例大祭の日程は神社ごとに異なり、毎年同じ日の神社と、曜日で決まる神社があります。神輿渡御や山車が出る祭りは沿道が混雑するため、見物する場所や時間帯は事前に確認しておくと安心です。
祭りの種類や参拝マナー、日本三大祭などの基礎知識は詳しい解説記事でまとめています。
神輿渡御や神楽奉納など、内容の詳しい祭礼が公式情報で確認できる神社を231社紹介。例大祭・夏祭りの参拝先を探す参考にできます。
例大祭の日程は神社ごとに異なり、毎年同じ日の神社と、曜日で決まる神社があります。神輿渡御や山車が出る祭りは沿道が混雑するため、見物する場所や時間帯は事前に確認しておくと安心です。
祭りの種類や参拝マナー、日本三大祭などの基礎知識は詳しい解説記事でまとめています。
この一覧は、神輿渡御・神楽奉納・流鏑馬など、祭礼の内容が公式情報で具体的に確認できた神社を掲載しています。単に例大祭が行われることが分かるだけの神社は対象外とし、内容の厚みで絞り込んでいます。
公式情報で祭礼の内容が具体的に確認できた神社をまとめています。
明治39年(1906年)、出雲大社教の布教のため広島県出身の神職・宮王勝良が渡布し、ホノルルで開教したのが始まりとされる。明治40年(1907年)に最初の社殿が建てられ、大正11年(1922年)には出雲大社を模した大社造の社殿が完成した。太平洋戦争開戦後の1941年、分院長らはFBIに拘束されて米本土に抑留され、教団は解散、社地・社殿は市郡当局の管理下に置かれた。戦後1952年から返還運動が続けられ、1961年に教団側の勝訴によって社殿が戻り、1969年に竣工大祭が斎行された。大國主大神とハワイ産土神を主祭神とし、沖縄県出身移民の氏神など複数の御分霊も合祀する。出雲大社の分社として「出雲大社ハワイ分院」とも称される。
社伝によれば、安閑天皇元年(531年)、物部姓礒部氏がその氏神である経津主神を祀ったことに始まり、後に機織や農耕の神とされる比売大神をあわせ祀るようになったと伝わる。1400年以上の歴史を持つ上野国一之宮で、延喜式にも名神大社として名を連ねる古社である。現在の社殿は寛永12年(1635年)、3代将軍徳川家光の命により造営されたもので、江戸初期の漆塗り極彩色の建築として国の重要文化財に指定されている。参道を上った先の総門から石段を下った位置に社殿が鎮座する、全国でも珍しい「下り宮」としても知られる。
社伝によれば、慶雲4年(707年)、麿子親王によって創建されたと伝わる古社である。祭神の大己貴神は大国主神の別名としても知られ、国土経営に関わる神として信仰されてきた。江戸時代には三輪明神とも呼ばれ、福知山藩の鎮守として藩主から篤い崇敬を受けた。正徳4年(1714年)の火災で本殿をはじめ境内の建物をすべて失い、現在の本殿は享保3年(1718年)に再建されたもの。明治以降は旧社格府社に列せられた。境内の花崗岩製の石燈籠は鎌倉時代のものとみられ、市内最古の石燈籠として福知山市の文化財に指定されている。
三光稲荷神社は、犬山城の麓に鎮座する歴史ある神社。犬山城主成瀬家歴代の守護神として崇敬され、家内安全・商売繁昌・縁結びなどの信仰を集める。
三宅八幡宮は、創建の詳しい年代を伝える記録が残っていないが、江戸時代中期には現在のような姿ですでに存在していたと伝わる。境内には古くから奉納されてきた子育て祈願の絵馬124点が伝わり、2009年3月11日には国の重要有形民俗文化財に指定された。
JR両毛線岩宿駅の近く、みどり市笠懸町阿左美に鎮座する。明治の神仏分離以前の姿を守る神仏習合の社であることを掲げ、神と仏の双方を祀る点に特色がある。祀られるのは天地宇宙を司る造化三神、現世と霊界を司り因縁の浄化を導くとされる天照大御神・月読大御神・月輪観世音菩薩、商売繁盛や金運・良縁を導くとされる大國主大神をはじめとする福徳の神仏、学業や芸能を司る文昌帝君と菅原道真公など十二柱。護摩による祈祷、お祓い、御供養のほか、宗旨宗派を問わない相談や占術鑑定にも応じている。
