ご利益

開運の神社

開運のご利益で探せる神社を821件掲載。代表的な神社は屋島神社です。

開運で知られる御祭神

開運で有名な神社

開運の神社一覧

821件中21-40件を表示しています。

奈良県開運

龍穴神社

りゅうけつじんじゃ

創建年代は明らかでないが、近隣の室生寺よりも古い歴史をもつと伝えられる古社で、水を司る高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。奈良時代から平安時代にかけては朝廷が勅使を派遣して雨乞いの神事を営んだと伝わり、室生寺が当社の神宮寺と位置づけられた時代もあった。社殿の上流には龍神が棲むと伝わる洞穴「妙吉祥龍穴」があり、古代から神聖な磐境とされてきた。現在の春日造の本殿は、春日大社若宮の社殿を江戸時代の寛文11年(1671年)に移築したもので、奈良県の指定文化財となっている。毎年10月の秋祭りでは、2頭の獅子が五穀豊穣と魔除けを祈願して舞う「室生の獅子舞」が奉納される。

所在地
奈良県宇陀市室生1297
御祭神
高龗神
島根県開運

六所神社

ろくしょじんじゃ

出雲国府跡に鎮座し、『出雲国風土記』『延喜式』の双方に記載される古社。社伝では元は佐久佐神社と称したとされ、式内社・佐久佐神社の論社にあたる。奈良時代以降は出雲国の総社としての社格を有し、国内の神社へ幣帛を分かつ班幣式や諸祈願は、出雲国中の神主を当社に集めて国司が斎行した。社名の六所は六柱の神を祀ることによるとも、諸社を管理・統括する「録所」に由来するともいわれる。王朝時代から続く古伝の御田饌(みたげ)神事には勅使の参向があり、観応元年(1350年)を境に熊野大納言が代参するようになった。その行列と儀式を描いた壁画は島根県の文化財に指定されている。本殿は大社造で、神紋は出雲大社の古い神紋と同じ二重亀甲に「有」。出雲国造家とゆかりの深い「意宇六社」の一社に数えられ、大正14年(1925年)に県社へ昇格した。

所在地
島根県松江市大草町496
御祭神
伊邪那岐命、伊邪那美命
系統
出雲
三重県開運

尾野神社

おのじんじゃ

創立年代は不詳。三重県神社庁が引く『桑名市史』によれば、当社はもともと入江・田宮・船戸の三か村の総社で、三村が合併して東方村となったのち、入江村の人々が尾野入江のほとりで尾野神社を祀ったという。尾野山北の鼻山に鎮座していた社を後に船着大明神の社へ遷して相殿としたとの説もあり、「船着大明神」の別名で呼ばれてきた。境内には御霊と称する前方後円型の古墳があり、往古はその付近に社殿が建っていたと伝える。永禄10年(1567年)には織田信長の兵乱で別当寺の小野山正斎坊が廃絶し、社蔵の古文書や古器物もことごとく焼失した。『延喜式』神名帳の伊勢国桑名郡に載る尾野神社の比定社とされ、倭姫命が巡行した桑名野代宮の伝承地(元伊勢)の一つにも数えられる。明治29年(1896年)に県社へ昇格し、明治41年(1908年)には式内社の立坂神社を合祀した。

所在地
三重県桑名市大字東方2194
御祭神
天押帯日子命、天照大御神
新潟県開運

小丹生神社

おにうじんじゃ

創建年代は不詳。刈谷田川の左岸、熱田ヶ岡と呼ばれる高台に鎮座する。伝承では、祭神の波多武日子命は大彦命の御子で越の地に館を構えて「小丹生の三官」と称され、その後裔である古志連が祖神を小丹生ヶ岡に祀ったのが起こりだという。天喜年間(1053〜1058年)に現在地へ遷座し、土地の名から熱田明神(熱田神社)と呼ばれるようになった。のちに須佐之男命の分霊が勧請合祀され、それにちなむ神楽と神剣が伝えられている。中世は上杉氏、江戸時代は長岡藩主牧野家の崇敬を受けた。明治に入って旧社号とみられる小丹生神社に復し、明治4年(1871年)に村社に列した。『延喜式』神名帳の越後国古志郡「小丹生神社」の論社の一つに数えられる。例祭で奉納される太久神楽は当地方の出雲流神楽の発祥とされ、三条神楽や栃尾神楽に影響を与えたと伝わる。

