近畿の神社一覧
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近畿の神社一覧
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大皇器地祖神社
滋賀県東近江市君ヶ畑町に鎮座し、木地師の祖神とされる惟喬親王を祀る神社。旧社格は村社で、御神紋は十六菊。社伝によれば、貞観年間に惟喬親王がこの山へ入り、寛平9年(897年)2月に薨去した。親王の入山以前は小松村畑と称したこの地は、以後「君ヶ畑」と改められ、親王のために造営された御殿は高松宮・高松御所と呼ばれた。翌寛平10年(898年)4月に神殿を造営して親王の神霊を鎮祭したのが当社の起源で、このとき天皇から勅使が立てられ「大皇大明神」の社号を賜ったと伝える。親王が在世中、小椋信濃守久長・小椋伯耆守光吉の両名に命じて木地の器物を作らせたことから、親王は木地の祖神と仰がれ、当社は全国の木地師の発祥の社とされる。明治5年(1872年)までは正月・5月・9月に国家安泰と皇室永続を祈る祈禱符を宮中へ献上していた。明治15年(1882年)に社号を大皇器地祖神社へ復旧する認可を得た。
- 所在地
- 滋賀県東近江市君ヶ畑町977
- 御祭神
- 惟喬親王
気多神社
兵庫県豊岡市日高町上郷に鎮座する式内社で、但馬国の総社にあたる。旧社格は郷社。主祭神は大己貴命で、地元では「けたさん」と呼ばれ、近世までは「総社気多大明神」と称された。総社とは一国の主要な神社の神々を集めて祀る神社のことで、但馬国府が置かれたこの地域の中心的な社として崇敬されてきた。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳には但馬国気多郡の「気多神社」として記載され、式内社に列している。『播磨国風土記』宍禾郡御方里条には、葦原志許乎命(大己貴命)と天日槍命が黒葛を投げ合って国を占う争いをし、葦原志許乎命の投げた黒葛3本のうち1本が但馬の気多郡に落ちたという伝承が記され、郡名を冠するこの社が相当古くから鎮座していたことをうかがわせる。鎌倉時代の『但馬国太田文』によれば、大般若田4町、三十講田1町5反という社領があったとされる。
- 所在地
- 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
- 御祭神
- 大己貴命
- 系統
- 出雲
愛宕神社
京都府亀岡市千歳町国分に鎮座する式内社で、旧社格は村社。火の神である火産霊神を主祭神とし、伊邪那美神・大国主神をあわせて祀る。社伝では、この社の分霊が京都の鷹ヶ峰に祀られ、のちに和気清麻呂によって嵯峨の愛宕山へ遷されて現在の愛宕神社になったと伝えることから、「元愛宕」あるいは「愛宕の本宮」と呼ばれ、全国に数多い愛宕社の総本宮ともいわれる。檜皮葺の一間社流造である本殿は鎌倉時代後期の建立と伝えられ、昭和52年(1977年)1月28日に国の重要文化財に指定されている。火伏せ・防火の神として広く信仰され、4月24日には鎮火祭が営まれる。愛宕山の愛宕神社と同様に「愛宕の三つ参り」の信仰が伝わり、3歳までに参詣すると一生火災に遭わないとされている。
- 所在地
- 京都府亀岡市千歳町国分南山ノロ1
- 御祭神
- 火産霊神、伊邪那美神
- 系統
- 出雲
大石神社
兵庫県赤穂市、旧赤穂城内の大石内蔵助屋敷跡に鎮座する神社。明治天皇の宣旨を契機として明治33年(1900年)に神社創立が公許されたが、造営資金が集まらず着工は明治43年(1910年)にずれこみ、大正元年(1912年)11月に四十七義士命を祀る神社として鎮座した。主祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と、討ち入り前に自刃した中折の烈士・萱野三平命。あわせて赤穂藩主浅野長直・長友・長矩の三代と、その後に赤穂を治めた森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀する。大石邸庭園には、元禄7年(1694年)に大石内蔵助が笠間から勧請したと伝える大石稲荷社が鎮座する。かつて藩民の信仰を集めた七つの古社は平成12年(2000年)に境内社合祀殿へまとめられ、山鹿素行命を祀る山鹿社や天満宮、八田社などが並ぶ。大願成就の神として広く信仰を集めている。