三峯神社は伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀る神社。夫婦円満・家内安全のご利益で知られ、景行天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
三嶋大社は大山祇命・積羽八重事代主神を祀る神社。商売繁盛・家内安全のご利益で知られ、不明(奈良時代に記録あり)に創建された由緒ある神社です。
三嶋神社(京都・上馬町)は大山祇大神・天津日高彦火瓊々杵尊・木花咲耶姫命を祀る、京都市東山区の神社。うなぎを神使とする「うなぎ神社」としても知られ、子授け・安産の信仰を集めています。
創建年代は不詳だが、古くからさまざまな社号で呼ばれてきた古社で、現在も14枚の棟札が伝わる。祭神の大宜都比売命は五穀をつかさどる神で、伊勢国丹生の郷から阿波国に渡って国土を経営し、この地一帯に粟を蒔き広めたと伝えられる。「大粟」という社名も、鎮座地である神山町神領という地名も、この粟作の伝承に結びついている。神社は大粟山に鎮座し、道の駅「温泉の里神山」からもごく近い。秋祭りでは神輿とだんじりが繰り出し、初日に神山温泉に隣接する八幡神社まで渡御して、翌日に八幡神社を発って地区を巡り大粟神社へ帰る。これは大宜都比売命が八幡神社の彦火火出見神に会いに行くという言い伝えにちなむ神事とされている。
社伝によれば、上之村神社はもとは久伊豆神社と称し、応永年間(1394~1428年)に忍城主・成田五郎家時によって社殿が再興されたと伝わる。江戸時代には大山祇神を主祭神としていたが、明治2年(1869年)に社名を上之村神社と改め、事代主命を主祭神に、大己貴命・大山祇神を配祀神とするようになった。中世には忍城主成田氏の氏神として栄え、忍城落城後は徳川氏の庇護を受けたとも伝わる。境内には摂社の大雷神社があり、その本殿と上之村神社本殿はともに埼玉県指定有形文化財、参道の木製鳥居は熊谷市指定文化財で市内最大級の規模を誇る。
正式には御霊神社といい、京都御所の北、上京区上御霊竪町に鎮座する。下御霊神社に対して上御霊神社と通称される。延暦13年(794年)の平安遷都に際し、桓武天皇が非業の死を遂げた弟・早良親王(崇道天皇)の神霊をこの地に祀ったのが起こりと伝わる。以後、井上大皇后や他戸親王、橘逸勢、文屋宮田麻呂ら政争に倒れた人々の霊が加えられ、十三柱を祀るようになった。貞観5年(863年)には神泉苑で御霊会が営まれ、疫病を鎮める霊社として都人の厚い信仰を集めた。応仁元年(1467年)、畠山政長と畠山義就が境内の御霊の森で衝突したことから、応仁の乱の発端の地としても知られる。「こころしずめの社」と称され、厄除けや学業成就の祈願に訪れる人が多い。
上杉神社は上杉謙信公を祀る神社。開運招福・諸願成就のご利益で知られ、1871年(明治4年)に創建された由緒ある神社です。
五箇山の上梨集落に鎮まる古社で、伝承では奈良時代の泰澄が人形山に開いた堂塔にはじまり、のちに山麓の上梨へ移されたと伝えられます。本殿には文亀2年(1502年)の棟札が残り、富山県内に現存する最も古い木造建築とされ、国の重要文化財に指定されています。規模は小さな一間社流造で、豪雪から守るため鞘堂に覆われています。白山信仰の菊理媛命を主祭神に、諏訪と八幡の神をあわせ祀っています。五箇山を代表する古い民謡「こきりこ」は、古くからこの白山宮の祭礼で歌い継がれてきたもので、現在も秋の祭りで奉納されています。
上賀茂神社は賀茂別雷大神を祀る神社。厄除け・方除けのご利益で知られ、678年(天武天皇7年)に創建された由緒ある神社です。
