節分祭は神社によって豆まき式の開催時間や、著名人・年男年女が参加する式典の有無が異なります。混雑が予想される神社では、境内の案内や公式サイトで開催時間を事前に確認しておくと安心です。
節分の由来や豆まきの作法、恵方巻きとの関係は詳しい解説記事でまとめています。
公式情報で節分祭・豆まき行事を行っていることが確認できる神社を225社紹介。2月3日頃の参拝先を探す際の参考にできます。
節分祭は神社によって豆まき式の開催時間や、著名人・年男年女が参加する式典の有無が異なります。混雑が予想される神社では、境内の案内や公式サイトで開催時間を事前に確認しておくと安心です。
節分の由来や豆まきの作法、恵方巻きとの関係は詳しい解説記事でまとめています。
この一覧は、公式サイトなどで節分祭・豆まき行事の実施が確認できた神社を掲載しています。多くの神社が節分の時期に何らかの行事を行っていますが、この一覧では確認できた範囲のみを紹介しています。
公式情報で節分祭・豆まき行事との関連が確認できた神社をまとめています。
社伝によれば、安閑天皇元年(531年)、物部姓礒部氏がその氏神である経津主神を祀ったことに始まり、後に機織や農耕の神とされる比売大神をあわせ祀るようになったと伝わる。1400年以上の歴史を持つ上野国一之宮で、延喜式にも名神大社として名を連ねる古社である。現在の社殿は寛永12年(1635年)、3代将軍徳川家光の命により造営されたもので、江戸初期の漆塗り極彩色の建築として国の重要文化財に指定されている。参道を上った先の総門から石段を下った位置に社殿が鎮座する、全国でも珍しい「下り宮」としても知られる。
三宅八幡宮は、創建の詳しい年代を伝える記録が残っていないが、江戸時代中期には現在のような姿ですでに存在していたと伝わる。境内には古くから奉納されてきた子育て祈願の絵馬124点が伝わり、2009年3月11日には国の重要有形民俗文化財に指定された。
JR両毛線岩宿駅の近く、みどり市笠懸町阿左美に鎮座する。明治の神仏分離以前の姿を守る神仏習合の社であることを掲げ、神と仏の双方を祀る点に特色がある。祀られるのは天地宇宙を司る造化三神、現世と霊界を司り因縁の浄化を導くとされる天照大御神・月読大御神・月輪観世音菩薩、商売繁盛や金運・良縁を導くとされる大國主大神をはじめとする福徳の神仏、学業や芸能を司る文昌帝君と菅原道真公など十二柱。護摩による祈祷、お祓い、御供養のほか、宗旨宗派を問わない相談や占術鑑定にも応じている。
三嶋大社は大山祇命・積羽八重事代主神を祀る神社。商売繁盛・家内安全のご利益で知られ、不明(奈良時代に記録あり)に創建された由緒ある神社です。
三嶋神社(京都・上馬町)は大山祇大神・天津日高彦火瓊々杵尊・木花咲耶姫命を祀る、京都市東山区の神社。うなぎを神使とする「うなぎ神社」としても知られ、子授け・安産の信仰を集めています。
上杉神社は上杉謙信公を祀る神社。開運招福・諸願成就のご利益で知られ、1871年(明治4年)に創建された由緒ある神社です。
上賀茂神社は賀茂別雷大神を祀る神社。厄除け・方除けのご利益で知られ、678年(天武天皇7年)に創建された由緒ある神社です。
上野天満宮は、平安時代中期に陰陽師・安倍晴明の一族がこの地に住み、菅原道真公を慕ってその御神霊を祀ったことに始まると伝えられる。名古屋三大天神の一社として崇敬され、学問成就・合格祈願の天神信仰を今に伝えている。
上野東照宮は寛永4年(1627年)の創建と伝わり、徳川家康公を東照大権現として祀る神社である。日光・久能山の東照宮とともに、全国に数多く分社が置かれた東照宮の一社にあたる。現在の社殿は江戸時代初期に造営されたもので、金色殿と通称される社殿をはじめとする建造物群は、戦火や震災による被害を免れ、江戸初期建築の貴重な遺構として国の重要文化財に指定されている。出世や勝利、健康長寿にゆかりのある神として参拝されているとされる。
創建年代は不詳。平安時代、相次ぐ疫病や災害を非業の死を遂げた貴人の怨霊のしわざと考え、御霊として祀り慰める御霊信仰から生まれた神社で、『日本三代実録』貞観5年(863)5月20日条に記される神泉苑での最古の御霊会がその淵源とされる。この御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)・伊予親王ら六座に二座を加えた八所御霊を祭神とする。はじめ愛宕郡出雲郷の下出雲寺境内に鎮座したと伝わり、のち新町出水の西へ移り、天正18年(1590)に現在地へ遷座した。古くから皇居の産土神として皇室の崇敬が厚く、享保年間には霊元天皇が二度にわたり社頭で祈願している。疫病退散の神「下御霊鎮疫神」として信仰され、境内に湧く御霊水でも知られる。
下鴨神社は賀茂建角身命・玉依媛命を祀る神社。縁結び・安産のご利益で知られ、紀元前90年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
明治天皇崩御の際に殉死した乃木希典大将と乃木静子夫人を祀る神社。1923年創建。乃木将軍の旧邸宅(乃木邸)が境内に保存されている。毎年9月13日の例大祭には多くの参拝者が訪れる。
推古天皇の御代、秦氏の久能忠仁が久能山を開き、観音菩薩を安置する補陀落山久能寺を建てたのが山の歴史の始まりと伝わります。元和2年(1616)に徳川家康公が75歳で没すると、遺命によりこの地に埋葬され、2代将軍秀忠公の命により翌元和3年(1617)に社殿が造営されて東照宮として創建されました。権現造・総漆塗・極彩色の御社殿は、江戸初期を代表する建築として国宝に指定されています。
亀山八幡宮(下関)は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀る山口県下関市唐戸地区の八幡宮。勝負運・厄除けのご利益で知られ、関門海峡に近い下関の鎮守として親しまれています。
亀山八幡宮(佐世保)は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后などを祀る長崎県佐世保市八幡町の八幡宮。佐世保中心部に鎮座する、勝負運・厄除けのご利益で知られる神社です。
亀山八幡神社(亀山市)は、三重県亀山市江ケ室に鎮座する八幡神社。文永2年(1265年)に宇佐神宮の神を奉ったことに始まると伝わり、亀山城主の崇敬を受けてきた社です。
亀岡八幡宮(逗子)は、神奈川県逗子市逗子に鎮座する八幡宮。同名の仙台・市谷の亀岡八幡宮や、中津の亀岡八幡神社と区別するため、逗子の地名を付けて整理しています。
太宰府天満宮の神官で菅原道真公の末裔にあたる菅原大鳥居信祐が、正保3年(1646年)に神託を受けて飛梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため諸国を巡ったのち江戸の本所亀戸村にたどり着き、村にあった天神の小さな祠に神像を祀ったのが始まりと伝えられる。四代将軍徳川家綱は明暦の大火からの本所復興事業に際して現在の社地を寄進し、寛文2年(1662年)10月25日、太宰府天満宮にならって社殿・回廊・心字池・太鼓橋が整えられた。古くは「東宰府天満宮」「亀戸宰府天満宮」とも呼ばれ、本社である太宰府天満宮に対して東国天満宮の宗社として崇敬を集めてきた。御祭神は天満大神(菅原道真公)で、相殿に菅原家の祖神である天菩日命を祀る。境内は梅・藤・菊の名所として知られ、季節ごとにまつりが催される。
創建年代は不詳。武蔵国の二宮とされ、武蔵総社六所宮の「二の宮」に数えられる古社で、古くは「小河大明神」と称し小川郷の鎮守であった。天慶の乱の際には藤原秀郷が戦勝を祈願し、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営したと伝わる。天正19年(1591)には徳川家康から朱印地15石を与えられた。明治3年(1870)に現社名に改称。本殿・宮殿はあきる野市指定文化財で、境内一帯は「二宮神社並びに城跡」として東京都指定旧跡となっている。
弘仁年間(810~824)、嵯峨天皇の勅命により創建されたと伝わります。延喜式神名帳に記された式内社の論社とされ、下総国二宮として朝廷からの崇敬を受けました。江戸時代には徳川家康から朱印地10石が与えられています。治承4年(1180)、当地に住み着いた藤原師経が祖先の藤原時平を相殿に合祀したと伝わり、現在の社殿は安永年間(1772~1781)の再建で、大きな唐破風を持つ権現造です。
五社神社は、曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守により城内に創建されたと伝わります。徳川家康が浜松城主であった天正7年(1579)、秀忠公誕生に際し産土神として崇敬され、翌天正8年(1580)に現在地へ遷座しました。一方の諏訪神社は、延暦10年(791)に坂上田村麻呂が東征の折に創建したと伝え、弘治2年(1556)に曳馬城下へ遷座し、同じく秀忠公の産土神として崇敬されました。両社殿はかつて「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ」と謡われた壮麗な建築でしたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失。昭和37年(1962)に両社が合祀され、昭和57年(1982)竣工の現社殿に奉斎されています。
今戸神社の創建は1063年(康平6年)と伝わる。奥州鎮守府将軍であった源頼義・義家父子が、奥州の安倍貞任・宗任討伐に際して戦勝を祈願し、鎌倉の鶴岡と浅草今之津(現在の今戸)に京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりとされ、当初は「今戸八幡」と称した。江戸時代には三代将軍徳川家光により官材を賜り、寛永13年(1636年)に再建されている。1937年(昭和12年)に隣接していた白山神社を合祀し、社名を「今戸神社」に改めた。大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲でいずれも社殿を焼失したが、昭和46年(1971年)11月に氏子・崇敬者の浄財により現在の社殿が造営された。近年は招き猫発祥の地の一つとされるほか、新選組・沖田総司終焉の地との言い伝えも残るが、後者については異説も指摘されている。
仙台東照宮は徳川家康公を祀る神社。開運・勝負運のご利益で知られ、1654年(承応3年)に伊達忠宗公によって創建された由緒ある神社です。
明治3年(1870年)、時の神奈川県知事・井関盛艮の主導で創建された。開港後の急速な近代化・西洋化の中でも横浜の人々が日本の国柄を見失わないようにと、天照皇大神を祀る神殿の建立が計画され、戸部にあった古社を再興して港を一望する丘の上に遷座したものである。遷座時には5日間にわたる盛大な祝祭が行われ、この祭りをきっかけにアイスクリームが世に広まったという逸話も残る。「横浜総鎮守」とされ、かつては例祭日(5月15日)に役所・会社・学校が休みになり市民が祝ったと伝わる。近年は創建150年記念事業が行われた。
伊奈波神社は五十瓊敷入彦命を祀る神社。縁結び・勝負運のご利益で知られ、古墳時代に創建された美濃国三宮の由緒ある神社です。
伊弉諾神宮は、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀る淡路国一宮。国生み神話で淡路島を生んだ伊弉諾尊が余生を過ごした幽宮の旧跡と伝えられる。古くから国生みの島・淡路を象徴する神社として崇敬されてきた。
住吉大社は底筒男命・中筒男命を祀る神社。航海安全・お祓いのご利益で知られ、211年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
佐嘉神社は鍋島直正公・鍋島直大公を祀る神社。開運・商売繁盛のご利益で知られ、1884年(明治17年)に創建された由緒ある神社です。
創建年代は不詳ですが、平安時代末期、備中国に赴任した国司が国内すべての神社を巡拝する手間を省くため、国府の近くに国内324社の神々を勧請して祀ったのが始まりと伝えられます。「総社」という地名もこれに由来します。室町時代には細川氏・毛利氏の崇敬を受け、戦火で社殿を焼失したのち正長2年(1429年)に再建。天正年間に再び焼失し、貞享4年(1687年)に再建されると彩色二十四孝の絵馬が奉納され、地元の豪商たちの寄進を集めて栄えました。明治5年(1872年)11月に県社に列格。昭和52年に本殿を焼失しましたが昭和54年に再建されています。境内には長い回廊や出雲式とされる神池・神島、近隣に類を見ない太さのオガタマノキがあり、平成6年には総社(跡)が総社市の重要文化財に指定されました。
八坂神社は素戔嗚尊・櫛稲田姫命を祀る神社。厄除け・疫病退散のご利益で知られ、656年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