所在地
新潟県見附市名木野町1359
御祭神
波多武日子命、天美明命
系統
丹生
福井県開運

若狭彦神社

わかさひこじんじゃ

若狭国一宮。社伝では、遠敷川の清流が巨巌に突き当たって淵をなす鵜ノ瀬に若狭彦神・若狭姫神が降臨し、和銅7年(714年)に白石の里へ示現したと伝える。永久の鎮座地を求めて若狭国内を巡歴したのち、霊亀元年(715年)9月10日に竜前の現在地へ鎮まったのが当社(上社)で、6年後の養老5年(721年)に遠敷へ若狭姫神社(下社)が分祀された。『延喜式』神名帳には若狭国遠敷郡「若狭比古神社二座 名神大」と載り、両座が名神大社に列している。中世には上社を一宮、下社を二宮と称したが、室町期ごろから祭祀の中心は下社へ移った。明治4年(1871年)には近代社格制度において国幣中社に列格した。奈良・東大寺二月堂の修二会に遅参した遠敷明神が閼伽水を送ると約したという伝承があり、鵜ノ瀬で行われる「お水送り」神事の由緒となっている。農業・漁業・安産育児のほか、畳や敷物にかかわる商工業の守護神としても信仰が篤い。

所在地
福井県小浜市竜前28-7
御祭神
彦火火出見尊
埼玉県開運

楡山神社

にれやまじんじゃ

深谷市原郷に鎮座する『延喜式』神名帳所載の式内社で、武蔵国幡羅(はら)郡四座の一社。幡羅郡の総鎮守とされ、境内に残る古い社号標にも「武蔵国幡羅郡總社延喜式内楡山神社」と刻まれている。旧社家が絶えて社記の類が散逸したため創建年代は不明だが、第五代孝昭天皇の御代の鎮座という口碑が伝わり、後世の地誌には幡羅太郎道宗が再興したとも記される。社名は、神域一帯にニレの木が多く茂っていたことに由来する。江戸時代は天台宗東学院が別当を務め、熊野信仰の影響から「熊野三社大権現」とも呼ばれたが、明治の神仏分離により楡山神社の社号へ復した。明治5年(1872)に郷社、大正12年(1923)に県社へ昇格。境内には目通り約3.6m、樹高約10m、樹齢約600年と推定されるハルニレの神木が立ち、昭和24年(1949)に埼玉県の天然記念物に指定されている。

所在地
埼玉県深谷市原郷336
御祭神
伊邪那美命
奈良県開運

六縣神社

むつがたじんじゃ

曽我川の右岸の堤に接して境内を構える旧村社。もとは「六所明神」「保田明神」と呼ばれていたが、神殿に六面の神鏡が掛けられていたことから、明治初期に六縣神社と改称された。祭神の六縣命は、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布という大和国の六つの県(あがた)を司る神々とされる。境内は隣接する富貴寺と一体で、神仏習合の名残をとどめる。毎年2月11日の夜に拝殿で行われる御田植神事「子出来おんだ祭」で広く知られ、水見回り・牛使い・施肥・土こなげ・田植・螺拾いの六つの所作に続いて、妊婦(本厄の男性が演じる)が夫のもとへ弁当を運び出産の所作を見せる安産の神事、さらに種蒔きの所作が演じられる。この神事は平成18年(2006)に奈良県の指定文化財となった。

所在地
奈良県磯城郡川西町保田30
御祭神
高市命、葛木命
鳥取県開運

茂宇気神社

もうけじんじゃ

鳥取市鹿野町河内の山あいに鎮座する。創立年代は不詳だが、古くから河内地区の氏神として祀られ、かつては妙見大権現と称した。寛文7年(1667)に鳥取藩主池田家から社領六斗を寄進され、元禄15年(1702)に天照大御神を勧請合祀して妙見茂宇気宮と改めた。明治初年に茂宇気神社と改称し、村内の山神(大山祇命)や稲荷神、境内末社の稲荷大明神(倉稲魂命)を合祀している。明治5年(1872)に村社に列し、大正9年(1920)には神饌幣帛料供進神社に指定された。社名の「もうけ」という響きが「儲け」に通じるとして、近年は商売繁盛や金運の神として知られるようになり、県外からの参拝者も訪れる。社殿へ続く264段の急な石段が印象的な社である。