上野天満宮は、平安時代中期に陰陽師・安倍晴明の一族がこの地に住み、菅原道真公を慕ってその御神霊を祀ったことに始まると伝えられる。名古屋三大天神の一社として崇敬され、学問成就・合格祈願の天神信仰を今に伝えている。
上野東照宮は寛永4年(1627年)の創建と伝わり、徳川家康公を東照大権現として祀る神社である。日光・久能山の東照宮とともに、全国に数多く分社が置かれた東照宮の一社にあたる。現在の社殿は江戸時代初期に造営されたもので、金色殿と通称される社殿をはじめとする建造物群は、戦火や震災による被害を免れ、江戸初期建築の貴重な遺構として国の重要文化財に指定されている。出世や勝利、健康長寿にゆかりのある神として参拝されているとされる。
創建年代は不詳。平安時代、相次ぐ疫病や災害を非業の死を遂げた貴人の怨霊のしわざと考え、御霊として祀り慰める御霊信仰から生まれた神社で、『日本三代実録』貞観5年(863)5月20日条に記される神泉苑での最古の御霊会がその淵源とされる。この御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)・伊予親王ら六座に二座を加えた八所御霊を祭神とする。はじめ愛宕郡出雲郷の下出雲寺境内に鎮座したと伝わり、のち新町出水の西へ移り、天正18年(1590)に現在地へ遷座した。古くから皇居の産土神として皇室の崇敬が厚く、享保年間には霊元天皇が二度にわたり社頭で祈願している。疫病退散の神「下御霊鎮疫神」として信仰され、境内に湧く御霊水でも知られる。
下鴨神社は賀茂建角身命・玉依媛命を祀る神社。縁結び・安産のご利益で知られ、紀元前90年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
世良田東照宮は正保元年(1644年)、天海僧正が3代将軍徳川家光の命を受け、日光東照宮から神像・神宝・社殿を移して創建したと伝わる。世良田の地は、徳川家が自らの遠祖と称した新田氏庶流・世良田氏の発祥地とされ、隣接する長楽寺には世良田義季をはじめとする一族の墓所十数基が残る。徳川家にとってゆかりの深い土地であることから、家康公を祀る東照宮が営まれたと伝わる。
文武天皇の慶雲4年(707年)、この地に社殿を創建して鏡作神を奉斎したと伝えられる。相殿に天糠戸神・石凝姥神を配祀する。平安時代には官社に列し、延喜式神名帳では美作国唯一の名神大社として記載され、美作国一宮と称される。永保元年(1081年)には正一位の神階を授けられた。平安時代の『今昔物語集』に載る猿神伝説の舞台としても知られ、古くから鍛金・冶金や牛馬の守護神として中国地方一円の崇敬を集めてきた。
北海道東部、中標津町の市街地に鎮座する神社。祭神は天照大御神・大国主神・倉稲魂神の三柱。1913年(大正2年)8月、当時の標津村に入植した人々が開拓の守護神として小祠を建てたのが始まりで、当初は現在の丸山公園付近にあった。その後たびたび移転を重ね、1919年(大正8年)に現在地へ落ち着いた。1933年(昭和8年)に本殿・幣殿・拝殿が造営され、1942年(昭和17年)に内務省から公認神社として認可された。1975年(昭和50年)には老朽化した社殿を建て替え、今日の姿となっている。旧共成神社を合祀しており、その祭神も併せて祀る。開拓の歴史がそのまま社史となっている、比較的新しい北海道らしい神社である。
大分県中津市の中津城址に鎮座し、「豊前の国のお伊勢様」として親しまれている神社です。伊勢神宮より天照大御神・豊受大御神の御分霊を奉迎鎮祭しており、今も地域の信仰を集めています。
丹生官省符神社は、弘仁7年(816年)に弘法大師空海が慈尊院を開創する際、丹生都比売大神と高野御子大神の二神を祀ったのが始まりと伝わる。慈尊院の奥に続く119段の石段を上った先に鎮座し、ここは高野山への参詣道である町石道の起点にもあたる。本殿は国の重要文化財に指定され、境内周辺は国の史跡「高野山参詣道」の一部としても指定を受けている。2004年には、慈尊院とともにユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産として登録された。
