出雲信仰は、大国主命を中心に、国造り・縁結び・医薬・産業の守りを願う信仰です。出雲大社を象徴として、神在月に全国の神々が集うという伝承とともに知られます。
縁結びは恋愛だけでなく、人、仕事、土地、家族など人生の結びつき全体を含む広い概念です。
大国主命を中心とする出雲信仰。
由来と信仰の広がりを整理します。
出雲信仰は、大国主命を中心に、国造り・縁結び・医薬・産業の守りを願う信仰です。出雲大社を象徴として、神在月に全国の神々が集うという伝承とともに知られます。
縁結びは恋愛だけでなく、人、仕事、土地、家族など人生の結びつき全体を含む広い概念です。
出雲信仰の神社を訪れる前に押さえたい観点です。
出雲系の神社では、良縁を一方的に求めるだけでなく、今ある縁への感謝を先に伝えると祈りが整います。出雲大社では二礼四拍手一礼の作法が知られますが、作法は神社ごとの案内に従います。
有名神社を中心に、大社・一宮・総鎮守など比較の起点にしやすい神社をまとめます。
出雲大社は大国主大神を祀る神社。縁結び・商売繁盛のご利益で知られ、神代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
気多大社は大己貴命を祀る神社。縁結びのご利益で知られ、崇神天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
河内国一之宮とされる枚岡神社の起こりは、神武天皇の即位3年前と伝わる。東征の途上、天皇の命を受けた天種子命が国土平定を祈り、霊地とされる神津嶽(かみつだけ)に磐境を設けて天児屋根命と比売御神を祀ったのが始まりという。白雉元年(650)に平岡連らによって山麓の現社地へ遷り、神護景雲2年(768)に二神が春日の地に迎えられて春日神社(現・春日大社)に祀られたことから「元春日」と呼ばれる。宝亀9年(778)には春日から武甕槌命と経津主命(斎主命)を迎えて四殿となった。延喜式神名帳では名神大社に列し、明治4年(1871)に官幣大社となっている。鎌倉時代には西大寺の叡尊が蒙古襲来に際して当社で敵国降伏を祈ったと伝えられる。
出雲大神宮は、丹波国一宮として崇敬される古社。大国主命と三穂津姫命を主祭神とし、社伝では出雲信仰と深く関わる元出雲の社として伝えられている。御蔭山を神体山とし、古くから縁結び・長寿・金運の信仰を集めてきた。
高瀬神社は大己貴命を祀る神社。縁結び・医療のご利益で知られ、景行天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
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木曽御嶽山の黒沢口に鎮座し、山麓の里宮と若宮を総称して御嶽神社と呼ぶ。里宮は少彦名命、若宮は大己貴命を祀り、旧黒沢村の時代からこの地の産土神として信仰されてきた。里宮は御嶽街道でもあった109段の石段を登ったところにあり、若宮には永禄8年(1565)に木曽義昌が家臣とともに奉納した三十六歌仙板絵が伝わって、木曽谷では最も古い絵馬とされる。御嶽山は古くから修験の霊山として登拝が行われていたが、天明4年(1784)に尾張の行者・覚明が黒沢口を一般に開いたことで、御嶽信仰は木曽周辺から全国へと広がった。江戸後期の享和3年(1803)までに黒沢へ伝えられたとみられる太々神楽は、神職と保存会員によって今も受け継がれている。