鳩森八幡神社の創建には、いにしえの瑞祥にまつわる伝承が残る。かつてこの地の森にたびたび瑞雲が現れ、村人が分け入ると多くの白い鳩が西へ飛び立ったといい、この不思議な出来事にちなんで祠が建てられ「鳩森」と名付けられたと伝わる。貞観2年(860年)、関東巡教中の慈覚大師円仁がこの地に立ち寄った際、村民の願いを受けて神功皇后と応神天皇の御尊像を祀り、「正八幡宮」として崇敬されるようになったという。現在も応神天皇・神功皇后の二柱を御祭神とする。社殿は弘化2年(1845年)に上棟した欅造りであったが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、戦後の復興を経て平成5年(1993年)に戦前の姿へと復元された。戦火をくぐり抜けたご神木の銀杏は、今も境内で命をつないでいる。境内には都内最古とされる富士塚(鳩森八幡神社富士塚)や将棋堂もあり、多くの参拝者に親しまれている。
寛弘年間(1004〜12年)に源頼信が石清水八幡宮の神霊を勧請し、霞ヶ関のあたりに創建したと伝わる。太田道灌の江戸城築城に際して現在地へ遷座した。徳川秀忠の正室崇源院が戦勝祈願の報賽として社殿建立を遺し、その意により寛永11年(1634年)に社殿が造営されている。江戸時代には「江戸八所八幡」の一つに数えられ、八八幡詣として多くの参詣を集めて門前町が栄えた。享保8年(1723年)と文化8年(1811年)の火災で被害を受け、昭和20年3月の戦災では社殿を焼失したが昭和28年に復興。平成27年には失われていた御本社神輿を復興し、平成29年に神幸祭を斎行した。令和元年からは「令和の御造替事業」として施設を再建し、令和3年10月29日に本殿遷座祭が斎行された。境内は縄文期の西久保八幡貝塚としても知られる。
社伝によると、景行天皇58年に皇子・稲背入彦命が大和国穴師の地に八千矛神を祀ったのが始まりとされる。近江国高穴穂宮への遷都に伴い穴太へ遷り、欽明天皇の御代を経て養老2年(718年)、現在の野洲市五条の地に社殿を造営し鎮座したと伝わる。御祭神の八千矛神は大国主神の別名で、手名椎神・足名椎神を配祀する。延喜式神名帳に名神大社として名を連ねる古社で、近江国屈指の格式を誇り、1915年には県社に列せられた。境内の鳥居と楼門は足利尊氏の寄進と伝えられ、平安時代の作庭とされる池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。2018年には鎮座1300年の節目を迎えた。
岡山市北区高松稲荷に所在する日蓮宗の寺院で、正式には最上稲荷山妙教寺と称し、最上尊信仰発祥の地・総本山とされる。寺伝では天平勝宝4年(752年)、報恩大師が孝謙天皇の病気平癒を祈願した際に、白狐に乗った最上位経王大菩薩が背後の山中にある八畳岩へ降臨したと伝える。延暦4年(785年)には桓武天皇の病気平癒祈願が成就し、勅命によって現在地に龍王山神宮寺が建立された。その後、備中高松城の水攻めによって伽藍を焼失したが、慶長6年(1601年)に花房公が日円聖人を招いて復興させた。明治の神仏分離令に際しては特別に神仏習合の祭祀形態が認められたため、鳥居や神宮形式の本殿など、神仏習合時代の姿を数多く今に伝えている。祈祷本尊の最上位経王大菩薩は五穀豊穣・商売繁盛・開運など多くの福徳を備えるとされ、1200年以上にわたって信仰を集めてきた。
出雲大社は大国主大神を祀る神社。縁結び・商売繁盛のご利益で知られ、神代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
出雲大社大阪分祠は、島根県の出雲大社から分祠された神社で、昭和21年(1946年)春、初代教主・吉村亀治によって創建された。亀治の祖父は大峰山の修験道場・龍泉寺の住職を務めた人物で、亀治自身も修験道と深いつながりを持っていたと伝わる。池田市五月山の愛宕神社に関わりのあった内海敏勝から、火之迦具土神(愛宕大権現)の教えを広めるよう託されたことが創建の契機になったとされ、当初は愛宕大権現を祀る河内分社として出発した。昭和23年(1948年)に島根の出雲大社から大国主命の御分霊を拝受し、昭和33年(1958年)に現在の「出雲大社大阪分祠」の名称に改めた。御祭神は大國主命・火之迦具土神・武甕槌大神の三柱で、縁結びの神として親しまれている。
明治9年(1876)に出雲大社から大国主大神の御分霊を勧請して創建された出雲大社の分祠で、翌明治10年(1877)には第80代出雲国造・千家尊福により大社教会所の開業式が執り行われた。昭和20年(1945)の松山空襲で社殿を焼失したが、昭和38年(1963)に拝殿を新築した。平成12〜13年(2000〜2001)には老朽化と白蟻被害のため社務所などの改築工事が行われている。大国主大神が七福神の大黒天と習合することから、伊予七福神まいりの大黒天としても信仰されている。
出雲大神宮は、丹波国一宮として崇敬される古社。大国主命と三穂津姫命を主祭神とし、社伝では出雲信仰と深く関わる元出雲の社として伝えられている。御蔭山を神体山とし、古くから縁結び・長寿・金運の信仰を集めてきた。
前鳥神社の社名は、平安以前の地名「さきとり」に由来するとされる。奈良時代の天平7年(735)の記録に大住郡埼取郷が見え、畿内から移り住んだ氏人が御祭神の遺徳を偲び、清浄な地に祀ったことが始まりと考えられている。
劔神社は素盞嗚大神を祀る越前二の宮。奈良時代より祈願の霊場として尊ばれ、織田信長公が氏神として崇敬した社としても知られる。
北海道神宮は大国魂神・大那牟遅神を祀る神社。開運・金運のご利益で知られ、1869年(明治2年)に創建された由緒ある神社です。
北野天満宮は菅原道真公を祀る神社。学業成就・厄除祈願のご利益で知られ、947年(天暦元年)に創建された由緒ある神社です。
社伝では景行天皇40年、日本武尊が東征の折に天神の櫛玉饒速日命と地祇の八千矛命を祀ったのが始まりとされ、物部天神社・國渭地祇神社として延喜式神名帳に載る古社(登記上の法人名は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社で、北野天神社はその総称)。長徳元年(995)には菅公五世の孫・武蔵国司菅原修成が勅命を奉じ、京都の北野天満宮から菅原道真公の分霊を関東以東で最初に勧請して「坂東第一北野天満宮」と称し、これが「北野」の地名の由来と伝わる。源頼義・義家が社殿を建立、建久6年(1195)には源頼朝が諸神堂を建立したほか、天正18年の前田利家による再興、徳川家康以降の歴代将軍からの朱印状拝領など武家の崇敬が厚かった。明治34年(1901)、埼玉県でも有数の古社であることから県社に列格。室町時代の「北野天神縁起」7幅は埼玉県指定文化財。
万治元年(1658年)、松前藩の史料『福山秘府』に記録される弁天堂の建立を発祥とする。享和3年(1803年)、樺太南部探検に功績のあった役人が思古津(シコツ)場所の守護神として京都伏見から正一位思古津稲荷大明神を奉斎し、文化2年(1805年)には鮭漁の隆盛に伴い弁財天が勧請された。同じ頃、箱館奉行が「鶴は千年」の故事にちなみ「死骨(シコツ)」を「千歳」と改めたと伝わる。明治8年(1875年)に主祭神を豊宇気比売神と定めて郷社に列し、大正6年(1917年)に千歳神社と改称。昭和51年(1976年)に現社殿が造営された。
千葉神社は、平安時代に関東を治めた武将・平良文が妙見菩薩(北斗妙見)に篤く祈願し、戦のたびに加護を得たと伝わることに始まる。良文を祖とする千葉氏の三代目・平忠常が、長保2年(1000年)に香取山の一画に妙見の分霊を祀る祠を建て、「北斗山金剛授寺」として中興したのが起源とされる。第66代一条天皇が眼病平癒を祈願したところ回復したとの言い伝えから、勅願所として綸旨と寺号を賜ったという。千葉氏と縁の深い源頼朝は自筆の願文や太刀を奉納して武運を祈り、日蓮上人も参籠して妙見を法華経守護の神と讃えたと伝わる。徳川家康も篤く崇敬し、社領二百石を寄進するとともに、十万石の大名に準じる格式を与えたとされる。明治2年(1869年)の神仏分離令により、長く続く妙見大祭の神輿渡御の様式を保つため「千葉神社」と改称し、今日に至る。
南宮大社は金山彦命を祀る神社。金運・金属業守護のご利益で知られ、神代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
吉備津彦神社は大吉備津彦命を祀る神社。厄除け・五穀豊穣のご利益で知られ、推古天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
吉備津神社は大吉備津彦大神を祀る神社。安産・長寿のご利益で知られ、仁徳天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
文治3年(1187)、源頼朝が安房国の洲崎明神から天比理乃咩命を勧請し、海上交通の安全と祈願成就を祈ったのが創始と伝えられる。元応元年(1319)に二階堂道蘊が宇賀之売命を、文明10年(1478)に太田道灌が素盞嗚尊を合わせ祀り、現在の三柱となった。慶長5年(1600)には徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣する前に参拝して戦勝を祈願し、寛永14年(1637)に徳川家光が東海寺を建立した際には当社がその鎮守と定められて幕府の厚い庇護を受けた。明治元年(1868)には明治天皇の思召により准勅祭社の一社に定められ、現在は東京十社のひとつに数えられる。社殿は元禄7年と嘉永3年の焼失後、いずれも時の将軍の命で再建され、昭和39年(1964)に現在の社殿が再建。令和2年(2020)には天皇陛下の御即位を奉祝して社殿の修復が行われた。
善知鳥神社は宗像三女神(多紀理毘売命・市寸島比売命を祀る神社。交通安全・海上安全のご利益で知られ、大同年間(806年 - 810年)に創建された由緒ある神社です。
主祭神は南北朝時代の武将・楠木正行で、正平3年(1348)の四條畷の戦いで正行とともに殉じた一族・将士24柱を配祀する。正行は楠木正成の嫡男で、「小楠公」とも呼ばれる。伝えによれば、正行は吉野で後村上天皇に拝謁したのち、如意輪堂に一族の名と辞世の歌を記して出陣し、高師直の軍と戦って弟の正時と刺し違え、23歳で没した。明治に入り、住吉平田神社の神主・三牧文吾らがこの地に神社の創建を願い出て、明治22年(1889)に勅許と社号が下された。地元の人々は境内地や金品を寄進し、土運びや石積みにも奉仕して、明治23年4月5日に鎮座祭が行われた。飯盛山の麓に鎮座し、山頂には出陣する姿の正行の銅像が立つ。
寛文3年(1663年)8月13日、前浜村と平磯村の境界をめぐる争いの折、路上の吹きはげた場所に備前焼の忌垣に囲まれた窪みが見つかり、掘ったところ石室が現れて刀・槍・鉾・矢などが出土したと伝えられます。これらは水戸城へ送られ「磯前明神の本体」と判断されました。地元の願いを受けて岡見吉為が小社を建て、のちに寺社奉行の取り計らいで藩の許可を得て社殿が造営され、寛文11年(1671年)8月13日に遷宮式が行われました。掘り出された御神体にちなむ社名で、学問・厄除けの八幡さまとして信仰されてきました。令和元年(2019年)には境内に黄金の鳥居が連なる「ほしいも神社」が創建され、参拝者を集めています。
報徳二宮神社は、二宮尊徳翁を祀る小田原城址の神社。明治27年(1894)に尊徳翁の遺徳をたたえて創建され、明治42年に本殿・幣殿を新築し、拝殿改築と神苑整備で現在の社地景観を整えた。平成6年には創建百年記念奉告祭を斎行した。
壺井八幡宮は、寛仁4年(1020)に源頼信が河内国司としてこの地に館を構えたことに始まる。その子・頼義は康平7年(1064)5月15日、前九年の役から凱旋したのち、京都の石清水八幡宮の神霊を私邸東側に勧請して社殿を建立した。これが壺井八幡宮の起源であり、頼信・頼義・義家の三代がこの地に住んだことから、河内源氏の氏神として崇敬されるようになった。天仁2年(1109)には義家の六男・源義時が摂社壺井権現社を創建し、頼信・頼義・義家の霊を祀っている。壺井権現社は京都の六孫王神社、川西市の多田神社と並び「源氏三神社」の一つに数えられる。本殿は度重なる兵火で焼失し、現在の社殿は元禄14年(1701)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したものである。境内には源義家着用と伝わる黒韋威胴丸や僧形八幡神像(いずれも国指定重要文化財)、天光丸の太刀(重要美術品)、源氏の白旗のほか、樹齢1000年ともいわれる大楠が伝わる。
多度大社は天津彦根命を祀る神社。雨乞い・厄除けのご利益で知られ、雄略天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
西暦580年頃の創建と伝えられる和泉国大鳥郡の延喜式内社二十四座のひとつ。主祭神の多治速比売命は女神で、厄除・安産・縁結びの神として崇敬が篤く、本殿には素盞嗚尊と菅原道真公も合わせ祀られている。現在の本殿は天井裏の墨書や棟札から天文10年(1541)の再建と分かる室町時代の建造物で、龍・雲・波・海藻・貝類などの精緻な彫刻で知られ、昭和24年(1949)に国の重要文化財に指定された。境内には坂上社・鴨田社など多数の末社があり、あわせて荒山宮(こうぜんのみや)と呼ばれる。昭和38年(1963)の泉北ニュータウン造成に伴い境内が整備され、神社周辺は堺市の荒山公園として約50品種・約1,100本の梅林が広がる梅の名所となっている。