丹生川上神社は、天武天皇白鳳4年(675)、吉野の丹生川上に宮柱を立てて祀れば天下のために甘雨を降らせ長雨を止めるという御神教により創祀されたと伝えられる。水を司る神として、古代から朝廷の祈雨・止雨の祭祀に関わった。
吉野の山あいに鎮座する、水を司る闇龗神(くらおかみのかみ)を祀る古社。社伝では天武天皇の白鳳4年(675年)、「人の声の聞こえない深山に社殿を建てて祀れば、天下のために雨を降らせ、長雨を止めよう」という神託を受けて創建されたと伝える。『延喜式』神名帳の名神大社「丹生川上神社」および二十二社(下八社)の論社で、朝廷は日照りには黒馬、長雨には白馬を奉って祈願した。この馬の奉献が絵馬の起こりになったとも語り伝えられている。明治4年に官幣大社丹生川上神社と定められたが、その後に鎮座地をめぐる議論を経て上社・中社が加わり、現在は三社が並立していずれも神社本庁の別表神社となっている。祭神は大正時代に高龗神から闇龗神へ改められた。
丹生都比売神社は丹生都比売大神等を祀る神社。諸災守護・安産のご利益で知られ、不明(1700年以上前)に創建された由緒ある神社です。
明治天皇崩御の際に殉死した乃木希典大将と乃木静子夫人を祀る神社。1923年創建。乃木将軍の旧邸宅(乃木邸)が境内に保存されている。毎年9月13日の例大祭には多くの参拝者が訪れる。
久伊豆神社は、古くから久伊豆大明神として崇められてきた神社で、大国主命・言代主命を主祭神とする。創建年代は不詳ながら、平安時代中期以降には武士や地域の人々から崇敬を受け、国造り・縁結び・福の神として信仰されてきた。
三重県鈴鹿市白子に鎮座し、大己貴尊を主祭神に須世理姫命と漢織姫命を配祀する。社伝では、古くは現在の白子・御殿町一帯にあたる「伊勢の森」と呼ばれる神域に大己貴尊と須世理姫尊を祀って「福徳さん」と称え、樹齢千年を超える福徳の松がそびえていたという。雄略天皇の代に渡来した漢織(あやはとり)らが伊勢の人々に紡績や衣縫の技術を伝えた功績を称え、漢織姫命を福徳の女神として合祀したと伝える。延長5年(927)に集大成された延喜式の神名帳に載る式内社で、寛永11年(1634)3月には御殿と代官所の設立用地として伊勢の森の境内を上地し、現在地へ遷座した。その際に2代目・3代目の福徳の松が植えられている。昭和18年(1943)4月に村社から県社となった。
推古天皇の御代、秦氏の久能忠仁が久能山を開き、観音菩薩を安置する補陀落山久能寺を建てたのが山の歴史の始まりと伝わります。元和2年(1616)に徳川家康公が75歳で没すると、遺命によりこの地に埋葬され、2代将軍秀忠公の命により翌元和3年(1617)に社殿が造営されて東照宮として創建されました。権現造・総漆塗・極彩色の御社殿は、江戸初期を代表する建築として国宝に指定されています。
亀山八幡宮(下関)は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀る山口県下関市唐戸地区の八幡宮。勝負運・厄除けのご利益で知られ、関門海峡に近い下関の鎮守として親しまれています。
亀山八幡宮(佐世保)は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后などを祀る長崎県佐世保市八幡町の八幡宮。佐世保中心部に鎮座する、勝負運・厄除けのご利益で知られる神社です。
亀山八幡神社(亀山市)は、三重県亀山市江ケ室に鎮座する八幡神社。文永2年(1265年)に宇佐神宮の神を奉ったことに始まると伝わり、亀山城主の崇敬を受けてきた社です。