- 所在地
- 兵庫県赤穂市上仮屋旧城内
- 御祭神
- 大石内蔵助良雄以下四十七士命、萱野三平
足見田神社
三重県四日市市水沢町に鎮座する延喜式内社で、旧社格は郷社。三重県神社庁は主祭神を志那都比古命・志那都比売命・瀬織津比咩命とする。一方で『神明帳考証』は祭神を日本武尊とし、東国平定の帰路にこの地へ立ち寄った日本武尊が「吾が足は三重に曲がるようでひどく疲れた」と語ったことから「三重」の地名が足見田の地に由来するという伝承も伝えられている。創建は垂仁天皇26年とも雄略天皇21年とも伝わり、詳細は定かでない。年間には春祭・新茶祭・慰霊祭・秋祭など、茶どころ水沢の生業と結びついた祭事が営まれる。なかでも7月31日の「水まつり」は享保5年(1720年)を創始とする雨乞い祈願の祭りで、境内に奉納される「お諏訪おどり」は、瀬戸用水の完成に尽力した庄屋・辻久善の功績をたたえる詞章にもとづく踊りとして伝えられ、昭和48年(1973年)1月7日に四日市市の無形民俗文化財に指定された。
- 所在地
- 三重県四日市市水沢町707
旦椋神社
式内小社で旧社格は村社。境内の由緒書によれば、養老4年(720年)の『日本書紀』に見える栗隈県の大溝(栗隈大溝)の東側、旦椋という地に古社として鎮座していたと伝えられるが、その社殿は天文19年(1550年)に焼失した。その後、永禄9年(1566年)に旧地の大久保町旦椋から天満天神が祀られていた現在地へ移されて再興されたことが、吉田兼右の『兼右卿記』に見える。延喜年間(901〜923年)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載された延喜式内社の一つに数えられる。現在の御祭神は高皇産霊神と神皇産霊神の二柱に、遷座先で合祀された天満天神の菅原道真公を加えた三柱。本殿は延宝2年(1674年)の改築によるもので、京都府の登録有形文化財となっている。
- 所在地
- 京都府宇治市大久保町北ノ山109
- 御祭神
- 高皇産霊神、神皇産霊神
- 系統
- 天神
隅田八幡神社
社伝では、神功皇后が外征からの帰途、筑紫を発って紀伊の衣奈浦を経て大和へ還幸する途中にこの地へ滞留したという旧跡とされ、欽明天皇の詔により貞観年間(859〜877年)に八幡宮が勧請されたと伝わる。のちに石清水八幡宮の社領となり「隅田の別宮」と称された。長治2年(1105年)には隅田荘の豪族で隅田党の祖である長(のちの藤原・隅田)忠延が社務を司る俗別当職となり、次いで荘官の公文職にも任じられ、以後代々両職を務めた。鎌倉時代以降は隅田党の氏神として社頭堂塔も整い栄えたが、永禄3年(1560年)松永久秀の攻略で社殿を焼失し慶長年間に再建。江戸時代は隅田荘十六か村の産土神として紀州徳川家の崇敬を受けた。文政2年(1819年)に再び焼失し同5年に再建されている。明治の神仏分離で神宮寺の大高能寺が分離され、大正5年に県社となった。境内には国宝「人物画象鏡」の記念碑が立つ。
- 御祭神
- 誉田別尊、足仲彦尊
- 系統
- 八幡
川上山若宮八幡宮