武蔵国一之宮を称する古社で、公式サイトの由緒では安寧天皇18年2月の鎮座と伝える。主祭神は武蔵国開拓の祖神である天下春大神、瀬織津比咩大神、稲倉魂大神の三柱。元慶8年(884年)に正五位上の神階を授けられ、延喜式神名帳には武蔵国八座の一社として載る。国府の近くにあったことから国司や住民の崇敬が篤く、総社六所宮創建の際には東殿第一の席を与えられて一之宮と称されたという。鎌倉末から戦国期にかけて戦乱と多摩川の洪水で荒廃したが、棟札によれば慶長14年(1609年)に徳川二代将軍によって造営再興された。明治の神仏分離で文珠菩薩を移座し郷社に列格。大正15年の失火で社殿を焼失したが昭和2年に本殿・拝殿を再建し、昭和39年に随身門、昭和49年に末社の再建を終えている。
公式サイトの社伝によれば、神功皇后が三韓からの帰路に瀬戸の海上で嵐に遭い、船の苫を海に投げてその流れに従えという神託のとおりに進んだところ、友ヶ島にたどり着いた。島には少彦名命と大己貴命が祀られており、皇后は救われた礼として持ち帰った宝物を供えたという。のちに孫の仁徳天皇が同島を訪れ、島では不自由であろうと対岸の加太へ社を遷して社殿を建てたのが当社の起こりと伝える。祭神は少彦名命・大己貴命・息長足姫命(神功皇后)。少彦名命は医薬の神とされ、女性の病気平癒や安産・子授けの信仰を集めてきた。境内には紀州徳川家から奉納された雛人形などを収める宝物殿や、針供養の針塚がある。
滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座し、大己貴神を主祭神とする神社。火産霊神・豊受大神・天児屋根命・小毘古神・菅原道真公を配祀する。社伝によると慶応4年(1868年)までは山王大権現と称し、その後に大國主神社と改号した。勧請の年代は不詳だが、天授6年(1380年)に田井から現在地へ遷座したと伝える。永正8年(1511年)の「御宮年中行事」には、4月初申日に上郷・下郷によって例祭が行われた旨が記されている。延宝年間には甲府宰相から東西32間・南方143間の土地が寄進された。貞享年間の明細帳では境内社が7社あったが、慶応4年の山崩れで5社となり、さらに大正元年(1912年)にすべて天神社へ合祀された。明治9年(1876年)からは例祭を5月12日と定め、午前に祭典、午後に神輿渡御と流鏑馬・走馬の奉納が行われた。神輿は応永元年(1394年)に3基が寄進されたと伝える。
岐阜県飛騨市古川町上気多に鎮座し、大国主神を主祭神とする神社で、通称は「杉本様(すぎもとさま)」。創祀の年代は不詳だが、『日本三代実録』貞観15年(873年)8月20日条に従五位下を加階されたと見え、元慶5年(881年)には地震の霊異により従五位上へ昇叙されたと伝える。天正17年(1589年)に飛騨三万八千石を領した金森長近の子・可重が増島城を築くと、旧古川町の産土神であった杉本大神を合祀し、以後は杉本大神宮として城の東西鬼門を鎮護する神、また古川の産土神として崇敬された。万治3年(1660年)に社殿が再建され、明治3年(1870年)に気多若宮神社と復古改称、翌4年に郷社と定められ、大正15年(1926年)2月11日に県社へ昇格した。古来の特殊神事として裸祭「起し太鼓」があり、例祭は4月19日深更から20日未明にかけて行われる。
兵庫県豊岡市日高町上郷に鎮座する式内社で、但馬国の総社にあたる。旧社格は郷社。主祭神は大己貴命で、地元では「けたさん」と呼ばれ、近世までは「総社気多大明神」と称された。総社とは一国の主要な神社の神々を集めて祀る神社のことで、但馬国府が置かれたこの地域の中心的な社として崇敬されてきた。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳には但馬国気多郡の「気多神社」として記載され、式内社に列している。『播磨国風土記』宍禾郡御方里条には、葦原志許乎命(大己貴命)と天日槍命が黒葛を投げ合って国を占う争いをし、葦原志許乎命の投げた黒葛3本のうち1本が但馬の気多郡に落ちたという伝承が記され、郡名を冠するこの社が相当古くから鎮座していたことをうかがわせる。鎌倉時代の『但馬国太田文』によれば、大般若田4町、三十講田1町5反という社領があったとされる。