亀岡八幡宮(仙台)は、宮城県仙台市青葉区川内亀岡町に鎮座する八幡宮。伊達氏ゆかりの神社で、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祀ります。
亀岡八幡宮(逗子)は、神奈川県逗子市逗子に鎮座する八幡宮。同名の仙台・市谷の亀岡八幡宮や、中津の亀岡八幡神社と区別するため、逗子の地名を付けて整理しています。
亀岡八幡神社(中津市山国町)は、大分県中津市山国町中摩に鎮座する八幡神社。亀岡八幡宮とも称される、中津市山国町の八幡信仰の社です。
太宰府天満宮の神官で菅原道真公の末裔にあたる菅原大鳥居信祐が、正保3年(1646年)に神託を受けて飛梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため諸国を巡ったのち江戸の本所亀戸村にたどり着き、村にあった天神の小さな祠に神像を祀ったのが始まりと伝えられる。四代将軍徳川家綱は明暦の大火からの本所復興事業に際して現在の社地を寄進し、寛文2年(1662年)10月25日、太宰府天満宮にならって社殿・回廊・心字池・太鼓橋が整えられた。古くは「東宰府天満宮」「亀戸宰府天満宮」とも呼ばれ、本社である太宰府天満宮に対して東国天満宮の宗社として崇敬を集めてきた。御祭神は天満大神(菅原道真公)で、相殿に菅原家の祖神である天菩日命を祀る。境内は梅・藤・菊の名所として知られ、季節ごとにまつりが催される。
亀戸香取神社は、東京都江東区亀戸に鎮座する「スポーツ振興の神」として知られる香取神社。経津主神を祀り、勝矢祭の由緒から勝負運・スポーツ祈願で参拝される社です。
事任八幡宮は、己等乃麻知媛命を祀る遠江国一宮。願い事が言のままに叶う神として古くから崇敬され、『枕草子』にもその名が見える。八幡神も祀り、ことだまの杜として信仰を集めている。
創建年代は不詳。武蔵国の二宮とされ、武蔵総社六所宮の「二の宮」に数えられる古社で、古くは「小河大明神」と称し小川郷の鎮守であった。天慶の乱の際には藤原秀郷が戦勝を祈願し、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営したと伝わる。天正19年(1591)には徳川家康から朱印地15石を与えられた。明治3年(1870)に現社名に改称。本殿・宮殿はあきる野市指定文化財で、境内一帯は「二宮神社並びに城跡」として東京都指定旧跡となっている。
弘仁年間(810~824)、嵯峨天皇の勅命により創建されたと伝わります。延喜式神名帳に記された式内社の論社とされ、下総国二宮として朝廷からの崇敬を受けました。江戸時代には徳川家康から朱印地10石が与えられています。治承4年(1180)、当地に住み着いた藤原師経が祖先の藤原時平を相殿に合祀したと伝わり、現在の社殿は安永年間(1772~1781)の再建で、大きな唐破風を持つ権現造です。
創建年代は不詳で、社伝では垂仁天皇あるいは景行天皇の御代にさかのぼるとされます。赤城山を神体とする赤城信仰の里宮にあたり、平安時代後期からの「一宮二宮」の格付けのもとで上野国二宮として崇敬されてきた古社です。『延喜式』神名帳の名神大社「赤城神社」の論社の一つに数えられ、豊城入彦命・大己貴尊ほか数柱を祀ります。三夜沢の赤城神社との間で神体が往復する「御神幸」が伝えられ、平成5年に前橋市の重要無形民俗文化財に指定されました。境内地は市の史跡、梵鐘・絵馬・宝塔は市の重要文化財で、二宮赤城神社太々神楽(平成21年指定)と二之宮式三番叟(昭和45年指定)も市の無形民俗文化財として保存会に受け継がれています。茅葺きの社殿が古社の趣を伝えています。
二見興玉神社は、猿田彦大神と宇迦御魂大神を祀る二見浦の神社。夫婦岩沖合の興玉神石を拝する信仰を伝え、古くから伊勢参宮前の禊の地として知られた。海上守護・縁結び・開運の社として崇敬されている。