多田神社は、清和源氏発祥の地とされる多田院の旧跡に鎮座し、源満仲公をはじめ源氏の祖を祀る神社。武家源氏の崇敬を受け、江戸時代には徳川家からも篤く保護された。現在も源氏ゆかりの社として知られる。
多賀大社は伊邪那岐大神・伊邪那美大神を祀る神社。延命長寿・縁結びのご利益で知られ、神代(古事記等)に創建された由緒ある神社です。
天慶元年(938)、武蔵介に任ぜられた源経基が国土豊穣・万世安穏を祈願するため、近江の多賀大社から分祀し勧請したと伝わる。文応元年(1260)には北条時頼が巡行の折にこの地で病に倒れ、古鏡を奉納して祈願したところ治癒したことから、社領七反歩を寄進して祈願所としたという。祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊の夫婦神で、良縁成就や子孫繁栄などの御神徳で知られる。明治26年(1893)に郷社へ昇格。新選組(甲陽鎮撫隊)解散の地としても知られ、境内には樹齢400年余の大銀杏の御神木がそびえる。8月の例大祭は八幡・八雲神社の「下の祭」に対して「上の祭」の別名で親しまれ、八王子まつりでの渡御で有名な宮神輿「千貫神輿」(市指定有形文化財)を有する。
大和神社は、日本大国魂大神・八千戈大神・御年大神を祀る大和の古社。古代から朝廷の祭祀に関わり、国家鎮護の神として崇敬された。戦艦大和ゆかりの社としても知られ、現在も大和国の古い信仰を伝えている。
大國魂神社は大國魂大神を祀る神社。厄除け・縁結びのご利益で知られ、111年(景行天皇41年)伝承に創建された由緒ある神社です。
康平6年(1063)、源頼義が前九年の役平定の途上、大空に八条の白雲がたなびくのを八幡大神の加護の瑞兆と感じ、乱の平定後に京都・石清水八幡宮から分霊を勧請して創建したと伝わる。子の八幡太郎義家も後三年の役ののち社殿を修築し、千本の若松を植えたと伝えられる。かつて「武蔵国八幡一之宮」と称された。昭和44年(1969)には境内から弥生時代の祭祀遺跡が発掘され、太古からの聖域であることが確認された。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。「東京のへそ」とも呼ばれ、安産・子育て厄除けの信仰を集める。
大山(標高1252m)の山頂と中腹に社殿を持つ神社。雨降り山(あふりやま)とも呼ばれ、雨乞いの神として農民に信仰された。江戸時代には「大山詣り」が盛んで、多くの参拝者が訪れた。
大崎八幡宮は応神天皇・仲哀天皇を祀る神社。厄除け・必勝祈願のご利益で知られ、1607年(慶長12年)に創建された由緒ある神社です。
神護景雲元年(767)の創建と伝わり、疫病が流行した際に僧・勝道が巨杉を神籬として三輪明神を祀ったという伝承をもつ。主祭神は倭大物主櫛甕玉大神で、仁治2年(1241)に京都・今宮神社から大己貴命と少彦名命を勧請合祀した。「あんばさま」の愛称で親しまれる、関東・東北に分布する大杉神社の総本宮。厄除け・八方除けの祈祷で知られ、享保10年(1725)に始まった「あんば囃子」は関東一円に広まり、国の選択無形民俗文化財となっている。豪華な社殿群から「茨城の日光東照宮」とも称される。
大阪府羽曳野市高鷲に鎮座し、素盞嗚尊・奇稲田姫命・天日鷲命を祀る。延長5年(927)にまとめられた『延喜式』に「大津神社」と明記された式内社で、「丹下の郷の大宮」「河内の大宮」と称えられた。応神天皇の頃、難波と大和を結ぶ要路にあたるこの地には渡来系の葛井氏・船氏・津氏が勢力を張っており、そのうち津氏一族がこの地を「大宮山」と称して守護神を奉斎したのが創祀と伝えられる。津氏が朝廷に召されて大和へ移った後は、周辺九か村の氏神として受け継がれた。仏教の隆盛に伴い本地垂迹説に基づいて「午頭天王社」と称し、宮寺・大宮山南之坊が置かれて神仏混淆となり、「北宮の午頭さん」と親しまれた。明治5年(1872)に村社に列格して大津神社に復し、現在は羽曳野市西部・南西部の氏神として信仰されている。配祀神は大山咋命と菅原道真公。
三輪山を御神体とする日本最古の神社のひとつ。本殿を持たず、拝殿から三輪山を直接拝む形式をとる。大物主大神を祀り、酒造りの神としても知られる。創建は有史以前とされる。
大阪天満宮は菅原道真公を祀る神社。学業成就・厄除けのご利益で知られ、949年(天暦3年)に創建された由緒ある神社です。
秋田県に鎮座する八幡系の神社です。御祭神は誉田別命(応神天皇)、息長足姫命。勝負運・厄除け・スポーツのご利益で知られます。
大鳥大社は延長5年(927年)完成の延喜式神名帳に「名神大社」として記載された古社で、和泉国の一宮に数えられる。祭神の日本武尊は東国平定などの功をなした後、伊勢国能褒野で没し、その御霊は白鳥となって大和・河内を経て最後にこの地へ舞い降りたと伝わり、これが創建の由来とされる。境内の「千種の杜」は、白鳥が舞い降りた際に一夜にして木々が生い茂ったという伝承にちなむ名である。相殿には大鳥氏の祖神と伝わる大鳥連祖神も祀られている。清和天皇の代に従三位に叙せられ、のちに正一位へ昇階するなど朝廷からも篤く崇敬され、平清盛・重盛父子が和歌と名馬を奉納したほか、織田・豊臣・徳川の歴代武将も社領の寄進や社殿造営を行った。社殿は「大鳥造」と呼ばれる古い様式で知られるが、兵乱や火災でたびたび焼失し、現在の社殿は明治42年に従来の形式にならって再建されたものである。
大麻比古神社は大麻比古大神・猿田彦大神を祀る神社。方除・厄除のご利益で知られ、神武天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
太宰府天満宮は菅原道真公を祀る神社。学業上達・厄除けのご利益で知られ、919年(延喜19年)に創建された由緒ある神社です。
太皷谷稲成神社は、津和野藩主・亀井矩貞公が城の鬼門鎮護と領民安穏を願い、京都の伏見稲荷を勧請したことに始まると伝えられる。日本五大稲荷の一つに数えられ、願望成就・商売繁盛の信仰を集める。
福島県いわき市平の中心部、揚土に鎮座する。延喜式神名帳に載る磐城七社の一つとされるが、中世のうちに社は絶えた。江戸時代に磐城平藩主・内藤義概が調査を行い、桜町に稲荷の小社が残り付近から勾玉が出土した伝えがあることから、そこを当社の古跡と同定。復興にあたって現在の揚土の地に社殿が造営された。御祭神は稲倉魂命(倉稲魂命)で、「子鍬倉」という社名は子・鍬・倉すなわち衣食住を表すとされる。境内のヒイラギは樹高7.2m・幹周1.6mで、昭和55年(1980年)9月1日にいわき市の天然記念物に指定されている。地元では「県社」の愛称で親しまれている。
名張の地の氏神として信仰されてきた延喜式内社で、伊賀二十五社の一社に数えられる。主祭神の宇奈根命は水と穀物の神で、御神体である赤岩が名張川のうねりのそばにあることから「うねる」が転じて宇奈根になったと伝えられ、社名も「潤うふし水」に由来するという。『日本三代実録』には貞観15年(873年)に宇奈根神が従五位上を授けられた記事が見える。天正8年(1580年)の天正伊賀の乱で社殿・宝物・古文書をことごとく焼失したが、境内には元久2年(1205年)銘の石燈籠が残り、元和2年の棟札からこの年に再建されたとみられる。のちに伊賀領主筒井定次の重臣松倉勝重、次いで藤堂高吉から神領の寄進を受け、明治14年11月に県社に列した。藤堂家から譲り受けた能面45面は三重県の文化財に指定されている。
社伝では第10代崇神天皇の御代に遡る古社。第16代仁徳天皇の御代に毛野国が上下二国に分けられた際、御祭神豊城入彦命の四世孫・奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられ、祖神豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、承和5年(838年)に現在の臼ヶ峰に遷座したと伝わる。延喜式神名帳に下野国唯一の名神大社として記載され、「下野国一之宮」と呼ばれる。宇都宮の地名は一之宮の転訛とする説もある。相殿に大物主命・事代主命を祀り、藤原秀郷・源頼朝・徳川家康ら武将の崇敬も篤かった。宇都宮はこの神社の門前町として発展し、今も郷土の総氏神として親しまれている。
宗像大社は宗像三女神を祀る神社。交通安全・海上安全のご利益で知られ、神代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
宮地嶽神社は息長足比売命・勝村大神を祀る神社。開運・商売繁盛のご利益で知られ、約1700年前(伝承)に創建された由緒ある神社です。
宮崎神宮は神日本磐余彦天皇(神武天皇)を祀る神社。開運・国家安泰のご利益で知られ、神代の時代の創建とされる由緒ある神社です。
富士山本宮浅間大社は木花之佐久夜毘売命を祀る神社。安産・火災消除のご利益で知られ、紀元前27年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
寒川神社は寒川比古命・寒川比女命を祀る神社。八方除・厄除けのご利益で知られ、雄略天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
小国神社は、大己貴命を祀る遠江国一宮。欽明天皇16年(555)の鎮斎と伝えられ、遠江国の総鎮守として崇敬された。広大な社叢に鎮座し、縁結び・開運・産業守護の神として信仰を集める。
武蔵国一之宮を称する古社で、公式サイトの由緒では安寧天皇18年2月の鎮座と伝える。主祭神は武蔵国開拓の祖神である天下春大神、瀬織津比咩大神、稲倉魂大神の三柱。元慶8年(884年)に正五位上の神階を授けられ、延喜式神名帳には武蔵国八座の一社として載る。国府の近くにあったことから国司や住民の崇敬が篤く、総社六所宮創建の際には東殿第一の席を与えられて一之宮と称されたという。鎌倉末から戦国期にかけて戦乱と多摩川の洪水で荒廃したが、棟札によれば慶長14年(1609年)に徳川二代将軍によって造営再興された。明治の神仏分離で文珠菩薩を移座し郷社に列格。大正15年の失火で社殿を焼失したが昭和2年に本殿・拝殿を再建し、昭和39年に随身門、昭和49年に末社の再建を終えている。
大阪・道修町は豊臣期の頃から薬種取引の場として薬種業者が集まる町だった。薬は人命に関わるうえ品質の見極めが難しいことから、神の加護を得て職務を正しく果たそうと、安永9年(1780)に京都の五條天神から少彦名命を仲間の寄合所へ迎え、以前から祀っていた中国医薬の祖神・炎帝神農と併せて祀ったのが始まりとされる。以来「神農さん」の愛称で親しまれ、日本医薬総鎮守として病気平癒・健康成就の信仰を集めてきた。文政5年(1822)に大坂でコレラが流行した際、薬種仲間が虎の頭骨などの和漢薬を配合した丸薬「虎頭殺鬼雄黄圓」を作り、病名と薬に「虎」の字が当てられていたことから張り子の虎の守りとともに施与した。これが家内安全・無病息災を願う当社独自の授与品として全国へ広まった。
居多神社は越後国一宮として知られる古社で、大国主命・奴奈川姫・建御名方命・事代主命を祀る。弘仁四年(813)に朝廷から従五位下、貞観三年(861)には従四位下を賜り、延長五年(927)の延喜式神名帳にも記載された式内社である。中世以降は越後国司や越後守護上杉家、上杉謙信からも篤く保護され、越後一宮として崇敬を集めてきた。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が越後に配流された際、上陸してまず参拝したと伝わる神社としても知られ、境内には聖人にまつわる「越後七不思議」の一つ、片方にしか葉を付けない片葉の葦が群生する。
岸和田城の東側に鎮座する城下の総鎮守。南北朝時代に京都の八坂神社から素戔嗚尊を勧請して牛頭天王社と称し、岸和田村の鎮守としたのに始まると伝わる。のちに小出秀政が岸和田城を築いた際に八幡大神(品陀別命)を合祀し、明治維新に際して岸城神社と改称した。岸和田だんじり祭の起源には諸説あり、当社は延享2年(1745)に町方が当社の祭礼へ献灯提灯を揚げたことに始まると伝えて「岸和田祭発祥の宮」と称している。宮入りでは、こなから坂を駆け上がるだんじりの姿が名物となっている。岸和田城の別名・千亀利(ちきり)城にちなみ、縁結びの神としても信仰される。
桓武天皇の弟・早良親王を祭神とする。親王は藤原種継暗殺事件に連座して廃太子となり、淡路へ配流される途上で没した。その後、都で疫病や近親者の不幸が相次いだことが親王の祟りとされ、鎮魂のために当社が創建されたと伝わる。創建年は詳らかでないが、御霊信仰が広まった貞観年間(859〜877)頃とされる。鎌倉から室町期にかけて周辺の廃絶した社を合わせ、上高野一帯の産土神となり、江戸時代には「高野御霊」と呼ばれた。明治41年(1908)には式内社・伊多太神社を境内へ遷座し、大正4年(1915)には出雲高野神社と小野神社を再興して合祀している。崇道天皇のみを祭神とする神社としては京都で唯一とされる。
