廊などを含む8棟が滋賀県指定有形文化財である。
創建年代は不詳。天永2年(1111年)に太政官の命を受けて陰陽寮が当社の遷宮の日時を占ったことが石清水文書に見えることから、それ以前の鎮座は確実で、出雲国最古の八幡宮とされる。一帯は京都・石清水八幡宮の社領であり、当社は「平浜別宮」と呼ばれて石清水の社家の支流が奉仕した。のちに出雲国八所八幡宮の総社と位置づけられ、戦国期には亀井氏・尼子氏・毛利氏によって社殿が造営され、江戸時代には松江藩主の直轄下に置かれた。昭和17年(1942年)に県社へ列格。境内西隣には武内宿禰を祀る境内社・武内神社が鎮座し、「武内さん」の愛称で延命長寿の神として広く信仰を集めている。
山口市上小鯖に鎮座する八幡宮で、小鯖八幡宮とも呼ばれます。社伝では平安時代中期の寛弘・長和の頃(1004年〜1016年)に豊前の宇佐八幡宮から神霊を勧請したと伝えられ、その帰路、山口湾から椹野川をさかのぼって鰐石に上陸した際、供をしてきた鰐が神との別れを惜しんで鳴いたという言い伝えが社名の由来とされています。主祭神は八幡大神・足仲彦神・神功皇后で、仁徳天皇や天御中主神、大歳神などを配祀します。中世以降は在地領主の崇敬を集め、文安5年(1448年)の大内教弘、永禄3年(1560年)の毛利隆元、永禄10年(1567年)の毛利輝元による社領安堵状が『防長風土注進案』に記録されており、明治維新まで社領の供給を受けていました。本殿は貞享3年(1686年)9月に改造され、拝殿は寛政3年(1791年)9月に建てられたもので、山口市の歴史文化資源として紹介されています。
神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮の神託事件で道鏡の野望を退けた和気清麻呂の姉、和気広虫(法均尼)が備後国へ流された際、この地に留まって宇佐八幡大神を勧請し、弟の赦免を祈願したことに始まると伝わる。宝亀8年(777年)を創建の年とし、以後、八幡庄の鎮守、備後総鎮護の社として崇敬を集めている。天正年間には三原城に滞在した豊臣秀吉が参拝し、境内に桜を手植えしたと伝えられる。木造狛犬一対をはじめ、木造行道面・木造神像・経典板木が国の重要文化財に指定され、シイを主とする社叢は広島県の天然記念物となっている。
八代城下の西方に鎮座する八幡宮。寛永9年(1632年)、八代城に隠居した細川忠興(三斎)が、かねて崇敬していた豊前の宇佐神宮から分霊を勧請して創建したと伝わる。明暦元年(1655年)、八代城主松井興長が現在地へ社殿を移し、八代城下西域を守る鎮守と定めた。以来、塩屋町の氏神として町人の信仰を集めてきた。九州三大祭のひとつに数えられる八代神社(妙見宮)の妙見祭では、当宮が神幸行列の御旅所となる。11月22日に神輿が妙見宮から「お下り」して当宮に泊まり、翌23日の早朝、当宮を起点に「お上り」の行列が妙見宮へ向けて出発する。祭りの二日間、八代の町の中心となる社である。
後三年の役(1083〜1087年)で激戦の舞台となった金沢柵の跡に鎮座する。奥羽を平定した源義家が藤原清衡に命じ、京都の石清水八幡宮から八幡神を勧請して社殿を建てたのが始まりと伝わり、創建は寛治7年(1093年)とされる。当初は金澤八幡神社と称した。江戸時代に入ると、義家の弟である源義光の子孫にあたる佐竹氏が秋田藩主となったことから厚い崇敬を受け、慶長9年(1604年)以降十数回にわたって修改築が重ねられた。平成元年(1989年)に現在の社名へ改められている。古鏡や蓋付陶製経壺、銅製経筒、貞和年間の写経による大般若波羅蜜多経など、秋田県指定有形文化財を伝えており、後三年合戦ゆかりの地の信仰を今日に伝える社である。