寛治4年(1090)、当麻秀則が源義家の命により、朝日岳・祝瓶岳・小朝日・月山峰・三淵の5か所の霊を合祀して創建したと伝わり、これが社名の由来となっています。由緒は修験道の祖とされる役小角にまで遡るとされ、かつては朝日山大権現と称されていました。大正2年(1913)には山・三淵・八幡・大沢・熊野の五社を合併し、現在の形になったと伝わります。
五社神社は、曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守により城内に創建されたと伝わります。徳川家康が浜松城主であった天正7年(1579)、秀忠公誕生に際し産土神として崇敬され、翌天正8年(1580)に現在地へ遷座しました。一方の諏訪神社は、延暦10年(791)に坂上田村麻呂が東征の折に創建したと伝え、弘治2年(1556)に曳馬城下へ遷座し、同じく秀忠公の産土神として崇敬されました。両社殿はかつて「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ」と謡われた壮麗な建築でしたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失。昭和37年(1962)に両社が合祀され、昭和57年(1982)竣工の現社殿に奉斎されています。
明治元年(1868)、明治天皇の御沙汰により、維新に殉じた志士の霊を祀るため京都府や山口・高知・福岡・熊本・鳥取などの諸藩が東山霊山の山上に祠宇を建立したのが創祀で、日本の招魂社の嚆矢とされる。当初は「霊山官祭招魂社」と称し、昭和14年(1939)に内務大臣指定により京都霊山護国神社と改称した。坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允ら明治維新の志士から日清・日露戦争、大東亜戦争に至る戦没者約7万3千柱を祀る。山上の霊山墳墓には坂本龍馬・中岡慎太郎らの墓があり、命日の11月15日には墓前で龍馬祭が斎行される。
今宮戎神社は天照皇大神・事代主命を祀る神社。商売繁盛のご利益で知られ、600年(推古天皇の時代)に創建された由緒ある神社です。
今戸神社の創建は1063年(康平6年)と伝わる。奥州鎮守府将軍であった源頼義・義家父子が、奥州の安倍貞任・宗任討伐に際して戦勝を祈願し、鎌倉の鶴岡と浅草今之津(現在の今戸)に京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりとされ、当初は「今戸八幡」と称した。江戸時代には三代将軍徳川家光により官材を賜り、寛永13年(1636年)に再建されている。1937年(昭和12年)に隣接していた白山神社を合祀し、社名を「今戸神社」に改めた。大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲でいずれも社殿を焼失したが、昭和46年(1971年)11月に氏子・崇敬者の浄財により現在の社殿が造営された。近年は招き猫発祥の地の一つとされるほか、新選組・沖田総司終焉の地との言い伝えも残るが、後者については異説も指摘されている。
仙台東照宮は徳川家康公を祀る神社。開運・勝負運のご利益で知られ、1654年(承応3年)に伊達忠宗公によって創建された由緒ある神社です。
創建年代は不詳。『天照皇大神御天降記』に記される志摩国の元伊勢伝承地・多古志宮の旧跡地とされ、伊勢神宮外宮の流れを汲む度会神道と関わりが深い。奈津の山中に祀られていた三狐神社(現在は神前神社に合祀)を「下の宮」と呼ぶのに対し、当社は「上の宮」と称される。社伝によれば仁治年間(1240年頃)に官符を賜り、興国・慶長・元和の各年間に諸方から寄進があったが、その記録は安政年間の高津波で流失したという。元和5年(1619年)に紀州徳川頼宣が入国した際には神領三石が下され、享保9年(1724年)には参道入口に「禁殺生」の石碑が寄進された。明治8年12月に郷社に列せられ、明治39年には神饌幣帛料供進社に指定された。神職は創始以来、加藤家が世襲している。境内には天竺僧佛哲和尚が植えたと伝わる多羅樹があり、本殿後方には巨大な磐座が残る。