市谷亀岡八幡宮は、東京都新宿区市谷八幡町に鎮座する八幡宮。文明11年(1479年)に太田道灌が江戸城西方の守護として鶴岡八幡宮の分霊を勧請したことに始まります。
社伝では第十一代垂仁天皇の御代の創建と伝え、延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳に武蔵国多摩郡の式内社として名を連ねる多摩地方有数の古社である。当初は少名毘古那神一柱を祀っていたが、文明9年(1477)に多摩川の洪水を避けて「古天神」と呼ばれる旧地から現在地へ遷り、そのとき菅原道真公を配祀した。江戸時代に甲州街道が整備されると上石原・下石原・上布田・下布田・国領の五宿が成立し、当社はその総鎮守として「五宿天神」と崇められた。明治22年(1889)に布田五宿が飛田給・上ヶ給と合併して調布町となってからは、調布町の総鎮守となっている。境内には豊臣秀吉が発した「太閤の制札」が伝わる。
常磐神社は、水戸藩主の徳川光圀公と徳川斉昭公を祀る神社。明治初年に両公の遺徳を慕う人々により創建され、明治6年に県社、のち別格官幣社に列した。偕楽園に隣接し、水戸学と水戸藩の歴史を伝えている。
常陸国出雲大社は大国主大神を祀る神社。縁結び・商売繁盛のご利益で知られ、1992年(平成4年)に創建された由緒ある神社です。
社伝によれば仁和2年(886年)、京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)の御分霊を迎えて創建されたという。主祭神は別雷之大神で、開拓・殖産のほか雷除け・嵐除け・災難除け・勝運の神として、古くから「雷電様」の名で親しまれてきた。応仁の乱の兵乱で社殿は荒廃し、正徳年間には廃頽するに至ったが、当時の領主・平出孝政が領民とともに浄財を募って本殿を再建した。天保5年(1834年)に再改築され、元治2年(1865年)には「雷電宮」の称号を受けている。7月第4日曜日の夏大祭では豊年を祈願する梵天奉納神事が行われ、地域の夏の行事として続いている。
平塚三嶋神社は大山祇命・事代主大神を祀る、神奈川県平塚市夕陽ケ丘の神社。湘南のえびす様として親しまれ、商売繁盛・家内安全・開運招福の信仰を集めています。
平安神宮は桓武天皇・孝明天皇を祀る神社。開運招福・厄除けのご利益で知られ、1895年(明治28年)に創建された由緒ある神社です。
和歌山県有田郡広川町に鎮座する八幡宮で、社伝では欽明天皇の御代に河内国の誉田八幡宮から勧請されたと伝える。御祭神は誉田別命・足仲津彦命・気長足姫命。神功皇后が三韓征伐の帰途に有田の広村へ行幸したという縁起を持つ。室町時代初期の応永年間に土豪の梅本覚言が現在地へ遷宮したと記録され、摂社の棟札から応永20年(1413年)頃の造営が推定されている。天正年間の豊臣氏による紀州征伐で一部を焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の手厚い保護を受けて興隆した。本殿や楼門など複数の建物が国の重要文化財に指定されている。安政の津波の際には濱口梧陵が村人とともに逃れた避難場所となり、「稲むらの火」の舞台として知られる。境内には勝海舟が撰文と題額を手がけた濱口梧陵碑が立つ。
天平年間、遠江国司であった桜井王が国の安寧と繁栄を祈願し、国府庁舎内に八幡神を祀ったのが始まりと伝わる。延喜式内社には数えられなかったものの、歴代の国司に守られ続けてきた。中世には足利氏や今川氏からも篤い崇敬を受け、徳川家康は磐田御殿での鷹狩りの折に参詣し、関ヶ原合戦への出陣に際してもこの地から発したと伝えられる。江戸時代には2代将軍徳川秀忠が鳥居を、末娘の東福門院が本殿を寄進するなど幕府とも縁が深く、寛永12年(1635)には現在の楼門と社殿が再建された。明治22年の鉄道開通以降は中泉の総氏神として、今も地域の人々に守られている。
廣島護國神社は、広島県出身の戦没者を祀る護國神社。明治元年の戊辰戦争戦没者を祀った水草霊社に始まり、のち官祭招魂社、護國神社として整えられた。原爆で社殿を失った後、広島城跡に復興され、県民の追悼と平和への祈りを受け継いでいる。
建部大社は日本武尊を祀る神社。開運招福・厄除けのご利益で知られ、316年(景行天皇46年)伝承に創建された由緒ある神社です。
広島県廿日市市の篠尾山に鎮座する天満宮。承久2年(1220年)に藤原親実が厳島神社の神主として着任し、守護神として天神を祀ったことに始まり、天福元年(1233年)に鎌倉の荏柄天神を勧請して篠尾山に社殿を構えたと社伝は伝える。親実は厳島神社の造営のため鎌倉から多くの職人を伴っており、その子孫がこの地に定住したことが廿日市の町の発展の基礎になったとされる。慶安5年(1652年)には町民から寄進を集めて社殿が再建された。明治17年(1884年)の火災で社殿を焼失したが、明治22年(1889年)に再建され現在に至る。学問の神である菅原道真を祭神とすることから、合格祈願の参拝者が多い。
平安時代初期、坂上田村麻呂が東夷東征の折に岩木村へ宇佐八幡宮の分霊を勧請し、戦勝を祈願したのが始まりと伝わる。御祭神は誉田別命・息長足姫命・比売女神。慶長十七年(1612)、二代藩主津軽信牧の治世に、それまで大浦城の鎮守として崇められていた八幡宮が現在地へ遷座した。本殿と唐門は桃山様式を伝える代表的な神社建築として昭和十一年に国宝指定を受け、現在は国の重要文化財に指定されている。
彌彦神社は天香山命を祀る神社。縁結び・仕事運のご利益で知られ、和銅年間(708年 - 715年)以前に創建された由緒ある神社です。
生駒山を御神体として仰ぐ生駒谷十七郷の氏神で、通称は往馬大社。社伝では雄略天皇の御代の創祀と伝え、文献上は奈良時代の文書にみえる「往馬神」が初見とされる。祭神は伊古麻都比古命・伊古麻都比賣命をはじめとする七柱。古くから火を司る神として崇敬され、天皇一代一度の大嘗祭に際して火をおこすための火燧木を献上する習わしがあった。神域は小明から小平尾までの十七村におよぶ生駒谷一帯で、上大座・北方座・壱分座・下大座・六ツ座などの宮座によって祭祀が担われてきた。のちに八幡信仰が広まると気長足比賣命・譽田別命なども合祀された。スポーツの日の前日に行われる秋の火祭りは「勝負まつり」とも呼ばれ、松明を担いだ若者が石段を駆け下りる速さを競う行事で、奈良県の無形民俗文化財に指定されている。
元亀元年(1570)の創建と伝わり、大和国吉野郡の金峰神社の分祭社にあたる。御祭神は日本武尊のほか、秋葉ノ神・大国主神・菅原ノ神の四柱。かつて甲斐武田家の家臣であった石田勘解由茂昌が所持していた尊像を合祀したとも伝わる。渋谷の旧町名「宮益町」は、この御嶽神社を鎮守として元禄13年(1700)に改称されたことに由来するという。明治3年(1870)には、明治天皇が駒場野練兵場での陸軍演習を統監する際、当社が休憩所として使われた。
社伝では天文4年(1535年)ごろ、嶺村の鎮守として創祀されたと伝えられます。当初は小さな祠でしたが、江戸時代後期の天保年間(1830〜44年)に木曽御嶽山で修行した一山行者がこの地を訪れ、当社が木曽御嶽大神の示現の社であることを説いて信仰を広めました。一山行者は木曽御嶽講の四代目行者に数えられ、その教化によって江戸から関東一円に崇敬者が急増し、天保2年(1831年)に現在の社殿が建立されています。「嶺の御嶽神社に三度参れば木曽御嶽山に一度参ったのと同じ」と言われるほど賑わったと伝わります。御祭神は国常立命ほかで、社殿は彫工・藤原篤意による九面の彫刻が背面と側面を飾り、浦島太郎や養老の滝など、仁義礼智信忠孝悌になぞらえた説話が刻まれています。
『播磨国風土記』にその名が見える式内社で、祭神は大国主神の別名とされる葦原志許男神を祀る。社名は、祭神がこの地に杖を刺し植えて形見(御形見)としたという伝承に由来すると伝わり、但馬の神・天日槍命と境を定めたという説話でも知られる。若き日に根の国での試練を乗り越えた祭神の神話にちなみ、人生の節目や試練の折に心を鎮めて新たな歩みを祈る社として崇敬されてきた。室町時代後期に建立された本殿は国の重要文化財に指定されている。
千葉県船橋市前原に鎮座し、素戔嗚尊を祀る。前原は成田街道沿いに開かれた近世の村で、摂津国出身の天野四郎兵衛が開墾請負人となり、延宝元年(1673)に代官伊奈忠常の検分を受けて開村した。開拓当初の暮らしは厳しく、上東野新助が江戸鍛冶橋の行者・釈仙竜を伴って大和の大峰山から蔵王権現を勧請し、前原開拓地3か村の守護神として祀ったのが当社の起こりと伝わる。明治維新の際に蔵王権現の名を改めて御嶽神社となった。御神体である木造蔵王権現三尊立像は鎌倉時代中期以前の造像とみられ、昭和33年(1958)に千葉県の有形文化財に指定されている。社殿は火災と再建を経て現在に至り、前原地区の氏神として親しまれている。
和銅二年(709)、東国鎮護の神として祀られたのが始まりと伝わり、延喜式内社の稗田神社にあたるとも伝えられる。幾度かの遷座を経て寛永五年(1628)に現在地へ鎮座し、明治三十年に御田八幡神社と改称された。三田・高輪・芝浦・港南一帯の氏神として、1300年を超える歴史の中で地域の信仰を集め続けている。
公式サイトの由緒によれば、延暦19年(800年)に桓武天皇の勅命で創祀された勅願社。奈良時代に無実の罪を着せられて薨去した井上内親王(光仁天皇の皇后)と御子の他戸親王の霊を慰め、都に流行した疫病の侵入を防ぐため、街道沿いの防疫施設として造営された井上御霊社が前身とされる。本殿に井上皇后と他戸親王、東西の社殿に早良親王・藤原広嗣・藤原大夫人・伊予親王・橘逸勢・文屋宮田麻呂を祀り、あわせて八所御霊大神と称する。宝徳3年(1451年)の土一揆で元興寺の金堂以下主要堂宇が焼失したのち現在地へ遷座し、元興寺の鎮守社として広く信仰を集めた。豊臣秀吉の時代以降は氏子地域70余町を守護する氏神として、ならまち一帯の信仰を担ってきた。
創建については諸説あり、御香宮縁起では貞観四年(862)に境内から香りのよい水が湧き出た奇瑞により清和天皇から「御香宮」の名を賜ったと伝え、一方で弘仁十四年(823)に神功皇后の神託によって創建されたとも伝わる。主祭神の神功皇后は応神天皇の生母で、安産・子育ての神として篤く信仰される。天正十八年(1590)には豊臣秀吉が戦勝祈願のため太刀と願文を奉納し社領を寄進、慶長十年(1605)には徳川家康が社殿を再興した。元和八年(1622)には水戸徳川家初代の徳川頼房が伏見城の大手門を表門として寄進しており、現在の本殿・拝殿は江戸初期の建築として重要文化財に指定されている。
四日市市羽津の氏神で、罪・穢れを祓い去る祓戸四神の一柱である気吹戸主神を主祭神とし、伊邪那岐命・伊邪那美命ほか九柱を合わせ祀る。社伝では垂仁天皇の御代の鎮座と伝え、古くは「高野御前」と称した。壬申の乱の際、のちの天武天皇が吉野から桑名へ向かう途次、迹太川のほとりで伊勢の皇大神宮を遥拝し、その際に「シデ」(御幣)を垂らして禊祓いを行ったことから「志氐」の名が起こり社名になったと伝わる。延長5年(927年)成立の延喜式神名帳に載る式内社で、明治維新までは羽津・吉沢・別名・八幡・鵤の各村の総社とされた。明治6年に郷社、明治39年に神饌幣帛料供進社と定められ、明治40年以降は白須賀の神明社・住吉社、八幡の八幡神社、別名の長谷神社・荒神社など周辺各字の神社を合祀した。昭和6年には県社に列している。
社伝では、景行天皇40年に日本武尊が東国平定の途中この地で天照皇大御神を祀り、平定の成就と日照りに苦しむ住民の救済を祈ったことを始まりとする。文献上の初見は『日本三代実録』貞観5年(863)の「下総国意富比神」で、『延喜式』神名帳にも下総国の式内社として載る。社名の「意富比」を「大日」、すなわち偉大な太陽神と解する説があり、中世以降は伊勢信仰と結びついて「船橋神明」「船橋大神宮」と呼ばれた。平安後期には源頼義・義家父子の修造や源義朝による再建が伝わり、天正19年(1591)には徳川家康から50石の社領が寄進された。慶応4年(1868)の戊辰戦争で社殿を焼失し、明治6年(1873)に本殿が再建されている。境内の木造灯明台は明治13年(1880)に地元の漁業関係者が建てたもので、千葉県の有形民俗文化財に指定されている。
成海神社は日本武尊を主祭神とし、宮簀媛命・建稲種命を配祀する名古屋市緑区の古社。熱田神宮の東に位置することから「東宮大明神」とも呼ばれ、鳴海の産土神として崇敬されてきた。
天岩戸神話で岩戸開きに力を尽くした天手力雄大神と天児屋根大神を主祭神とする神社です。創建の年代は明らかではありませんが、天文5年(1536年)に記された社記に、もとは岩屋と柏原の間の「戸明浜」に厳めしい社殿を構えていたものを享禄年間(1528〜1532年)に現在地へ移したと伝えられており、遅くとも室町時代後期には当地に鎮座していたことがわかります。若松区西部一帯の広い氏子区域を持ち、安屋・有毛・大鳥居・高須に鎮座する戸明神社の本宮であるとともに、稲国・岩屋・脇田・竹並・払川・塩屋・小敷などに鎮座する産土神社の総社として古くから崇敬されてきました。社号の「戸明」は、天岩戸が開かれた神話にちなむものです。