所在地
鳥取県鳥取市鹿野町河内4410
御祭神
天照大御神、大山祇命
三重県開運

本居宣長ノ宮

もとおりのりながのみや

『古事記伝』を著した江戸中期の国学者・本居宣長を神として祀る神社。碩学である宣長を神として祀ろうとする気運は早くからあり、明治初年に川口常文らが主唱して実現した。明治8年(1875)3月、旧山室村にある宣長の奥墓のかたわらに社殿を建て、山室山神社と号したのが創祀である。明治22年(1889)に現在の松阪市役所が建つ地へ遷座し、明治36年(1903)には県社に昇格した。大正4年(1915)、松阪発祥の聖地とされる四五百(よいほ)の森へ遷り、現在地に落ち着いている。昭和6年(1931)に社号を本居神社と改め、戦後の社格廃止と宗教法人化を経て、平成7年(1995)に現在の「本居宣長ノ宮」となった。相殿には宣長の学統を継いだ平田篤胤を祀り、学業成就・合格祈願の神として信仰を集める。境内には、市内の紡績工場から遷された末広稲荷大神も鎮座する。

所在地
三重県松阪市殿町1533番地2
御祭神
秋津彦美豆櫻根大人(本居宣長)、神霊能真柱大人(平田篤胤)
滋賀県開運

還来神社

もどろぎじんじゃ

祭神の藤原旅子は太政大臣・藤原百川の娘で、桓武天皇の妃となり淳和天皇を生んだ。社伝によれば、龍華の荘(現在の大津市伊香立途中町・上龍華町・下龍華町)は藤原氏の食邑地で旅子の生誕地にあたり、延暦7年(788年)に没した際「生地である比良南麓の梛の大木の下に葬れ」と遺命したことから、この地に神霊として祀られたという。平治の乱(1159年)で敗走した源義朝の一行が当社で白羽鳴鏑の矢を献じて武運長久を祈り、途中で落伍した源頼朝も山中をさまよった末に社頭へたどり着いて源氏再興を祈願し、東国へ落ち延びたと伝える。後年、頼朝は神恩に報いて神田を寄進した。「還り来る」という社名の由緒から、日清・日露戦争や太平洋戦争では出征者の無事帰還を祈る参拝が絶えず、現在も旅行安全・交通安全・病気平癒・尋ね人の帰還祈願で信仰を集めている。

所在地
滋賀県大津市伊香立途中町518
御祭神
藤原旅子霊
三重県開運

水屋神社

みずやじんじゃ

社伝では千年余り前に大和・春日大社の安在所として天児屋根命を祀ったことに始まり、大化4年(648年)に奈良の三笠山から素盞鳴命と龍神姫命を勧請したと伝える。和銅3年(710年)に興福寺東門院領「閼伽桶の庄」となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以降は伊勢領に属した。南北朝期、文中2年(1373年)の棟札にも「大和州閼伽桶庄宮」と記されている。垂仁天皇の代に天照大神が当地を巡幸した際、鎮座していた春日の神と議って櫛田川の巨石をもって伊勢・大和両国の境と定めたという伝承があり、里人はこの石を「礫石」、付近を「堺が瀬」と呼ぶ。社名も所在地名「赤桶」も神事も祭神も水に関わり、西方約700mには「閼伽桶の井」がある。社殿は朱塗りの春日造三殿並立から明治25年に現在の神明造へ改められた。

所在地
三重県松阪市飯高町赤桶2507
御祭神
天児屋根命、素盞鳴尊
山梨県開運

美和神社

みわじんじゃ

社記によれば、景行天皇の御代に日本武尊の命を受けた甲斐国造・塩海足尼が、大和の大三輪明神(大神神社)から勧請したのが始まりと伝える。『日本三代実録』貞観5年(863年)の条に美和神に従五位上を授けた記事が見え、一条天皇の代に第二之宮の号を賜って甲斐国二宮となった。中世以降は鎌倉・足利・武田の各氏によって社殿が修造され、武田氏滅亡後は徳川家康が社領を安堵、家光が朱印領177石を寄進して以後歴代が安堵した。一之宮の浅間神社、三之宮の玉諸神社と合同で行われた川除祭は明治3年にいったん途絶えたが、平成15年に復活している。社宝に国指定重要文化財の木造大物主神立像、山梨県指定文化財の白糸威褄取鎧や板絵著色三十六歌仙図などを伝える。