京都府亀岡市千歳町国分に鎮座する式内社で、旧社格は村社。火の神である火産霊神を主祭神とし、伊邪那美神・大国主神をあわせて祀る。社伝では、この社の分霊が京都の鷹ヶ峰に祀られ、のちに和気清麻呂によって嵯峨の愛宕山へ遷されて現在の愛宕神社になったと伝えることから、「元愛宕」あるいは「愛宕の本宮」と呼ばれ、全国に数多い愛宕社の総本宮ともいわれる。檜皮葺の一間社流造である本殿は鎌倉時代後期の建立と伝えられ、昭和52年(1977年)1月28日に国の重要文化財に指定されている。火伏せ・防火の神として広く信仰され、4月24日には鎮火祭が営まれる。愛宕山の愛宕神社と同様に「愛宕の三つ参り」の信仰が伝わり、3歳までに参詣すると一生火災に遭わないとされている。
長野県に鎮座する出雲系の神社です。御祭神は手力雄命、八意思兼命、大己貴命。縁結び・開運・家内安全のご利益で知られます。
京都市北部の京北地域、旧山国郷に鎮座する延喜式内社です。社伝では光仁天皇の宝亀年間(770〜780)の鎮座と伝えられ、延暦13年(794)の平安遷都にあたって大内裏造営の用材がこの郷から徴されたため一帯が御杣料地と定められ、修理職の官人が本殿を造営し、和気清麻呂が祭主を務めたといいます。以後、大嘗祭の悠紀殿・主基殿の用材を調える役も担いました。長和5年(1016)には三条天皇から正一位を賜り、御祈願所として菊花の紋章を許されたと伝わります。源平の争乱や元弘の乱でたびたび社殿を失いましたが、細川頼之の執奏により応永6年(1399)に復旧し、このとき足利義満が奉納した丸に二つ引きが以後の神紋となりました。慶長元年(1596)に後陽成天皇によって再建され、明治6年(1873)に郷社、明治33年(1900)に府社へ列格。幕末に官軍として東征した山国隊ゆかりの社としても知られます。
大分市の上野丘に鎮座する旧県社。社伝では宝亀2年(771年)、豊後国府にほど近い岩屋寺の境内に祀られたのが起こりとされる。鎌倉時代には豊後を治めた大友氏の初代・能直が国中の疫病退散を願って京都の祇園社を勧請したと伝わり、以後は大友氏の厚い崇敬を受けた。天正14年(1586年)の島津軍による府内侵攻で社殿を焼失したが、元和4年(1618年)に府内藩主・竹中重義が現在地へ移して再建している。江戸期を通じて祇園社(祇園宮)と呼ばれ、明治の神仏分離を経て弥栄神社と改称。明治6年(1873年)に郷社、大正5年(1916年)に県社へ列した。寛永年間の建立と伝わる楼門が今も残る。
益子町北部の上大羽、大羽山の山あいに鎮座する古社です。鎌倉時代の建久5年(1194)、下野の武将・宇都宮朝綱が創建したと伝えられます。朝綱は公田横領の嫌疑で土佐へ流された際、土佐国一宮の賀茂社に帰郷を祈願し、願いがかなって下野へ戻れたことから、宇都宮氏の氏寺であった尾羽寺の寺域にこの社を建てたといいます。主祭神は味耜高彦根命で、大国主命をあわせて祀ります。現在の本殿は室町時代後期の大永年間(1521〜1528)の建立で、三間社流造・茅葺という全国的にも例の少ない形式をとり、昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されました。境内には大同2年(807)の創建と伝わる摂社・大倉神社が愛宕山から移されており、その本殿も同じく国の重要文化財に指定されています。