所沢の産土神で「所澤総鎮守」とされ、天照大御神を主祭神とする。日本武尊が東征の途中、近くの小手指原で休み天照大御神に祈ったことにちなんで、土地の人々が同神を祀ったのが起こりと伝わる。文政9年(1826)の火災で社殿と別当寺の花向院が焼け、それ以前の二度の火災とあわせて古記録や宝器の多くを失ったため、正確な創立年はわからない。境内の老けやきや関東の伊勢信仰の広がりから、神社では奈良時代には鎮座していたとみている。明治2年に花向院が廃され、明治35年(1902)に現社殿、昭和9年(1934)に総檜造りの拝殿が完成した。明治44年(1911)の所沢飛行場での初飛行の前日に徳川好敏大尉らが参拝し成功を祈ったと神主家に伝わり、百年を記念して平成23年に鳥船神社が創建された。
天平勝宝元年(749)、東大寺の大仏(盧舎那仏)造立にあたり、豊前国(現・大分県)の宇佐八幡宮から勧請され、東大寺の鎮守社とされた古社。御祭神は応神天皇・姫大神・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇。現在の本殿は元禄4年(1691)の再建と伝わる。東大寺に隣接する手向山の麓に鎮座し、古くから紅葉の名所として知られる。毎年10月5日には勧請ゆかりの祭事である転害会(てがいえ)が行われ、東大寺転害門でも神事が営まれる。
大山積神は古くからこの地に鎮まり、和銅2年(709)8月に雷神・高おかみ神が大三島から迎えられて以来、郡一の宮として崇められてきたと伝わる。この三柱を祭神とし、健御名方神を相殿に祀る。
新田神社は、神亀山(しんきさん)と呼ばれる亀の形をした山の上に鎮座する。社伝によれば、天照大神から地上を治めるよう命を受けた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂峰に降臨したのち川内の地に至り、「千台(せんだい)」と呼ばれる高殿を築いて住まったと伝わり、これが「川内」の地名の由来とされる。また瓊瓊杵尊が川内川から水を引いて新しく田を開いたことにちなみ、「新田」の社号が付けられたという。平安時代の古文書には「新田宮」の名で登場し、承安三年ごろの火災で社殿を焼失した後、山頂に再興されたと伝わる。慶長年間には島津義久によって現在の社殿の基が造営され、明治18年には国幣中社に列せられた。大正9年には皇太子時代の昭和天皇が参拝し、以後も皇族の参拝を重ねている。
文安元年(1444年)、伊勢神宮を篤く信仰していた太田黒孫七郎が天照大神の託宣を受け、翌文安2年(1445年)に伊勢の神を当地へ勧請して創建したと伝わる。孫七郎は菊池氏六代隆直の末裔とされ、伊勢へ足しげく参宮したことから「飛行孫七郎」と呼ばれた逸話が残る。天正年間(1573〜1592年)に佐々成政によって社殿が焼かれたが、のちに加藤清正が再興して崇敬を寄せ、細川家の代になると手厚い保護を受けた。幕末には思想家の林桜園がこの宮を深く崇敬し、宮部鼎蔵ら門下生も信仰を注いだ。敬神党(神風連)の首領・太田黒伴雄が祠官太田黒伊勢守に入婿して神主を務め、神風連の変の挙兵にあたって神意を問う宇気比が行われた社でもある。境内には伴雄が身を清めたと伝わる「みそぎの井戸」が残る。旧社格は郷社で、地元では「伊勢宮さん」と親しまれている。
日光東照宮は徳川家康公を祀る神社。大願成就・厄除けのご利益で知られ、1617年(元和3年)に創建された由緒ある神社です。
日吉大社は大山咋神・大己貴神を祀る神社。厄除け・方除けのご利益で知られ、崇神天皇7年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
日枝神社は大山咋神を祀る神社。厄除け・安産のご利益で知られ、1478年(文明10年)伝承に創建された由緒ある神社です。
明治神宮は明治天皇・昭憲皇太后を祀る神社。家内安全・縁結びのご利益で知られ、1920年(大正9年)に創建された由緒ある神社です。
創建年代は詳らかでない。社伝によれば、古く境内に一本の大杉があり、そこに交野物部氏の祖神である饒速日命を「交野大明神」として祀ったのが起こりとされる。天文4年(1535年)の奥書をもつ神名帳に交野大明神の名が見え、正平21年(1366年)銘の石塔も伝わっていたという。宝永年間(1704〜1711年)に磐船神社から住吉四神の神霊が遷され、現在の本殿が建立された。以後は底筒男命・中筒男命・表筒男命と神功皇后を祀り、総称して住吉大神と称して、航海守護や産業・住居の守護、安産の神として崇敬されている。もとの祭神である交野大明神は境内の交野社(古宮)に祀られ、毎年6月19日に古宮祭が営まれる。
春日大社は武甕槌命・経津主命を祀る神社。国家無事・交通安全のご利益で知られ、768年(神護景雲2年)に創建された由緒ある神社です。
普天満宮は普天満女神(熊野権現)を祀る神社。縁結び・航海安全のご利益で知られ、琉球王国時代に創建された由緒ある神社です。普天満宮洞穴は天然の鍾乳洞。
有鹿神社は、奈良・平安のころ相模国府を守護する神社として広い社地と社殿を有したと伝えられる。室町期の戦乱で荒廃したが、海老名耕地の用水を守る水引祭の復興を通じて再び崇敬を集め、海老名総鎮守として信仰されてきた。
札幌八幡宮は応神天皇・神功皇后を祀る神社。厄除け・勝負運のご利益で知られ、1878年(明治11年)に創建された由緒ある神社です。
社伝では和銅元年(708年)4月7日の創立と伝えられます。飛鳥時代、平磯前浦の巨巌から怪しい光が発したことにちなみ、伊勢の大神をこの地に奉斎したのが起こりとされ、「茨城のお伊勢さま」と呼ばれてきました。平安時代の康平3年(1060年)には源頼義・義家父子が社殿を造営したと伝わり、室町時代の永享7年(1435年)には戦乱を避けて神璽が遷されています。江戸時代には徳川幕府から寄進を受け、元禄年間に再興されて水戸藩主の参拝もありました。近代以降も地域と深く関わり、昭和31年(1956年)以降は日本原子力研究所への用水分水に協力しています。
来宮神社は大己貴命・五十猛命を祀る神社。縁結び・禁酒禁煙のご利益で知られ、和銅年間(708年 - 715年)伝承に創建された由緒ある神社です。
貞観4年(862)、征夷大将軍坂上田村麻呂の孫にあたる当道が素盞嗚尊を勧請し、祇園社として創建したのが始まり。のち建久元年(1190)に伊弉諾尊(第三本殿)、元亨元年(1321)に熊野三所権現(第二本殿)を勧請し、平野郷一円の守護神として崇敬を集めた。明治に社号を杭全神社と定めた。三棟の本殿はいずれも国の重要文化財で、境内には全国で唯一現存する連歌所が残り、大阪市の文化財に指定されている。毎年7月11〜14日の夏祭では9台のだんじりが曳行され、30万人を超えるともいわれる人出で賑わう。
東京大神宮は天照皇大神・豊受大神などを祀る神社。縁結び・家内安全のご利益で知られ、1880年(明治13年)に創建された由緒ある神社です。
江戸幕府初代将軍・徳川家康を東照大権現として祀る神社です。家康は元和2年(1616年)に駿府で没した後、遺言に従っていったん久能山に葬られ、翌元和3年(1617年)に日光へ改葬されました。同年に社殿が造営され、4月17日に正遷宮が執り行われています。相殿には豊臣秀吉と源頼朝が祀られています。創建当初は「東照社」と称しましたが、正保2年(1645年)に朝廷から宮号を賜って「東照宮」となりました。現在目にする華麗な社殿群の多くは、三代将軍・徳川家光による寛永の大造替で整えられたもので、陽明門や唐門をはじめ多数の建造物が国宝・重要文化財に指定されています。近代社格制度では別格官幣社に列せられ、現在は神社本庁に属さない単立神社です。日光山内の社寺群の一つとして世界遺産にも登録されています。
幕末の思想家・吉田松陰(吉田矩方命)を祀る。明治23年(1890)、松下村塾の改修に際し、松陰の実家である杉家の人々が松陰の御霊を祀る土蔵造りの祠を建てたのが始まり。明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文・野村靖らが中心となり、県社の社格をもって創建が許可された。境内には松陰が主宰し高杉晋作や伊藤博文らを育てた松下村塾の建物が保存され、末社の松門神社には塾生・門下生53柱が祀られている。「明治維新胎動之地」として知られる。
河内国一之宮とされる枚岡神社の起こりは、神武天皇の即位3年前と伝わる。東征の途上、天皇の命を受けた天種子命が国土平定を祈り、霊地とされる神津嶽(かみつだけ)に磐境を設けて天児屋根命と比売御神を祀ったのが始まりという。白雉元年(650)に平岡連らによって山麓の現社地へ遷り、神護景雲2年(768)に二神が春日の地に迎えられて春日神社(現・春日大社)に祀られたことから「元春日」と呼ばれる。宝亀9年(778)には春日から武甕槌命と経津主命(斎主命)を迎えて四殿となった。延喜式神名帳では名神大社に列し、明治4年(1871)に官幣大社となっている。鎌倉時代には西大寺の叡尊が蒙古襲来に際して当社で敵国降伏を祈ったと伝えられる。
社伝によれば、舒明天皇の御代(629〜641年)に出雲連が入船山に素戔嗚尊を祀ったのが当宮の始まりとされる。その後、萬寿元年(1024年)に入船山周辺の3か所から霊泉が湧き出た奇瑞を受け、後一条天皇の勅意により国家鎮護の社として京都・石清水八幡宮から御分霊を勧請し、丹波国「柏原別宮」として創建された。現在の社殿は天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって再建されたもので、権現造の先駆けとされ国の重要文化財に指定されている。境内の三重塔は文化10〜12年(1813〜1815年)の建立で、兵庫県指定重要文化財となっている。
柞原八幡宮は応神天皇・神功皇后を祀る神社。厄除け・勝負運のご利益で知られ、825年(天長2年)に創建された豊後国一之宮の由緒ある神社です。
桃太郎神社は、桃太郎誕生地伝説が残る犬山市栗栖の神社。大神実命を祀り、子授かり・安産・こどもの発育・災除けなどの信仰を集める。
椿大神社は猿田彦大神・天之鈿女命を祀る神社。交通安全・導きのご利益で知られ、紀元前3年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
深谷市原郷に鎮座する『延喜式』神名帳所載の式内社で、武蔵国幡羅(はら)郡四座の一社。幡羅郡の総鎮守とされ、境内に残る古い社号標にも「武蔵国幡羅郡總社延喜式内楡山神社」と刻まれている。旧社家が絶えて社記の類が散逸したため創建年代は不明だが、第五代孝昭天皇の御代の鎮座という口碑が伝わり、後世の地誌には幡羅太郎道宗が再興したとも記される。社名は、神域一帯にニレの木が多く茂っていたことに由来する。江戸時代は天台宗東学院が別当を務め、熊野信仰の影響から「熊野三社大権現」とも呼ばれたが、明治の神仏分離により楡山神社の社号へ復した。明治5年(1872)に郷社、大正12年(1923)に県社へ昇格。境内には目通り約3.6m、樹高約10m、樹齢約600年と推定されるハルニレの神木が立ち、昭和24年(1949)に埼玉県の天然記念物に指定されている。
榛名神社は、榛名山中に鎮座する上野国の古社。用明天皇元年の創建と伝えられ、火産霊神と埴山姫神を祀る。山岳信仰と修験の霊場として栄え、奇岩に囲まれた神域で開運・五穀豊穣・商売繁盛の信仰を集めてきた。
「お櫛田さん」と親しまれる博多の総鎮守。社伝では天平宝字元年(757年)に大幡主大神が鎮座したのに始まり、天慶4年(941年)には藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古が神助を祈願し、京都の祇園社から素盞嗚大神を勧請したと伝わる。天正15年(1587年)には豊臣秀吉が博多町割(復興)とともに現社殿を建立・寄進した。大幡主大神・天照皇大神・素盞嗚大神の三柱を祀り、不老長寿・商売繁盛の神として信仰される。ユネスコ無形文化遺産の博多祇園山笠が奉納される神社として知られ、境内には樹齢千年を超えると伝わる御神木「櫛田の銀杏」があり、飾り山笠が6月を除き通年展示されている。
武田神社は武田信玄公を祀る神社。勝運・厄除けのご利益で知られ、1919年(大正8年)に創建された由緒ある神社です。
崇神天皇7年の創建と伝えられ、天平8年(736)には行基が東国鎮護を祈願して蔵王権現像を安置したと伝わる古社。中世には山岳信仰の興隆とともに関東修験の中心として栄え、鎌倉時代には有力武将の信仰を集めた。天正18年(1590)に徳川家康から朱印地30石を寄進され、慶長11年(1606)の改築で社殿は東向きに改められた。元禄13年(1700)造営の幣殿・拝殿が現在に伝わる。明治7年(1874)に御嶽神社、昭和27年(1952)に武蔵御嶽神社と改称。日本狼を神格化した大口真神(おいぬ様)を祀ることでも広く知られる。