三重県津市美杉町川上、伊勢・伊賀・大和の国境に近い雲出川水源の地に鎮座する。創建の年代は明らかでないが、社伝によれば、家城から奥の一帯は磐之媛皇后の御領地「岩野郷」で、仁徳天皇がこの郷の開拓に努めたという。履中天皇の御代(5世紀初め)、郷民が仁徳天皇と磐之媛皇后の遺徳を慕い、伊勢平野を見下ろす修験業山の麓のこの清らかな地を選んで社を設け、両者の御魂を祀ったのが日本最古の若宮八幡宮であると伝えられる。社殿の創始以前から、修験業山の自然の磐座である高宮に国津神・天津神・八百萬神を尊崇してきたことが創建の淵源とされる。中世は修験道の霊場となり、伊勢国司北畠氏は当社の加護を頼って隣村多気に居城を構え、春秋の大祭には自ら参詣した。江戸時代の津藩主藤堂家も北畠氏の故事にならって篤く崇敬し、代々の祈願所とした。
- 系統
- 八幡
離宮八幡宮
京都府乙訓郡大山崎町に鎮座する八幡宮。平安時代初め、僧・行教が宇佐八幡宮の神霊を勧請したのが始まりで、社伝では貞観2年(860)に人々の平和を願って造営されたとする。この地が嵯峨天皇の離宮「河陽宮」の跡であったことから、後に離宮八幡宮と改称された。平安時代末に神官が「長木(ながき)」という搾油器を発明して荏胡麻油の量産を可能にし、灯明用の油として朝廷や社寺に納めた。室町時代には油の専売を担う「油座」の本拠地となり、諸国の油商人は当宮の許状なしには油を販売できなかったほどの富と権力を集めた。元治元年(1864)の禁門の変では長州藩の屯所となって社殿を焼失し、現在の社殿は昭和初期の再建である。今も「油の神様」として、全国の製油会社や油販売会社の関係者から篤い信仰を集めている。
- 系統
- 八幡
安閑神社
滋賀県高島市安曇川町三尾里に鎮座し、安閑天皇を祀る。創祀の年月は不詳だが、社伝によれば文禄年間(1592〜1596)には現在の社地から北へ約20間の場所に権現堂という小さな祠があったという。文化元年(1804)に弥惣兵衛が夢のお告げを受けて小堂を再建し、明治6年(1873)に現在の社殿が建てられた。本殿は一間社流造で覆屋を備え、間口四尺三寸・奥行三尺三寸。祭礼日は4月22日である。境内には高さ約1m・幅約1.4mの碑が立ち、表面に絵とも文字とも判別しにくい陰刻があることから、俗に「神代文字」の碑と伝えられている。旧産所村(現在の安曇川町田中馬場地区)にあった三尾神社に伝わった『秀真伝(ホツマツタヱ)』の記号文字に似た点があるとも言われ、地域の歴史をめぐる伝承として語り継がれている。
- 所在地
- 滋賀県高島市安曇川町三尾里
- 御祭神
- 安閑天皇
油日神社
滋賀県甲賀市甲賀町、南鈴鹿の霊峰・油日岳の麓に鎮座し、明治時代までは「油日大明神」と称した。『日本三代実録』には元慶元年(877)に「油日神」が従五位下を授かったと記されており、それ以前から存在した古社であることが分かる。古くは油日岳を神体山とし、山頂には今も岳神社が祀られる。中世には一帯に成長した武士の崇敬を集め、本殿造営の奉加を記した明応4年(1495)の「油日御造宮御奉加之人数」には、杣谷を中心に190にのぼる武士や寺庵からの寄進がみえる。戦国期には上甲賀の武士が結んだ同名中・郡中惣の拠り所となったことから「甲賀の総社」と呼ばれ、境内は「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして国の史跡に指定されている。本殿(明応2年)、拝殿(天正年間)、楼門および東西回廊(永禄9年)は国の重要文化財で、室町時代の社殿がまとまって現存する。
- 所在地
- 滋賀県甲賀市甲賀町油日1042
- 御祭神
- 油日大神
阿部野神社
大阪市阿倍野区北畠に鎮座し、南北朝時代に南朝方として各地を転戦した北畠顕家と、その父・北畠親房を祀る。社地は顕家が戦った古戦場にあたり、近くの北畠公園には顕家の墓と伝えられる場所がある。この古戦場と墓所の由縁により明治18年(1885)に創建され、鎮座に際して、南朝の中心人物として活躍した父・親房も併せて祀られた。夏祭の本宮祭にあたる7月22日には、北畠公園の顕家墓所まで渡御式が斎行され、あわせて夏を無事に乗りきることを祈る夏越祓の儀式も行われる。
- 所在地