所在地
山梨県笛吹市御坂町二之宮1450
御祭神
大物主命
神奈川県開運

松尾神社

まつおじんじゃ

社伝では鎌倉時代の文暦元年(1234年)に京都・松尾大社の御分霊を勧請して創建したと伝える。旧来は「田中社」「田中の神社」などとも称された。戦国時代には小田原北条氏の勇将・北条綱成の崇敬が篤く、江戸時代に大山詣りが盛んになると、その道中に当社へ立ち寄って参拝する慣習が生まれた。祭神の大山咋神は治水・開拓・土木・建築・商業・養蚕・醸造・酒造など諸産業の祖神として崇められ、現在も技工職能の向上、山川開拓の守護の神社として親しまれている。末社には地神・疫神・疱瘡神の三柱を祀る。

所在地
神奈川県横浜市戸塚区上矢部町421
御祭神
大山咋神
東京都開運

宮中三殿

きゅうちゅうさんでん

皇居の吹上御苑にある賢所・皇霊殿・神殿の三殿をまとめた呼称で、三殿を一括して賢所と称することもある。南面して建つ三殿の中央が皇祖天照大御神を祀る賢所、その西が歴代天皇・皇后・皇族の霊を祀る皇霊殿、東が天神地祇八百万神を祀る神殿にあたる。明治維新後に宮中の祭祀が段階的に整理され、明治5年(1872年)に現在に連なる三殿の形が整ったと解されている。現在の建物は宮内省一等匠手を務めた木子清敬の設計により明治21年(1888年)10月に竣工し、翌明治22年1月9日に遷座された。単層入母屋妻入の白木造で、屋根は当初の檜皮葺から後に銅板葺へ改められた。昭和19年(1944年)には空襲を避けて皇居内の防空壕へ、平成16年(2004年)には耐震劣化調査のため仮殿へ一時動座している。祭祀は宮内庁とは別の内廷組織である掌典職が担う。

所在地
東京都千代田区千代田1番1号(皇居 吹上御苑内)
御祭神
天照大御神(賢所)、歴代天皇・皇族の霊(皇霊殿)
滋賀県開運

鹽津神社

しおつじんじゃ

創祀の年代は不詳ですが、『延喜式神名帳』に近江国浅井郡の式内社として記される「鹽津神社」の論社とされ、香取神社・香取五神社とともに比定候補に挙げられています。祭神は製塩や航海を司るとされる塩土老翁神で、彦火火出見尊と豊玉姫尊を配祀します。鎮座地の塩津浜は琵琶湖の最北端にあたり、日本海側と湖上水運を結ぶ港として古くから開けた土地で、社名も地名と結びついています。近代の社格では明治9年(1876年)に村社、明治17年(1884年)に郷社へ加列されました。本殿は一間社流造で、神紋は三ッ巴。境内社として八幡神社・琴平神社・愛宕神社が祀られています。平成20年(2008年)には近隣の遺跡から神像5体が出土し、当社との関わりが研究の対象となっています。

所在地
滋賀県長浜市西浅井町塩津浜547
御祭神
塩土老翁神、彦火火出見尊
熊本県開運

菊池神社

きくちじんじゃ

南北朝時代に南朝方として戦った菊池氏を祀るため、明治3年(1870年)4月28日に菊池城址の丘で鎮座祭が行われました。発端は慶応4年(1868年)、熊本藩から明治新政府の参与に出仕した細川家一門の長岡護美が、菊池氏と加藤清正を祀る神社の創建を建議したことにあり、同年7月18日に太政官がこれを採択して熊本藩に祭祀を命じています。鎮座時は第12代菊池武時を主祭神とし、第13代武重と第15代武光を配祀神としていましたが、大正12年(1923年)に武重と武光も主祭神となり、三柱を主祭神とする現在の形になりました。あわせて菊池一族26柱を配祀しています。社格は明治6年(1873年)に郷社、明治8年(1875年)に県社、明治11年(1878年)に別格官幣社へと昇格し、現在は別表神社です。境内には菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物を展示する菊池歴史館が置かれています。