文政元年(1818)、久留米藩9代藩主・有馬頼徳が国元の久留米水天宮の分霊を三田赤羽の江戸上屋敷内に勧請したことに始まる。屋敷内の社でありながら庶民の信仰が篤く、毎月5日に屋敷の門を開いて参拝が許されたと伝わる。明治維新後の明治4年(1871)に青山へ、翌明治5年(1872)に現在の日本橋蛎殻町へ遷座した。御祭神は天御中主大神・安徳天皇・建礼門院・二位の尼の四柱で、江戸時代から安産・子授けの神として崇敬され、戌の日には安産祈願の参拝者で賑わう。
沖宮は琉球八社の一つで、1451年(尚金福王代)の創建と伝わる。当初は那覇港内に鎮座し、港内に現れた光り輝く霊木を御神体として祀ったのが起源とされ、国家安穏・五穀豊穣・陸海交通安全の神として歴代琉球国王や進貢船の航海者たちの崇敬を受けた。明治41年(1908)、築港工事に伴い安里八幡宮の隣接地へ遷座。旧本殿は昭和13年(1938)に国宝に指定されたが、沖縄戦で焼失した。戦後の1961年に通堂町へ仮遷座し、1975年に奥武山公園内の天燈山麓の現在地へ遷座した。御祭神は天受久女龍宮王御神(天照大御神)、天龍大御神、天久臣乙女王御神、熊野三神。
波上宮は伊弉冉尊・速玉男尊を祀る神社。国家鎮護・航海安全のご利益で知られ、不明(琉球王国時代)に創建された由緒ある神社です。
津島神社は、古くは津島牛頭天王社と称され、「お天王さま」として親しまれてきた古社。社伝では欽明天皇元年(540)の鎮座と伝え、厄除け・疫病除けの守護神として尾張津島天王祭とともに広く信仰を集めてきた。
香川県三豊市三野町、瀬戸内海に浮かぶ小島(津島)に鎮座し、素戔嗚命を祀る。お椀を伏せたような岩島は古くは「ねずみ島」と呼ばれ、その上に銅板葺の本殿が建つ。三豊市によれば宝永3年(1706年)に富山安兵衛が社殿を造営したと伝えられ、眺望の良さから浮世絵師二代安藤広重の絵にも描かれた。社に伝わる話では、ねずみ島の沖で美しい声で歌う女が巫女に「我は海中に住める神、名は津島神」と託宣し、里人が鳥居を建てて島を祀ったのが起こりとされる。牛馬が疫病で多く倒れた年にこの里だけ被害がなかったことから江戸時代は牛馬の神として信仰され、大正時代中頃からは流行り病から子どもを守る神として参拝が広がり、現在は「子どもの守り神」として全国から家族連れが訪れる。昭和8年(1933年)に当時の大見村長・倉田彌治郎が発起人となって津島橋が架けられ、昭和27年(1952年)に社名を「津島神社」から「津嶋神社」に改めた。
社伝によれば推古天皇36年(628)、隅田川で漁をしていた檜前浜成・武成兄弟の網に聖観世音菩薩像がかかり、郷土の文化人・土師真中知がこれを拝したことが浅草寺の草創とされる。のちに真中知の子孫が観音の夢告を受け、観音堂の傍らにこの三人を神として祀ったのが当社(三社権現社)の起源と伝わる。現在の社殿は慶安2年(1649)に三代将軍徳川家光が寄進したもので、度重なる火災や関東大震災、戦災を免れて当時の姿を残し、昭和26年(1951)に国の重要文化財に指定された。明治の神仏分離で三社明神社と改称、明治6年(1873)に浅草神社と定められ、今も「三社様」と呼ばれ親しまれている。
湊川神社は楠木正成公を祀る神社。国家安泰・開運招福のご利益で知られ、1872年(明治5年)に創建された由緒ある神社です。
458年創建。東京を代表する学問の神様・菅原道真公を祀る神社。受験シーズンには多くの受験生が合格祈願に訪れる。梅の名所としても知られ、毎年2月に「梅まつり」が開催される。
熊野三山は、和歌山県南部に鎮座する熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社の総称で、単独の神社ではない。紀伊半島南部は古来「熊野」と総称される聖域とされ、熊野川の中洲にあった本宮は川を神格化したものとして家津御子大神を、河口近くの新宮(速玉大社)は熊野速玉大神を、大滝の聖水がもつ生産力への信仰を根源とする那智は熊野夫須美(産霊)大神を、それぞれ主神として祀る。平安後期には神仏習合により三社の神々にも本地仏があてられ、熊野三所(十二所)権現と呼ばれた。三社が互いに三所(十二所)権現を祀り合うことで一体の霊場「熊野三山」となり、「日本第一大霊験所」を称して現世と来世の救いを願う人々の崇敬を集めた。院政期には百度に及ぶ上皇の熊野御幸として信仰が花開き、鎌倉時代以降は庶民にも広まって「蟻の熊野詣」と形容された。
熊野大社は加夫呂伎熊野大神(素戔嗚尊)を祀る神社。縁結び・厄除けのご利益で知られ、不明(出雲国風土記記載)に創建された由緒ある神社です。
弘仁2年(811)、修験道の祖・役小角から十世にあたる僧日圓が、国家護持のため紀州熊野大神を勧請したのに始まると伝わる。聖護院の守護神として奉祀され、平安末期には熊野信仰に篤い後白河法皇が社殿を修造し境内を寄進した。歴代天皇や庶民の信仰を集めたが応仁の乱で荒廃し、寛文6年(1666)聖護院門跡の助成により再興、天保6年(1835)に大修造が行われた。本殿に伊弉冉尊、相殿に伊弉諾尊・天照大神・速玉男尊・事解男尊を祀り、縁結び・安産・病気平癒の神として信仰される。
熊野那智大社は熊野夫須美大神を祀る神社。結び・諸願成就のご利益で知られ、仁徳天皇5年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
熱田神宮は熱田大神を祀る神社。国家安泰・家内安全のご利益で知られ、113年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
猿田彦神社は、道案内の神である猿田彦大神を祀り、福岡市藤崎で長く親しまれてきた神社。もとは街道の出入口に祀られる道祖神として伝えられ、庚申信仰とも結びついた。唐津街道の出入口に建立され、数百年の歴史を重ねている。
玉前神社は上総国一之宮の格式を持つ古社で、社名は地名「一宮町」の由来ともなっている。平安時代編纂の『延喜式神名帳』には「名神大社」として記載され、朝廷・豪族・幕府など各時代の権力者から篤い信仰を集めてきた。永禄年間の戦火により社殿や宝物、古文書の多くを焼失したため創建の詳細は明らかでないが、毎年9月に行われる例祭には少なくとも1200年の歴史があるとされる。社名の由来には御祭神にちなむ説や、九十九里浜の古称「玉の浦」に由来する説など複数の伝承が残る。
玉敷神社は、大宝3年(703)に多治比真人三宅麿が東山道鎮撫使として武蔵国へ下った際に創建したと伝えられる。一説には成務天皇6年(136)の創建ともいい、延喜式神名帳にも名を記す古社として地域の崇敬を集めてきた。
元亀元年(1570)より神明社がこの地に祀られていたと伝わり、古文書には正徳元年(1711)以前に「伊勢山」と呼ばれる現在の境内地に社殿または小祠があったことが記されている。文政9年(1826)の再建に際して志村文之丞が四国の金刀比羅宮の御祭神を勧請し、神明社・琴平社の合社が建てられた。昭和55年(1980)に「琴平神社」と改称。「柿生のこんぴらさん」として厄除け・商売繁盛の信仰を集めてきた。平成19年(2007)6月26日に放火で社殿を焼失し、平成23年(2011)に本殿が竣功して御神霊が鎮座した。焼失した拝殿の天井には渡辺崋山筆と伝えられる花鳥山水の板絵63枚があったが、再建にあたり宮司が古写真をもとに油彩で復元している。
生田神社は稚日女尊を祀る神社。縁結び・健康長寿のご利益で知られ、201年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
白山比咩神社は菊理媛尊・伊弉諾尊を祀る神社。縁結び・五穀豊穣のご利益で知られ、紀元前91年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
白山神社は菊理媛尊・伊弉諾尊を祀る神社。縁結び・家内安全のご利益で知られ、902年(延喜2年)に創建された由緒ある神社です。
主祭神に応神天皇を祀る。社伝によれば、神功皇后が三韓征討の帰途にこの地で万代までも鎮まり天下泰平を守ろうと誓願し、のちの欽明天皇の御代に八幡大神の宣託を受けて地を万代(もず)と称し、神社を創建したのが始まりと伝わる。平安時代には京都・石清水八幡宮の和泉国万代別宮として栄え、社僧四十八ヵ寺を擁した。江戸時代には歴代の大坂城代が就任時に必ず参拝したといわれ、徳川家から葵紋の使用を許された。秋には例大祭に合わせて氏子各町からふとん太鼓が奉納され、大いに賑わう。
盛岡八幡宮は品陀和気命を祀る神社。厄除け・五穀豊穣のご利益で知られ、1680年(延宝8年)に創建された由緒ある神社です。
上田城本丸跡に鎮座し、真田氏・仙石氏・松平氏という歴代の上田城主を御祭神とする。もとは藤井松平氏の先祖を祀る松平(しょうへい)神社で、上田城主となった系統の藤井松平氏の初代・松平忠晴(忠山)の霊を京都に祀った忠山社が起源とされる。明治維新後、廃藩置県で上田城が民間へ払い下げられ、城跡が桑園や麦畑へ姿を変えていくなか、旧上田藩士や旧領内の有志が旧藩主への報恩と城跡保存を願って神社創建を発起した。本丸跡の所有者だった丸山平八郎の寄附により境内地が整い、明治12年(1879年)に長野県から創立が許可された。戦後になって真田氏と仙石氏も合祀し、昭和28年(1953年)に上田神社と改称したが、市内の同名社と紛らわしいため、昭和38年に初代城主の名を冠した眞田神社へ改称して現在に至る。境内には城内唯一の大井戸と伝わる眞田井戸が残る。
真清田神社は天火明命を祀る神社。出世開運・子孫繁栄のご利益で知られ、紀元前628年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
石上神宮は布都御魂大神を祀る神社。健康長寿・百事成就のご利益で知られ、崇神天皇7年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
石清水八幡宮は応神天皇・比咩大神を祀る神社。厄除け・必勝祈願のご利益で知られ、860年(貞観2年)に創建された由緒ある神社です。
石鎚神社は、石鎚毘古命を祀る霊峰石鎚山総本宮。口之宮本社・中宮成就社・奥宮頂上社・土小屋遥拝殿の四社を中心に、家内安全・厄除開運・当病平癒などの信仰を集めている。
祐徳稲荷神社は倉稲魂大神・大宮売大神を祀る神社。商売繁盛・家運繁栄のご利益で知られ、1687年(貞享4年)に創建された由緒ある神社です。
神田明神は大己貴命・少彦名命を祀る神社。商売繁盛・縁結びのご利益で知られ、730年(天平2年)に創建された由緒ある神社です。
福岡縣護國神社は福岡県出身の英霊を祀る神社。国家安泰・勝負運のご利益で知られ、1868年(明治元年)に創建された由緒ある神社です。
光孝天皇の女御で宇多天皇の母である班子女王を祀る。昌泰3年(900年)に68歳で崩じた班子女王の陵墓が付近にあったことに由来し、多くの皇子皇女を生んだことから「福王子」の社名がついたとも伝える。前身は『延喜式』に名の見える深川神社とされるが、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468年)に焼失した。寛永21年(1644年)に徳川家光と仁和寺の覚深法親王によって社殿が再建され、以後は宇多天皇が開いた仁和寺の鎮守神、また近隣旧6か村の氏神として信仰されてきた。寛永再興の本殿・拝殿・鳥居は1973年に国の重要文化財に指定されている。境内には、氷室から宮中へ氷を運ぶ途中で命を落とした役夫の霊を慰める夫荒神社が末社として祀られている。
長野市の繁華街・権堂町に鎮座する秋葉社。秋葉信仰は静岡県の秋葉神社の祭神である火之迦具土神を火防の神として仰ぐもので、長野市内でも各地に小祠として祀られてきた。『長野市誌』によれば、権堂町の当社は西後町・十念寺境内の秋葉神社の御分身を勧請して建てられたと伝えられる。その十念寺の秋葉社は、酒屋の菊屋が秋葉三尺坊を祀って秋葉堂として建立したものと伝わり、三尺坊が酒を買いに来た折に主人が名のある修験者だろうと酒代を受け取らなかったところ、火難よけの御符などを授けられ、以後長く菊屋が栄えたという伝承が残る。また当社は、現在西町にある西方寺が権堂町にあった時代の秋葉堂を移したものともいわれる。主に花街の信仰を集め、現在のような立派な社殿が建てられたのは明治に入ってからである。
明治28年(1895)11月、御嶽行者・鴨下清八が信州木曽御嶽山から御嶽大神の御分霊を勧請して創建した御嶽信仰の神社。清八は16歳のとき重病の母が御嶽信仰によって救われた体験から、その神徳を広く伝えることを志したと伝わる。主祭神は御嶽大神(国常立尊・大己貴尊・少彦名尊)。日露戦争後、清八は東郷平八郎元帥の銅像建立を発案して自ら許可を求め、大正14年(1925)に元帥臨席のもと除幕式が行われた。以来、境内は「東郷公園」と呼ばれ、乃木希典像やロシア製大砲など海軍ゆかりの品が置かれている。
社伝では大同3年(808年)、富士山本宮浅間大社の御分霊を奉斎したことに始まると伝える富士信仰の古社。祭神は木花咲耶姫命・瓊々杵尊・猿田彦命の三柱で、木花咲耶姫命は安産・子育て、瓊々杵尊は国土平安・家内安全・産業発展、猿田彦命は道開き・交通安全・厄難除けの神として信仰されている。源頼朝や千葉氏の崇敬が厚かったとの記録が残る。約6400坪におよぶ広い神域には松林が広がり、境内には厳島神社・稲荷神社・三峯神社・香取神社・大宮神社・八坂神社・小御嶽神社・小室神社・神明神社・若宮神社など多くの境内社が鎮座し、それぞれの例祭が年間を通じて営まれている。7月14日・15日の夏の大祭は「家内安全 安産子育大祭」として斎行され、14日の前夜祭、15日の本祭を経て22日に例祭終了奉告祭が行われる。