社伝によれば、神功皇后が外征からの帰途にこの地へ船を寄せ、加護を受けた大己貴命を国家鎮護のために祀ったのが始まりとされる。天禄年間(970〜972)に疫病が流行した際、神託により素盞嗚命と奇稲田姫命を合わせ祀ったところ疫病が鎮まったと伝わる。文禄元年(1592)には豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して参拝し、戦勝を祈願したと伝えられる。慶長6年(1601)、姫路城主の池田輝政が社地に高砂城を築くことを定めて社領を寄進し、慶長10年(1605)の築城にともなって社殿は西北の松林へ移された。元和元年(1615)の一国一城令で高砂城が廃されたのち、寛永2年(1625)に姫路藩主本多忠政が社領を寄進して旧地へ戻している。境内の「相生の松」は一つの根から雌雄二本の幹が立つ松で、尉(伊弉諾尊)と姥(伊弉冊尊)が宿る霊松と伝えられ、謡曲『高砂』ゆかりの社として知られる。現在の松は5代目にあたる。旧社格は県社。
創建の年代は明らかでない。江戸時代の初めに、古くからこの地で祀られていた帝釈天と、他村から迎えた王子権現を合わせ祀ったのが始まりと伝えられ、近世を通じて王子権現宮と称された。主祭神は大己貴命で、顕宗天皇と仁賢天皇を配祀する。明治44年(1911)には元清水神社を合祀している。新田開発の進んだ魚住の地で村の鎮守として信仰され、田植えを終えた6月下旬には豊作を祈る「おくわはん」の神事が今も続けられている。この行事は江戸時代に始まったとされ、明石市の無形民俗文化財に指定されている。例祭は10月17日。現在は近隣の住吉神社が兼務している。
美作国の総社にあたる神社で、国司が国内の神々をまとめて祀るために設けられた社に始まります。社伝では欽明天皇25年(564年)の創建と伝えますが、確実な文献に現れるのは戦国時代の永禄年間からです。美作国内の多数の神社を合わせ祀っており、中山神社・高野神社とともに美作三大社の一社に数えられてきました。現在の本殿は永禄5年(1562年)に毛利元就が再建したもので、明暦3年(1657年)に大規模な改修を受けています。桁行三間・梁間三間の入母屋造妻入・こけら葺で、美作地方独自の「中山造」と呼ばれる形式を伝える建築として、1914年(大正3年)に国の重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定されました。江戸時代には津山藩主から篤い崇敬を受けています。
社地は菅原道真の邸宅であった紅梅殿・白梅殿と、学問所「菅家廊下」の跡と伝えられ、道真誕生の地ともされています。境内には産湯に用いたと伝わる井戸が保存されており、大宰府へ左遷される道真が「東風吹かばにほひおこせよ梅の花」と詠みかけた飛梅の地であるとも伝えられます。創建は道真の没後まもなくと伝えられますが、その後たびたび兵火にさらされ、鎌倉時代には南北二つの社に分かれました。応仁の乱によって荒廃したのち、慶長19年(1614年)に再興されています。現在の本殿は天保6年(1835年)に造られたもので、明治2年(1869年)に他所からこの地へ移築されたものです。学問の神として、また道真ゆかりの地として参拝者を集めています。
創建年代は不詳だが、社伝では延暦20年(801年)に伝教大師によって社殿が改造されたとされ、桓武天皇の代には既に祀られていたと伝える。それから約100年後に成立した『延喜式』神名帳に載る伊勢国一志郡の式内社で、古来より矢頭山を中心に信仰されてきた。伊勢国司の北畠氏も崇敬篤く、神領を寄進して社の経営を助けたという。波瀬村には矢頭山の神を祀る社が3社あり、村の中央に鎮座する小矢頭神社を本宮、約6km離れた山麓の矢頭神社を中宮、山頂の高岳神社を奥宮として、あわせて矢頭山蔵王権現と称した。明治6年(1873年)の神仏分離で矢頭神社が波氐神社と改称し、明治42年から43年にかけて中宮・奥宮を含む村内32社を小矢頭神社に合祀して現在の波氐神社となった。昭和20年(1945年)に県社に列格している。