所在地
熊本県菊池市隈府1257
御祭神
菊池武時、菊池武重
奈良県開運

狭井神社

さいじんじゃ

大神神社の摂社で、正式には狭井坐大神荒魂神社という。三輪山の北麓、大神神社の拝殿から北へ延びる「くすり道」を進んだ先に鎮座する。社伝では垂仁天皇の時代の創祀と伝えられ、『延喜式』神名帳にも名を載せる古社である。主祭神は三輪の神の荒魂で、その力強い神威から古来病気平癒の神として厚い信仰を集めてきた。境内の井戸は社名「狭井」の由来とされ、湧き出る水は薬水と呼ばれて万病に効くと伝えられてきた。4月18日の鎮花祭は「薬まつり」の名で知られ、大宝律令(701年)に大神神社とこの社で行う国家の祭祀として規定された疫病除けの神事で、現在も製薬・医薬関係者が多く参列する。境内には三輪山への登拝口があり、その受付を担っている。

所在地
奈良県桜井市三輪1422
御祭神
大神荒魂神、大物主神
岐阜県開運

神田神社

かんだじんじゃ

美濃国賀茂郡の式内社「神田神社」に比定される古社で、社伝では元正天皇の養老2年(718年)の創建と伝えられる。『延喜式』神名帳では社名を「かむだ」と読んだとされ、村名の「神土(かんど)」もこれに通じる。平安時代中期以降に衰微したが、嘉慶2年(1388年)に再興・修復され、神仏習合のもとで白山妙大権現と改称された。室町時代に再び衰えたのち永禄元年(1558年)に復興し、享保2年(1717年)には社殿が建て替えられている。明治元年(1868年)の神仏分離・廃仏毀釈にともない白山妙大権現から現在の神田神社へ社名を戻し、明治3年に式内社として認定された。伊邪那岐命ら五柱を主祭神とし、猿田比古命・大山祇命・天照皇大神・菊理比女命・誉田別命・須佐之男命など、村内の諸社から多くの神々を合祀している。

所在地
岐阜県加茂郡東白川村神土604
御祭神
伊邪那岐命、伊邪那美命
系統
出雲
東京都開運

神田神社

かんだじんじゃ

社伝では天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の大手町・将門塚周辺)に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったことに始まるとされる。この地はもと伊勢神宮の御田があった土地で、神田の名もそこに由来すると伝わる。延慶2年(1309年)には、近くに葬られた平将門が霊神として合わせ祀られた。慶長8年(1603年)以降の江戸城拡張にともなって神田台へ移り、元和2年(1616年)に現在の外神田へ遷座している。江戸幕府の尊崇を受け、神田・日本橋・秋葉原・大手町など108か町の総氏神として「江戸総鎮守」と称された。明治7年(1874年)には少彦名命を大洗磯前神社から迎える一方、将門命は摂社へ移されたが、昭和59年(1984年)に本殿の祭神へ復している。大正12年(1923年)の関東大震災で社殿を焼失し、昭和9年(1934年)に当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート造の権現造で再建された。

所在地
東京都千代田区外神田2-16-2
御祭神
大己貴命、少彦名命
系統
出雲
滋賀県開運

上許曾神社

かみこそじんじゃ

近江国浅井郡に鎮座する式内社で、『延喜式』神名帳に載る近江国155座のうち浅井郡14社の一つに数えられる。社伝によれば桓武天皇の延暦8年(789年)、参議・橘奈良麻呂が詔を受けて草野姫命を勧請し、上許曽社と称したのが創建という。仁寿元年(851年)には正六位を授けられたと伝わる。治承年間(1177〜81年)に相殿として4柱の神を合わせ祀った。一帯は古く草野郷・上草野郷、のちに上許曽庄などと呼ばれた地で、社名もこの地名に由来する。明治9年(1876年)に村社、明治15年(1882年)に郷社へ列格した。本殿は入母屋造で、境内には大杉が育ち、上草野の地の鎮守として今日まで祀られている。