穴八幡宮は応神天皇・仲哀天皇を祀る神社。金運・虫封じのご利益で知られ、1062年(康平5年)に創建された由緒ある神社です。
笠間稲荷神社は宇迦之御魂神を祀る神社。商売繁盛・五穀豊穣のご利益で知られ、651年(白雉2年)伝承に創建された由緒ある神社です。
箱根神社は箱根大神を祀る神社。開運・交通安全のご利益で知られ、757年(天平宝字元年)に創建された由緒ある神社です。
広島県三原市糸崎に鎮座し、通称「はちまんさん」と親しまれる。公式の由緒によれば、神功皇后が西征のみぎりに当地へ舟を寄せた際、出迎えた村長・木梨真人が水を献じたという故事にちなみ、天平元年(729年)に豊前国の宇佐神宮(宇佐八幡宮)から御分霊を迎えて創建された。そのときの水を「長井の水」、当地を「長井浦」と称し、長井の浦は風待ちの港として『万葉集』にも詠まれている。長井の浦は井戸崎ともいい、これが現在の地名「糸崎」の起こりとも伝わる。御祭神は帯中津日子命(仲哀天皇)・品陀和気命(応神天皇)・息長帯日売命(神功皇后)の三柱。境内には神功皇后が水を求めたという御調の井戸、広島県最大とされる御神木の大楠(三原市天然記念物)、三原市重要文化財の神門などがある。
荒川区南千住に鎮座し、南千住・三河島・町屋(荒川区)と台東区三ノ輪にまたがる61ヶ町を氏子区域とする、区内で最も広い鎮守。社伝によれば平安時代の延暦14年(795年)、修験道の祖・役小角の高弟である黒珍が、住居の東にあった小塚の奇岩を霊場として崇め祈っていたところ、素盞雄大神・飛鳥大神の二柱が降臨して神託を授けたため一祠を建てたのが始まりとされる。この奇岩は現在も境内に「瑞光石」として祀られ、周辺の旧地名「小塚原」や近隣小学校の名に冠された「瑞光」の由来になっている。享保3年(1718年)の類焼で両社が焼失した後、享保12年(1727年)に二柱を相殿とする瑞光殿が新たに建てられた。素盞雄大神の別名が牛頭天王であることから「お天王さま」と呼ばれ、松尾芭蕉『奥の細道』矢立初めの句碑が建つ境内は「飛鳥の杜」と称されて江戸の文人墨客のサロンともなった。平成7年に御鎮座1200年祭が斎行されている。
湯河原町の東部、吉浜海岸を望む吉浜地区の鎮守として祀られてきた神社です。社伝では元和6年(1620年)12月11日の創立と伝えられ、須佐之男神に伊弉諾神・伊弉冊神を合わせ祀ります。明治6年に村社に列せられ、その後は地区内の稲荷神社や熊野神社を合併しましたが、これらは戦後に分離されました。大正12年(1923年)の関東大震災で社殿が被害を受けたため、昭和15年(1940年)に現在地へ移転し境内を拡張しています。8月1日の例祭に奉納される「吉浜の鹿島踊り」は神奈川県指定の無形民俗文化財で、国の選択無形民俗文化財にもなっています。祭礼に用いられる飾り屋台は町指定有形民俗文化財に指定されており、境内には道祖神も伝わります。
弘仁13年(822)、嵯峨天皇が当地(神山)に行幸し頓宮を構えて一夜を過ごしたことに由来する。崩御後の承和10年(843)、皇子の源融が追悼のため頓宮跡に嵯峨天皇を祀る社殿を建立し「神野太神宮」と号したのが御本社の前身。昌泰4年(901)、菅原道真が大宰府へ左遷される途上、当地に咲く紅梅を眺めるため船の艫綱を円座状に敷いて座った故事から「綱敷」の社名が起こった。正暦4年(993)、道真への正一位追贈を機に、神野太神宮と道真を祀る梅塚天満宮を合祀し、御本社・御旅社の体制となった。この紅梅が「梅田」の梅の字の由来、「北野天神」の呼称が繁華街「キタ」の語源になったとも伝わる、梅田・キタの氏神。嵯峨天皇を主祭神として祀る神社は全国唯一とされる。
創始年代は不詳だが、寛政7年(1795)の『因幡志』には吾勝尊(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)と瓊瓊杵尊の二座を祀ると記され、「日知り(聖)の神」への信仰から聖大明神と称されたと考えられている。現在の本殿は宝永7年(1710)の改築で、細部に種々の彫刻が施された県保護文化財。安永5年(1776)には神階正一位を授かった。文化10年(1813)に拝殿を造替、明治3年(1870)に境内の恵比寿社(事代主神)を合祀してほぼ現在の姿となった。鳥取市中心市街地の商店街の大半を氏子とし、春祭に隔年で行われる神幸祭は県指定無形民俗文化財。平成23〜26年(2011〜14)には社殿の保存修理が行われた。
創建の詳しい経緯は記録の散逸により不明だが、社に伝わる神具の銘から元禄2年(1689年)にはすでに祀られていたことが分かる。江戸時代前期から中葉にかけて、播州明石郡山田村の総鎮守として六社大明神の社を建て、六柱の神を祀ったのが創始とされる。明治初年の神仏分離令により明神号が廃されて六社神社となり、明治7年(1874年)2月に現在の社名である舞子六神社と改称した。明治10年(1877年)には落雷による火災で社殿を焼失し、のちに再建されている。明石海峡を望む高台に鎮座し、「まいこむの宮」の呼び名でも親しまれている。
長野県大町市大町に鎮座し、伊弉冉尊・仁品王・妹耶姫・若一王子の四柱を祀る。社伝では垂仁天皇の御代に仁品王が社を建てて伊弉冉尊を奉祀したのが始まりとされ、のちに土地の創始の神として仁品王とその后・妹耶姫が合祀された。安曇郷を領した仁科氏の崇敬が篤く、嘉祥2年(849)の創建と伝えられる。仁科盛遠が熊野那智大社に詣で、第五殿に祀られる若一王子を勧請してからは若一王子の宮と称された。現在の本殿は戦国末期の弘治2年(1556)に仁科盛康が造営した隅木入春日造の一間社で、国の重要文化財。承応3年(1654)には社殿の大修造が行われた。明治の神仏分離の際に現社号へ改め、昭和6年(1931)に県社、昭和51年(1976)に別表神社へ加列。境内には観音堂(宝永3年/1706)と三重塔(宝永8年/1711)が残り、神仏習合の姿を今に伝える。社叢「王子の森」は長野県天然記念物。
応永年間(1394〜1428)、佐竹氏12代の佐竹義仁が鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊を勧請し、太田城内に守護神として祀ったのが始まりと伝わる。以後は佐竹氏歴代の祈願所となり、関ヶ原の戦い後に佐竹氏が秋田へ移封された際には、分霊が大館城の守護神として奉持された。江戸時代には水戸徳川家の崇敬を受け、慶長14年(1609)に初代藩主徳川頼房の病気平癒祈願が成就したと伝えられる。水戸藩が領内の八幡社を整理した「八幡改め」の際にも存続を許された四社の一つに数えられ、宝永5年(1708)に現在地へ遷座した。祭神は仁徳天皇にあたる大鷦鷯尊で、倉稲魂命を併せ祀る。境内には樹齢500年を超えるケヤキの巨木群があり、最大のものは高さ約30m、幹周約8.5mで茨城県の天然記念物に指定されている。
天喜元年(1053)、後冷泉天皇の勅願により源頼義が六条醒ヶ井に創建したと伝わる。応仁の乱で荒廃した後は社地を転々とし、慶長10年(1605)に現在の五条坂へ移った。現社殿は承応3年(1654)の再建。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后で、相殿に仲恭天皇と陶祖神・椎根津彦命を祀る。昭和24年(1949)、清水焼発祥の地である五条坂の土地柄から椎根津彦命が合祀され、以後「陶器神社」の通称で親しまれる。毎年8月には大祭とあわせて陶器祭が行われ、五条坂一帯が陶器市で賑わう。
英彦山神宮は、天忍穂耳命を祀る英彦山の神社。古くから神仏習合の修験道霊場として栄え、羽黒山・熊野大峰と並ぶ修験の山として信仰を集めた。明治の神仏分離後に英彦山神社、のち英彦山神宮となり、現在も山岳信仰を伝えている。
大同2年(807)、平城天皇の御代に明王院の開基・空海上人が同寺の鎮守として祀ったのが始まりと伝えられる。当初は芦田川の中州に鎮座していたが、たびたびの洪水で社殿が流失・破損したため、寛永10年(1633)に福山藩祖・水野勝成が再建し、承応4年(1655)にはその孫にあたる3代藩主・水野勝貞が、父である2代勝俊の病気平癒を祈願して現在地に社殿を遷した。保食神・宇加之魂神・大己貴神を祀り、「平安時代より続く鎮守の杜」として備後福山の信仰を集めている。
滋賀県栗東市中沢に鎮座し、意富斗能地神・意富斗乃辨神を祀る。社伝では舒明天皇9年(637)の勧請と伝え、古くは口狭比良(くさひら)大明神と称した。のちに草平大明神と呼ばれ、安土桃山時代からは菌大明神の社号が用いられるようになったという。江戸時代には膳所城主の崇敬が篤く、境内一町四方が除地とされたほか、城主戸田氏が神領三反を寄進し、以後も本多氏・菅沼氏・石川氏ら歴代の城主が神領を安堵した。明治9年(1876)に村社へ列格。現在の本殿は一間社流造で江戸時代中期の建築とされ、拝殿は入母屋造。正月の「おこない」と5月の例祭には特殊神饌が供えられる。境内社として八幡神社と春日神社が鎮座する。
藤崎八旛宮は応神天皇・神功皇后を祀る神社。厄除け・勝負運のご利益で知られ、935年(承平5年)に創建された肥後国一之宮の由緒ある神社です。
創建年代は不詳だが、社伝では源頼義・義家が奥州討伐の途上、戦勝を祈願して勧請したと伝わる。当初は佐間村田中に鎮座し「田中八幡」と呼ばれた。天文年間に現在地へ遷座し、忍城主・成田長泰の崇敬を受けて社殿が修補され、城下の総鎮守として「城主八幡」「西向き八幡」とも称された。弘化3年(1846)の大火で全焼したが同年本殿を再建し、平成元年(1989)に新社殿が竣功した。主祭神は誉田別尊(応神天皇)で、気長足姫尊・比売大神・大物主神・神素盞鳴尊を祀る。癌封じ・ぼけ封じ・虫封じなど秘法を伝える「封じの宮」として知られる。
さいたま市浦和区岸町に鎮座し、地元では「つきのみや」と親しまれる。社伝『調宮縁起』によれば第10代崇神天皇の勅命による創建と伝わり、伊勢神宮へ納める調(貢)物の初穂を収めた倉庫群の中に造営されたため、貢物の搬出入の妨げとなる鳥居を設けないとされる。確かな文献では延喜5年(905年)に編纂が命じられた『延喜式神名帳』に武蔵国四十四座の一社として記載される。御祭神は天照大御神・豊宇気姫命・素盞嗚尊。「調(つき)」が「月」と同じ読みであることから、月の動物とされた兎が神使とされ、中世の月待信仰と結びついて江戸時代には月読社とも呼ばれた。南北朝期の延元2年(1337年)に足利尊氏の命で一色範行が荒廃した社殿を復興し、天正18年(1590年)の小田原兵乱で再び焼失したが徳川家康の関東入部後に再建された。現社殿は安政6年(1859年)竣工の総欅権現造である。
讃岐国一之宮の田村神社は、五柱の御祭神を「田村大神」と総称して祀る香川県高松市の古社。縁結び・勝負運のご利益で知られ、社記に和銅2年(709年)の社殿創建を伝えます。
豊川稲荷は豊川吒枳尼真天を祀る神社。商売繁盛・家内安全のご利益で知られ、1441年(嘉吉元年)に創建された由緒ある神社です。
赤間神宮は安徳天皇を祀る神社。水難消除・家内安全のご利益で知られ、1191年(建久2年)に創建された由緒ある神社です。
雄略天皇の御代(5世紀後期)に物部目大連がその祖神・饒速日命を祀ったのに始まると伝わる古社で、延喜式神名帳に記載される式内社。のちに一族の物部辛國連が社を守り「辛國神社」と称するようになったという。室町時代には春日の神(天児屋根命)を合祀し、周辺の地名「春日丘」にその名を残す。明治時代には長野神社(素盞鳴命)を合祀した。深い緑に囲まれた長い参道は「大阪みどりの百選」に選ばれており、数十種類の椿をはじめ多くの植物が植えられている。
道明寺天満宮は、菅原道真公・天穂日命・覚寿尼公を祀る天満宮。土師氏・菅原氏ゆかりの地に鎮座し、1400年以上の歴史を伝える。道真公の叔母にあたる覚寿尼公の寺であった道明寺とも深い関わりを持つ。
推古天皇30年(622)、宇佐八幡大神の神霊が現れ「この地に跡を垂れ国民を守らん」と告げたという伝承を創祀とし、和銅元年(708)の社殿造営をもって創建とする古社。地名「遠石」もこの神託の故事に由来すると伝わる。平安時代には石清水八幡宮の別宮となり、のち毛利氏や歴代徳山藩主の崇敬を受けて発展した。祭神は応神天皇(品陀和気命)を主神に、神功皇后と宗像三女神を祀り、厄除開運・安産・交通安全などの神徳で知られる。
都農神社は宮崎県児湯郡都農町に鎮座し、延喜式神名帳にその名が記される式内社で、旧社格は国幣小社。日向国一之宮として古くから崇敬を集めてきた。御祭神は大己貴命で、国土の経営や人々の暮らしを支えた神として知られる。社伝によれば、神武天皇が東征に出立する際にこの地に立ち寄り、国土の平安と武運長久を祈願したことが創建の由来と伝わる。日向国における最も社格の高い神社として、古代より地域の信仰の中心であり続け、時代を経て現在も『日向国一之宮』の名にふさわしい風格ある社殿と杜を伝えている。