創祀年代は不詳です。この地の古代豪族・小槻山君の祖神である落別命(於知別命)を祀る式内社で、栗太郡八座の一つに数えられます。小槻氏は奈良時代に宮廷へ采女を出し、平安時代から明治に至るまで千年近く官務家として朝廷に仕えました。『日本三代実録』には貞観5年(863年)に従五位下、元慶6年(882年)に従五位上を授けられた記録があり、『日本紀略』には延喜11年(911年)に従四位下を受けたと見えます。中世には青地庄に拠った近江守護佐々木氏の分流・青地氏が篤く崇敬し、弘安4年(1281年)に青地基氏が本殿内陣の元宮殿を新造、康永年間には正一位の神位授与を朝廷に願い出て許されました。現在の本殿は永正16年(1519年)に青地元真が再建したもので、国の重要文化財に指定されています。配祀の大己貴命は、境内に接していた天台宗音楽寺との関わりから日吉西本宮を勧請合祀したものと推察されています。
創建年代は不詳で、社伝では垂仁天皇あるいは景行天皇の御代にさかのぼるとされます。赤城山を神体とする赤城信仰の里宮にあたり、平安時代後期からの「一宮二宮」の格付けのもとで上野国二宮として崇敬されてきた古社です。『延喜式』神名帳の名神大社「赤城神社」の論社の一つに数えられ、豊城入彦命・大己貴尊ほか数柱を祀ります。三夜沢の赤城神社との間で神体が往復する「御神幸」が伝えられ、平成5年に前橋市の重要無形民俗文化財に指定されました。境内地は市の史跡、梵鐘・絵馬・宝塔は市の重要文化財で、二宮赤城神社太々神楽(平成21年指定)と二之宮式三番叟(昭和45年指定)も市の無形民俗文化財として保存会に受け継がれています。茅葺きの社殿が古社の趣を伝えています。
播磨国一宮。主祭神の大己貴神は播磨国内を巡歴して国造りを行い、最後に伊和の里で「我が事業は終わった」と仰せられて鎮まったと伝えられ、人々がその神徳を慕って社殿を営んだのが創祀とされる。「我を祀れ」との神託の後、一夜のうちに草木が生い茂り、石の上に二羽の大きな鶴が眠っていた場所に社殿を造営したという伝承があり、創建は成務天皇の甲申年(144)あるいは欽明天皇25年(564)と伝わる。延喜式では明神大社に列し、神階は正一位、明治の社格制度では国幣中社。古来、農工商など産業の神、縁結び・福の神、厄除け・病気平癒・交通安全の神として崇敬されてきた。配祀神は少彦名神・下照姫神。
社伝によれば白鳳3年に建速須佐之男命を奉斎し、朱鳥元年(686)に大己貴命を合祀したことに始まる古社で、延喜式神名帳に記載される式内社。社名は古代の馬道(うまじ)郷の土豪・石邊君氏の氏神であることに由来する。中世には江州田中荘(吉身・守山など)の総鎮守「田中大明神」「田中天王社」と崇められ、鎮守の森は「天王の森」と呼ばれた。弘仁年間には嵯峨天皇の病気平癒祈願の功により神領などが寄進されたと伝わる。元亀・天正年間の野洲川周辺の戦乱で社殿や神宝を焼失し、江戸時代に再興されたが天明4年(1784)に再び火災に遭い、現社殿は文久2年(1862)の再建。明治9年に村社、明治14年に郷社に列した。祭礼では天下泰平・五穀豊穣を祈る古式踊「豊年踊」が奉納される。
出雲信仰の神社一覧から、よく紐づくご利益をまとめています。
出雲信仰についての疑問に答えます。
大国主命が中心です。国造り、縁結び、医薬、産業の守りなど、多面的な神格を持つ神として信仰されています。
旧暦10月に全国の神々が出雲へ集まるとされる伝承です。他地域では神無月と呼ばれる時期を、出雲では神在月と呼びます。
恋愛に限りません。仕事、人間関係、家族、地域との縁など、人生の結びつきを整える広い信仰として参拝されています。