- 大阪府大阪市阿倍野区北畠3丁目7-20
- 御祭神
- 北畠親房、北畠顕家
阿閇神社
兵庫県加古郡播磨町本荘に鎮座し、海上交通の守護神である住吉三神(底筒男命・中筒男命・上筒男命)と、神功皇后である息長帯姫命を祀る。江戸時代初めに建てられた本殿は、一間社春日造・檜皮葺の同形の社殿が一直線に四棟並び、それらを廊橋で結んだ全国的にも珍しい構成で、四棟まとめて兵庫県指定文化財(建造物)となっている。毎年10月に行われる秋祭りは、享保15年(1730)に東本庄村の庄屋・梅谷七右衛門清政が、100年余り途絶えていた祭りを復活させたものと伝えられ、現在まで地域に受け継がれている。
- 所在地
- 兵庫県加古郡播磨町本荘4丁目11-21
- 御祭神
- 底筒男命、中筒男命
- 系統
- 住吉
少彦名神社
大阪・道修町は豊臣期の頃から薬種取引の場として薬種業者が集まる町だった。薬は人命に関わるうえ品質の見極めが難しいことから、神の加護を得て職務を正しく果たそうと、安永9年(1780)に京都の五條天神から少彦名命を仲間の寄合所へ迎え、以前から祀っていた中国医薬の祖神・炎帝神農と併せて祀ったのが始まりとされる。以来「神農さん」の愛称で親しまれ、日本医薬総鎮守として病気平癒・健康成就の信仰を集めてきた。文政5年(1822)に大坂でコレラが流行した際、薬種仲間が虎の頭骨などの和漢薬を配合した丸薬「虎頭殺鬼雄黄圓」を作り、病名と薬に「虎」の字が当てられていたことから張り子の虎の守りとともに施与した。これが家内安全・無病息災を願う当社独自の授与品として全国へ広まった。
- 所在地
- 大阪府大阪市中央区道修町2丁目1-8
- 御祭神
- 少彦名命、神農炎帝
山国神社
京都市北部の京北地域、旧山国郷に鎮座する延喜式内社です。社伝では光仁天皇の宝亀年間(770〜780)の鎮座と伝えられ、延暦13年(794)の平安遷都にあたって大内裏造営の用材がこの郷から徴されたため一帯が御杣料地と定められ、修理職の官人が本殿を造営し、和気清麻呂が祭主を務めたといいます。以後、大嘗祭の悠紀殿・主基殿の用材を調える役も担いました。長和5年(1016)には三条天皇から正一位を賜り、御祈願所として菊花の紋章を許されたと伝わります。源平の争乱や元弘の乱でたびたび社殿を失いましたが、細川頼之の執奏により応永6年(1399)に復旧し、このとき足利義満が奉納した丸に二つ引きが以後の神紋となりました。慶長元年(1596)に後陽成天皇によって再建され、明治6年(1873)に郷社、明治33年(1900)に府社へ列格。幕末に官軍として東征した山国隊ゆかりの社としても知られます。
- 所在地
- 京都府京都市右京区京北鳥居町宮ノ元1番地
- 御祭神
- 大己貴命、大国主命
- 系統
- 出雲
山津照神社
滋賀県米原市能登瀬、天野川中流域の丘陵上に鎮座する式内社で、『延喜式神名帳』に近江国坂田郡の小社として名を連ねます。社伝では奈良時代、この地を本拠とした豪族・息長氏が祖神を祀ったことに始まるとされ、天平神護2年(766年)に近江の地6戸が神封として寄せられたと記録されます。祭神は国常立尊。仁寿元年(851年)に正六位、貞観8年(866年)に正四位下の神階を受け、寛平9年(897年)には金勝寺の鎮守として年分度者が認められました。暦応2年(1339年)には朝廷の祈願により社殿が修造され、文和3年(1354年)にも勅願があるなど、朝野の崇敬を集めて社領の寄進もたびたび行われました。中世は「青木の宮」と称しましたが明治に旧社号へ復し、明治14年に郷社、大正10年に県社へ列格しました。明治15年の参道拡張工事の際には境内から全長約46mの前方後円墳(山津照神社古墳)が見つかり、金銅製冠や銅鏡、馬具などが出土しました。現在も近郷20か村の氏神として崇敬されています。
- 所在地
- 滋賀県米原市能登瀬390
- 御祭神
- 国常立尊
夜支布山口神社