山国川の河口西岸、吹出浜に鎮座する旧県社で、豊前国宇佐八幡宮の末社にあたる。社伝では欽明天皇6年(545年)、神功皇后の託宣を受けて息長大神宮と称して八幡宮が鎮まり、脇殿に住吉宮が祀られたことに始まるという。細男舞・神相撲の神々を祀る古表社の起源は天平16年(744年)と伝える。川を挟んで東に位置する大分県中津市伊藤田の古要神社とは姉妹社の関係にあり、両社はともに宇佐八幡宮の末社として傀儡子(くぐつ)と呼ばれる木製人形の神事を伝えてきた。人形が舞い、相撲を取る「細男舞・神相撲」は国の重要無形民俗文化財に指定されており、4年に一度の放生会で奉納される。豊前地方の海と川に開けた地に、千年以上にわたって信仰が受け継がれてきた社である。
宇治川東岸、朝日山の山裾に鎮座する。応神天皇の末の皇子で聡明さゆえに皇太子に立てられた菟道稚郎子命を主祭神とし、応神天皇・仁徳天皇を併せ祀る。社伝では、応神天皇の崩御後に菟道稚郎子が兄の仁徳天皇へ皇位を譲ろうとし、仁徳天皇も父帝の定めを変えられないとして3年にわたり譲り合った結果、世の乱れを憂えた菟道稚郎子が自ら命を絶ち、これを知った仁徳天皇が難波から急ぎ宇治へ赴いて手厚く葬ったことが、のちの創建の由来になったと伝える。京都府の説明によれば、本殿(国宝)は平安時代後期に伐採された木材を用いた一間社流造の三殿からなり、神社建築としては日本最古の本殿とされる。拝殿(国宝)は鎌倉時代前期に伐採された桧を使った優れた建物遺構である。「古都京都の文化財」の構成資産として世界文化遺産に登録されている。御神徳は学業成就・武運隆昌・家内安全で、祭神名の「菟」にちなみうさぎの授与品でも知られる。
大分県日田市田島に鎮座し、大帯比売命(神功皇后)・誉田別尊(応神天皇)・比売大神の三柱を祀る、大分県下有数の規模を誇る八幡宮。680年に靱負郷岩松ヶ峰(現在の天瀬町鞍形尾)に八幡神が示現したのを祀ったのが起源と伝えられる。9世紀半ばには日田郡司の大蔵永弘によって杉原宮から現在「元宮」と呼ばれる地へ遷され、1624年に代官石川主殿守忠総によって現在地へ遷座した。遷座前の地は元大原神社・元宮神社と呼ばれ、江戸時代中期に再建された社殿が今も残る。境内で最も古い建築である楼門は貞享4年(1687)、拝殿・幣殿・本殿は寛政6年(1794)の築造と伝わる。3月15日の米占い行事は国の記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財に選択され、4月15日の御田植祭は大分県指定の無形民俗文化財である。
神功皇后摂政3年(202年)、皇后が神託を受けて宇須伎津の浄地を開き、小さな社を建てて玉依比賣命を祀り敷嶋宮と号したのが起こりと伝えられる。のちに仁徳天皇7年(319年)、応神天皇(品陀和氣命)と神功皇后(息長足比賣命)を合わせ祀り、現在の三柱となった。播磨地方でも最大級の24か町・1万数千戸におよぶ氏子圏を持ち、当社の祭礼に漁民が一斉に休漁して網を干して参詣したことが「網干」の地名の由来と伝えられる。10月21日・22日の秋季例祭は「ちょうちん祭り」として知られ、宵宮では楼門前で提灯を叩き合う「提灯練り」が繰り広げられる。本宮には18台の屋台が集まり、楼門前や本殿前で「チョーサー」の掛け声とともに練り合わされる。
神仏分離以前は祇園社と称し、旧田原本村の産土神として祀られてきた。明治中期に書写された天治2年(1125年)の棟札に「建立」の文字があったとされ、平安時代後期にはすでに鎮座していたと考えられている。江戸時代には田原本の領主平野家の崇敬を受け、毎年米1石5斗の寄進を受けていた。明治2年(1869年)、平野家の本貫地である尾張国津島の津島社も牛頭天王を祭神とすることから、社名を津島神社と改めた。祭神は素戔鳴命・櫛名田姫命・誉田別命・天児屋根命で、本来は牛頭天王を祭神とする産土神であったとみられる。現在も夏には盛大な祇園祭が営まれ、地元では今も「祇園さん」の愛称で親しまれている。