所在地
滋賀県長浜市高山町2
御祭神
草野姫命

開運神社を都道府県から探す

47都道府県から、開運に関連する神社を地域別に探せます。

開運とは

開運は、運気の上昇・人生の転機の後押し・全体的な流れの好転を願う総合的なご利益。特定の悩みというより「人生の流れを良い方向に変えたい」「新しい扉を開きたい」という時に祈ります。年初の初詣で多くの人が「今年も良い年になりますように」と祈るのも、広い意味での開運祈願です。

開運信仰の本質——「運を開く」とは

神道では「運(うん)」は天が定め、人が誠実に行動することで活かされるものとされます。「開運」とは棚から牡丹餅のように幸運が降ってくることではなく、「自分の行動と祈りの一致によって、定められた良い運を引き出す」ことを意味します。七福神信仰・初詣・方位学など、開運に関わる日本文化はこの考え方を基盤にしています。

開運祈願の代表的な神社

全国格式最高位: 伊勢神宮(皇大神宮・天照大御神)、出雲大社(大国主命) 東日本: 明治神宮(東京)、三峯神社(埼玉)、鶴岡八幡宮(鎌倉) 西日本: 住吉大社(大阪)、春日大社(奈良)、太宰府天満宮(福岡)

開運グッズの意味と種類

熊手(商売繁盛・開運): 福をかき込む道具として西日本中心に広まる 破魔矢(厄除け・開運): 年末年始に授与される魔除けの矢 絵馬: 祈りを書いて奉納する馬の形の板。全国で最もポピュラーな祈願ツール 七福神巡り: 正月に7社を巡り7神のご利益を集める開運の巡礼

参拝のポイント

年初の初詣(1月1〜3日)が最も活発ですが、誕生日・厄年明け・人生の転機(転職・結婚・新居)でも開運祈願は一般的です。初穂料は5,000〜10,000円。 七福神巡りは正月三が日〜1月15日の間に行うのが伝統。熊手は毎年大きくするのが縁起が良いとされます。開運守・破魔矢は年末年始に新調し、古いものはお焚き上げへ。お守りや開運グッズは「感謝して大切に扱うこと」が最大の作法です。

よくある質問

開運と他のご利益(縁結び・金運)は何が違いますか?

開運は「人生全体の運気の底上げ・方向転換」という包括的なご利益。縁結び・金運は開運の中の特定分野です。「まず何を祈るかわからない」「漠然と人生を好転させたい」という場合に開運が向いています。

開運祈願はどのくらいの頻度で行うべきですか?

年1回(初詣)が基本。誕生日・厄年・節目の時に追加で祈る人もいます。「何度も催促する」より「感謝・報告・新しい祈り」のサイクルが神道の基本作法です。

七福神巡りは1日で全部回らないといけませんか?

1日で回る必要はありません。正月三が日〜松の内(1月15日)までに巡るのが伝統ですが、1ヶ所ずつ別の日に参拝する人も多くいます。焦らずゆっくり巡る方が各神社を丁寧に参拝できます。

開運グッズ(熊手・破魔矢)はどこに飾るのが良いですか?

熊手はお店・リビングの高い場所(南東向き・入口付近)に。破魔矢は神棚、またはリビングの高い位置に東・南向きに。お守りは財布・バッグなど常に携帯できる場所に。大切に扱い、定期的に埃を払うのが礼儀です。

悪いことが続いている時はどの神社に行けばいいですか?

地元の氏神様(一番身近な神社)への参拝が基本です。「最近悪いことが続いています、お守りください」という素直な報告と祈りが最初の一歩。気になるなら厄除け・方除けも合わせて祈るのが伝統的です。

大晦日と元旦どちらに参拝するのが開運に良いですか?

大晦日の深夜参拝(年越し参拝・除夜詣)は「古い年を感謝して送り、新しい年を迎える」意味があり、元旦の初詣は「新しい年の祈りを最初に捧げる」意味があります。どちらも正式な参拝で、どちらが「より開運」という優劣はありません。

引っ越し・転職などの転機に開運参拝は効果がありますか?

転機は「運を開くチャンス」と神道では考えます。引っ越し・転職・起業・結婚など新しいスタートの前に参拝し、「新しい道でのご加護を」と祈ることは、気持ちを整える意味でも開運の作法として有効です。