奈良市東部の大柳生に鎮座する氏神で、旧県社。『延喜式』神名帳の大和国添上郡に「夜支布山口神社」(大社、月次・新嘗)として記され、宮殿造営の御料林を伐り出す山の口に坐す神を祀った大和十三山口神社の一つに数えられる。『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)に従五位下、『日本三代実録』貞観元年(859年)に正五位上を授けられ、同年には風雨を祈って幣帛が奉られた。社名は養布・養父とも表記され、俗に高野宮・天王社とも呼ばれた。もとは南方約600メートルの上出集落に鎮座していたが、中世に巨石を神体とする立磐神社の境内へ遷ったと伝わる。摂社・立磐神社の本殿は、春日大社本社本殿の第四殿を延享4年(1747年)7月に移築したもので、国の重要文化財に指定されている。現在の祭神は素盞嗚命とされるが、山口神の性格から本来は大山祇命を祀ったとする説もある。
- 所在地
- 奈良県奈良市大柳生町3089
- 御祭神
- 素盞嗚命
彌榮神社
旧記によれば、文禄年間(1592〜1595)に出雲国意宇郡の熊野大社(現在の島根県松江市)から御分霊を迎えて祀ったのが創建と伝わる。当初は牛頭天王社と呼ばれ、創立以来この地の鎮守として信仰されてきた。明治5年(1872)に村社に列せられ、社号を現在の彌榮神社に改めている。明治43年(1910)には旧岡村の御館神社を合祀した。御祭神は素戔嗚尊と仁徳天皇。7月の夏祭では御神輿と鳳輦を中心とした行列が氏地を巡り、天王寺区餌差町の味原御旅所と生野区勝山北の岡御旅所へ渡御する。鶴橋・桃谷の市街地に鎮まる氏神として、今も地域の祭礼の中心となっている。
- 所在地
- 大阪府大阪市生野区桃谷2-16-22
- 御祭神
- 素戔嗚尊、仁徳天皇
高石神社
大阪湾を西に望む高師浜の松林に鎮座する式内社で、旧郷社。創建の年代は詳らかでないが、白雉元年(650年)の鎮座と伝えられ、平安時代の『延喜式』神名帳にも「高石神社」の名が記される古社である。古くは天神の社と呼ばれていた。祭神は少彦名命に天照大神と熊野坐神を合わせ祀る。鎮座地の高師浜は万葉の時代から白砂青松の景勝地として和歌に詠まれてきた土地で、境内には往時の面影を残す松林が広がり、百人一首の歌碑も置かれている。紀州街道が近くを通ることから熊野詣との関わりも深く、境内には熊野権現の御拝所が残る。海に生きる人々の信仰も篤く、船乗りが航海の願解きに相撲を奉納する慣わしがあったと伝わる。
- 所在地
- 大阪府高石市高師浜4丁目1-19
- 御祭神
- 少彦名命、天照大神
高砂神社
社伝によれば、神功皇后が外征からの帰途にこの地へ船を寄せ、加護を受けた大己貴命を国家鎮護のために祀ったのが始まりとされる。天禄年間(970〜972)に疫病が流行した際、神託により素盞嗚命と奇稲田姫命を合わせ祀ったところ疫病が鎮まったと伝わる。文禄元年(1592)には豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して参拝し、戦勝を祈願したと伝えられる。慶長6年(1601)、姫路城主の池田輝政が社地に高砂城を築くことを定めて社領を寄進し、慶長10年(1605)の築城にともなって社殿は西北の松林へ移された。元和元年(1615)の一国一城令で高砂城が廃されたのち、寛永2年(1625)に姫路藩主本多忠政が社領を寄進して旧地へ戻している。境内の「相生の松」は一つの根から雌雄二本の幹が立つ松で、尉(伊弉諾尊)と姥(伊弉冊尊)が宿る霊松と伝えられ、謡曲『高砂』ゆかりの社として知られる。現在の松は5代目にあたる。旧社格は県社。
- 所在地
- 兵庫県高砂市高砂町東宮町190
- 御祭神
- 大己貴命、素盞嗚命
- 系統
- 出雲
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