公式サイトの社伝によれば、永久元年(1113年)11月20日、この地の開発にあたって大神を勧請し氏神として奉ったのが起源とされる。境内に伝わる御影石の建石には「ゑみすのみや」と刻まれ、側面に「永久三乙未年三月」(1115年)の年紀があることから、平安時代末期には鎮座していたとみられる。祭神は恵美須大神(事代主大神)・天照皇大神・八幡大神の三柱で、創建以来「えびす様」として信仰されてきた。大阪湾が深く入り込んでいた時代にこの地を開いたのは漁業を営む人々だったと伝わる。元亀元年(1570年)には三好氏が野田城を築き、当社を城の守護神として武士の信仰も集めた。江戸時代には商都大坂の発展とともに「福の神」として商人の崇敬を受けるようになった。
金刀比羅宮は大物主神・崇徳天皇を祀る神社。海上安全・病気平癒のご利益で知られ、不明(伝承あり)に創建された由緒ある神社です。
寛治6年(1092年)正月15日、渋谷城内に八幡宮を勧請して創建されたと伝わり、渋谷氏の氏族の鎮守として900年以上この地を守ってきた。主祭神は応神天皇(品陀和気命)。渋谷発祥の地ともいわれ、渋谷金王丸常光が17歳で源義朝に従い保元の乱(1156年)で武名を挙げたことから、その名声にちなみ金王八幡宮と称されるようになった。境内には源頼朝が名付けたと伝わる「金王桜」があり、毎年3月最終土曜には金王丸の木像が特別開帳される金王桜まつりが行われる。
鎮西大社諏訪神社は建御名方神・八坂刀売神を祀る神社。厄除け・縁結びのご利益で知られ、1625年(寛永2年)に創建された由緒ある神社です。
祭神は菅原道真公。長岡の地は道真公が生前、在原業平らと詩歌管弦を楽しんだゆかりの地で、大宰府左遷の途上に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ縁により、公自作と伝わる木像を祀ったのが創立とされる。創立年月は不明だが、応仁の乱の兵火で社殿を焼失し、明応7年(1498)に再建された記録が残る。寛永15年(1638)には八条宮智忠親王により境内東側の八条ヶ池が築造された。現在の本殿は昭和16年に平安神宮の社殿を移築したもので、京都府・長岡京市の有形文化財に指定されている。「天神さん」と呼ばれ、学問・受験の神として親しまれる。
神功皇后が三韓からの帰途、石津浜での戦勝祈願の折に老漁師が献上した鯛を吉祥とし、塩土老翁の御魂を祀るよう詔したのが創建と伝わる古社。延喜式神名帳に記載された和泉国大鳥郡の式内社で、塩土老翁神・素盞嗚神・生国魂神の三柱を祀る。天永4年(1113)には三つの村の神社を併合して現在の形となった。「大寺さん」の通称で堺の人々に親しまれ、天正14年(1586)には豊臣秀吉から朱印状を受け、明治35年(1902)に府社に昇格した。大寺縁起や伏見天皇宸翰御歌集、短刀銘吉光など多くの文化財を所蔵し、安産・開運厄除の神社として信仰されている。
防府天満宮は菅原道真公を祀る神社。学業成就・家内安全のご利益で知られ、904年(延喜4年)に創建された由緒ある神社です。
寛治5年(1091)、清原武則の子孫・保定が祖先の舎人親王を祀り、藤森神社と称したのが創まりと伝わる。寛正3年(1462)、壬生城を築いた壬生氏の祖・壬生胤業が、遠祖である小槻今雄公の神霊を近江国の雄琴神社から勧請して合祀し、社号を雄琴神社と改めた。祭神は天照大御神・天武天皇・舎人親王・小槻今雄公の四柱。以来900年余りにわたり壬生の総鎮守(総氏神)として崇敬を集めている。
大阪キタの中心、梅田・曽根崎の総鎮守で、通称「お初天神」。社伝によれば、上古に大阪湾へ浮かぶ小島の一つであった現在地に「住吉須牟地曽根ノ神」を祀ったのが始まりで、古代難波の「難波八十島祭」旧跡の一社とされる。創建年代は定かでないが、八十島祭が文徳天皇の嘉祥3年(850年)まで遡り、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察されている。社名は、昌泰4年(901年)に大宰府へ左遷される途中の菅原道真が当地で詠んだと伝わる「露と散る涙に袖は朽ちにけり」の歌にちなむとされ、元和8年(1622年)の社殿再建の際に道真公が相殿に合祀された。元禄16年(1703年)に境内で起きた心中事件を題材に近松門左衛門が『曽根崎心中』を著したことから、主人公お初の名にちなむ通称で広く知られる。現社殿は昭和20年6月の戦災で焼失した後、昭和32年9月に再建されたもの。
香取神宮は、千葉県香取市に鎮座する香取信仰の総本社。経津主神を祀り、下総国一宮・勅祭社として篤く崇敬される、勝運・交通安全・災難除けで知られる神宮です。
社伝では天喜4年(1056年)、前九年の役に向かう源頼義が当地にあった熊野神社の境内に陣を張り、社前に据えた2枚の平石に石清水八幡宮の神霊を勧請して戦勝を祈願したのが始まりとされる。以後この地で勢力を伸ばした佐竹氏が守護神として崇敬し、初代昌義が社殿を造営して太田郷の総社とした。佐竹氏は代々当社の神前で元服の儀を行うのを家例とし、天正2年(1574年)の落雷で社殿を焼失した後、同8年に19代義重が現在の本殿を再建している。本殿は常陸太田市指定文化財。20代義宣は天正20年(1592年)に分霊を水戸八幡宮へ、慶長7年(1602年)の秋田移封の際には八幡秋田神社へ遷した。
滋賀県蒲生郡日野町村井に鎮座し、天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命を祀る。社伝では神武天皇の御代に、出雲国から天穂日命に供奉して来た彦健忍雄心命が東方に聳える綿向山に開拓の祖神を迎え祀ったのが起こりで、欽明天皇6年(545年)に山頂へ祠を建てたのが創祀と伝える。平安初期の延暦15年(796年)に里宮として現在地へ遷され、『延喜式』神名帳にみえる馬見岡神社の論社とされる。以来、蒲生上郡の総社・日野の大宮として当地の産土神と仰がれ、鎌倉から安土桃山期にはこの地の領主であった蒲生氏一族が氏神として庇護し、江戸時代には全国に名をはせた日野商人の財力に支えられて出世開運の神として崇敬を集めた。現在の本殿は宝永4年(1707年)に氏子中の寄進により建立されたもの。標高1,110mの綿向山山頂に祀る奥之宮・大嵩神社では、20年ごとに社殿を建て替える式年遷宮が今も続けられている。
後三条天皇の延久年間(1069〜74年頃、約940年前)に創建されたと口伝される古社。紀州熊野本宮の神主が全国行脚の途中でこの地に留まり、熊野の神々を祀ったのが始まりと伝わる。「高い丘を作って人々を救え」との夢告を受けた神主が村人とともに社殿の裏山に土を盛ったと伝えられ、安政の大地震の際には里人がこの丘に避難して津波の難を逃れたという。この塚が「高塚」の地名の由来になったとの説もあり、防災と地域救済の記憶を今に伝える。祭神は伊佐奈伎命・事解之男命・速玉之男命の熊野三神で、「開運みちびきの大神」として信仰される。
創建年代は不詳だが、往古より皇室の崇敬が篤く、景行天皇や仲哀天皇の親拝が伝えられる古社である。平安時代の延長5年(927年)に成立した『延喜式』神名帳に名を載せる式内社で、伊予国伊予郡の古社に数えられる。主祭神の高忍日賣大神は、産婆(助産師)と乳母の祖神として全国で唯一祀られる神とされ、難産に際して助産にあたったという独自の伝承が残る。江戸時代には松山藩の祈祷所とされ、藩主の信仰を集めた。現在も安産・子授けの信仰を集め、3月8日の安産福運大祭では助産師の特別祈願が行われるなど、地域の産育信仰の中心であり続けている。
文武天皇の勅願により、紀州熊野三社のうち新宮にあたる熊野速玉大社の分神を高松山へ勧請したのが始まりで、大宝元年(701年)9月のこととされる。社伝によれば、藤原不比等の娘・宮子が幼少より熊野三社を篤く信仰し、文武天皇の皇后となって懐妊した際に熊野へ誓願したところ、無事に皇子(のちの聖武天皇)が誕生した。これを喜んだ天皇・皇后が東国に三所の社を建てることとし、北は山続き、南は海を望むこの地を新宮の宮地と定めたのが高松神社である。西の三熊野神社(本宮)、北の小笠神社(那智)と合わせて遠州の熊野三山を成す。御祭神は伊弉冊尊・速玉男命・亊解男命。源頼朝が伊豆配流の折に当社へ祈願したという伝説も残り、以来1300年にわたり地域の氏神として信仰されてきた。
社伝によれば、允恭天皇8年(419)に熊野権現をこの地に勧請し「田辺の宮」と称し奉ったのが起源とされる。別の古文書では天武天皇の時代(684)に十二殿を構え「新熊野證誠十二所大権現」と称したとも伝わり、本殿の裏手にある仮庵山は古くから龍神信仰の中心地、あるいは祭祀の場・御神体として信仰されてきた。平安時代後期には別当・長範によって熊野三所権現が勧請され、1147年に第18代熊野別当・湛快が就任した際には天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称したという。社名は、源平合戦の折に熊野別当・湛増が紅白7羽の鶏を闘わせて神意を占い、白(源氏)が勝ったことから源氏に加勢して熊野水軍を率いたという『平家物語』の故事に由来する。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産に追加登録されており、社殿は国の重要文化財。
釧路市西部の鳥取地区に鎮座する、開拓の歴史とともに歩んできた神社です。明治17年(1884)から18年にかけて、旧鳥取藩の士族とその家族あわせて500人余りが団結して移住し、この地に鳥取村を開きました。故郷の名を村名とした移住者たちは、開拓の心のよりどころとして明治24年(1891)に大国主大神の御分霊を勧請し、産土神として当社を創祀しました。移住者の子孫によって「きりん獅子舞」「傘おどり」「北の開拓者」といった鳥取ゆかりの芸能が受け継がれ、例祭や開拓者への報恩行事で奉納されています。昭和59年(1984)には移住百年を記念し、鳥取城を模した資料館「鳥取百年館」が境内に建てられ、士族移住者が携えた品々や鳥取藩池田家ゆかりの資料が展示されています。
第10代崇神天皇の御代、大国主命の11世の子孫にあたる大田田根子の孫・大加茂都美命が勅を奉じて葛城邑加茂の地に奉斎したのが創祀と伝わる。葛城加茂社・下津加茂社とも称され、全国の加茂(鴨)社の根源とされる。主祭神の積羽八重事代主命はもともと鴨氏一族が信仰した神で、当社は事代主神信仰の本源にあたる。桜井市の大神神社に祀られる大物主命の御子神であることから、同社の別宮とも称される。配神として下照比売命・建御名方命を祀るほか、本殿境内社に大物主櫛𤭖玉命・大国主大神を祀る。宮中八神殿の一社として鎮魂の祭礼に預かる延喜式内の明神大社であり、その神は現在も宮中三殿の一つに合祀されている。
鶴岡八幡宮は応神天皇・比売神を祀る神社。勝運・厄除けのご利益で知られ、1063年(康平6年)に創建された由緒ある神社です。
鷲神社は東京都足立区島根に鎮座し、主祭神の日本武尊は『子育てわし大明神』とも称される。相殿には誉田別命(安産福徳の神)・国常立命(国土主宰の神)を祀り、須佐之男命・天照大御神もあわせて奉斎する。かつてこの一帯は海岸線に近く、島の根のような地形をなしていたことから『浮島明神』とも呼ばれ、ご祭神が船でこの地に着いたという伝承が残る。文保2年(1318)に中興されたと伝わり、応永年間の文書には足利将軍家からの寄進が記されている。元禄8年(1695)には村内に点在していた七つの祠のうち八幡社・明神社の二柱が合祀され、享保元年(1716)には8代将軍徳川吉宗が鷹狩りの途中に立ち寄ったとも伝えられている。
社伝によれば、天照大御神が天岩戸にこもられた折、天宇受売命が岩戸の前で舞った際に弦という楽器を司った神があり、天手力男命が岩戸を開いたとき、その弦の先に鷲がとまった。神々はこれを世を明るくする瑞兆と喜び、以来この神は鷲の一字を冠して鷲大明神、天日鷲命と称されるようになったという。天日鷲命は諸国の土地を開き、開運・殖産・商売繁昌に霊験の高い神としてこの地に祀られた。のちに日本武尊が東征の途上で戦勝を祈願し、志を遂げた帰りに社前の松へ武具の熊手を掛けて勝ち戦を祝った。その日が11月の酉の日であったことから例祭日と定められ、これが酉の市の起源とされる。この故事により日本武尊も祭神の一柱に加えられた。江戸時代は鷲大明神社と称し、宝暦・明和年間にはすでに酉の祭が相当な賑わいを見せていた。
鹿児島神宮は天津日高彦穂穂出見命・豊玉比売命を祀る神社。縁結び・五穀豊穣のご利益で知られ、神代の時代の創建とされる大隅国一之宮の由緒ある神社です。
麻布氷川神社は東京都港区元麻布に鎮座する麻布総鎮守。素盞嗚尊・日本武尊を祀り、勝運・来福・仕事運・厄除開運の信仰を集める氷川信仰の社です。
多くの神社で節分の行事が行われますが、豆まき式の規模や著名人の参加、追儺式の有無は神社によって異なります。大きな行事を見たい場合は事前に公式サイトで確認してください。
見物は多くの神社で自由です。舞台に上がっての豆まきへの参加は、年男・年女としての申し込みが必要な神社もあります。
原則として立春の前日で、多くの年は2月3日ですが、年によって2月2日になることもあります。参拝前に日付を確認してください。