東京都江東区富岡に鎮座し、「深川の八幡様」として親しまれてきた江戸最大の八幡宮。公式の由緒によれば、寛永4年(1627年)に当時永代島と呼ばれていた現在地へ御神託により創建され、周辺の砂州一帯を埋め立てて社地と氏子の居住地を開き、あわせて六万五百八坪の社有地を得たという。江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊のほか尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けた。明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に治定し、勅使を遣わして幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念した。御祭神は応神天皇(誉田別命)ほか八柱。毎月1日・15日・28日の月次祭は縁日として賑わい、門前仲町駅周辺に露店が並ぶほか、境内では骨董市やフリーマーケットも開かれる。
広島県三原市糸崎に鎮座し、通称「はちまんさん」と親しまれる。公式の由緒によれば、神功皇后が西征のみぎりに当地へ舟を寄せた際、出迎えた村長・木梨真人が水を献じたという故事にちなみ、天平元年(729年)に豊前国の宇佐神宮(宇佐八幡宮)から御分霊を迎えて創建された。そのときの水を「長井の水」、当地を「長井浦」と称し、長井の浦は風待ちの港として『万葉集』にも詠まれている。長井の浦は井戸崎ともいい、これが現在の地名「糸崎」の起こりとも伝わる。御祭神は帯中津日子命(仲哀天皇)・品陀和気命(応神天皇)・息長帯日売命(神功皇后)の三柱。境内には神功皇后が水を求めたという御調の井戸、広島県最大とされる御神木の大楠(三原市天然記念物)、三原市重要文化財の神門などがある。
長門国一宮で、大阪の住吉大社、博多の住吉神社と並ぶ「日本三大住吉」の一社。社伝では、神功皇后が三韓出兵の折に住吉大神から「吾が荒魂を穴門の山田村に祀れ」という神誨を受けて創祀したと伝え、住吉三神の荒魂を祀るのが大きな特色である。相殿に応神天皇・武内宿禰命・神功皇后・建御名方命を祀る。『延喜式』神名帳には名神大社として載る。本殿は応安3年(1370年)に大内弘世が造進したもので、五つの社殿を檜皮葺の屋根で連ねた九間社流造という全国的にも特異な形式をもち、室町初期の社寺建築として昭和28年に国宝に指定された。拝殿は天文8年(1539年)に毛利元就が寄進したもので、室町末期の手法をよく伝え昭和29年に国の重要文化財に指定されている。歴代の領主から手厚い保護を受けてきた古社である。
社伝では白鳳4年(675年)の創祀と伝え、当初は六所御影神社と称したという。天平宝字3年(759年)には諸国の放生の地に鎮座する国府八幡宮と定められ、やがて上総国の総社として尊崇された。石清水八幡宮の別宮・市原八幡宮と記す史料も残る。源氏をはじめ千葉氏・足利氏・徳川氏など武家の崇敬を受け、歴代将軍から神輿や社殿の寄進を重ねている。祭神は誉田別尊ほか。本殿は室町時代の建立とされ国の重要文化財、拝殿は千葉県指定文化財で、県内の神社建築で本殿が国の重要文化財に指定されているのは香取神宮と当宮の二社のみである。境内には推定樹齢800年を超える県指定天然記念物の大イチョウ(夫婦銀杏)がある。秋の大祭で子育てや虫封じの祈願を受ける習わしから「子育て八幡」とも呼ばれる。
八幡信仰の神社一覧から、よく紐づくご利益をまとめています。
八幡信仰についての疑問に答えます。
応神天皇を中心に祀る神で、武運、国家鎮護、地域守護の信仰を集めます。神社によって比売神や神功皇后を合わせて祀る場合もあります。
勝負運で知られますが、それだけではありません。厄除け、家内安全、地域守護、安産など、地域の総鎮守として幅広い祈願を受け止める神社も多いです。
大分の宇佐神宮、京都の石清水八幡宮、神奈川の鶴岡八幡宮が代表格です。各地の一宮や総鎮守にも八幡信仰の神社があります。