明治3年(1870年)、時の神奈川県知事・井関盛艮の主導で創建された。開港後の急速な近代化・西洋化の中でも横浜の人々が日本の国柄を見失わないようにと、天照皇大神を祀る神殿の建立が計画され、戸部にあった古社を再興して港を一望する丘の上に遷座したものである。遷座時には5日間にわたる盛大な祝祭が行われ、この祭りをきっかけにアイスクリームが世に広まったという逸話も残る。「横浜総鎮守」とされ、かつては例祭日(5月15日)に役所・会社・学校が休みになり市民が祝ったと伝わる。近年は創建150年記念事業が行われた。
伊勢神宮は、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心とする神宮。内宮は天照大御神を祀り、二千年以上の歴史を伝える日本人の心のふるさとと称される。二十年に一度の式年遷宮を通じ、古式の祭祀と社殿造営を継承している。
伊勢神宮 内宮は天照大御神を祀る神社。国家安泰・開運のご利益で知られ、紀元前4年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
伊勢神宮 外宮は豊受大御神を祀る神社。衣食住・産業の守護のご利益で知られ、478年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
播磨国一宮。主祭神の大己貴神は播磨国内を巡歴して国造りを行い、最後に伊和の里で「我が事業は終わった」と仰せられて鎮まったと伝えられ、人々がその神徳を慕って社殿を営んだのが創祀とされる。「我を祀れ」との神託の後、一夜のうちに草木が生い茂り、石の上に二羽の大きな鶴が眠っていた場所に社殿を造営したという伝承があり、創建は成務天皇の甲申年(144)あるいは欽明天皇25年(564)と伝わる。延喜式では明神大社に列し、神階は正一位、明治の社格制度では国幣中社。古来、農工商など産業の神、縁結び・福の神、厄除け・病気平癒・交通安全の神として崇敬されてきた。配祀神は少彦名神・下照姫神。
兵庫県赤穂市の御崎に鎮座する、赤穂市内唯一の延喜式内社。一千年以上前の延喜式神名帳にその名を載せる古社で、主祭神の伊和都比売大神は御崎の地名から「御崎明神」とも称され、朝廷や国司の尊崇を受けたと伝わる。もとは社前沖合の御前岩(八丁岩)の上に祀られていたが、天和3年(1683)に赤穂藩主・浅野長矩が現在地に遷した。海に向かって鳥居が立つ景勝の地にあり、古くから航海安全・大漁祈願の神、また縁結びの神として信仰を集める。境内には恵比須社と金比羅社が祀られている。
『日本書紀』で全国に樹木を植えたと記される五十猛命を祀る「木の神様」の社で、式内名神大社・紀伊国一之宮。文献上の初見は『続日本紀』の文武天皇大宝2年(702年)で、もとは日前神宮・国懸神宮の社地に祀られ、垂仁天皇16年頃に山東(現在の伊太祈曽)へ移り、和銅6年(713年)に現社地へ遷座したと伝わる。旧社地は南東約500メートルの「亥の森」で、今も旧暦10月初亥日に亥の森祭が行われる。『古事記』では大屋毘古神として大国主神の命を救ったと記されることから、「いのち神」「厄難除けの神」としても信仰される。
社伝では崇神天皇5年に神路ヶ岡へ三社が鎮祭されたことに始まると伝える古社。主祭神の保食大神は「稲生の大神」と称され、あらゆる食物、とりわけ稲の稔りを守る神として五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・厄除開運の信仰を集めてきた。平安時代の天長年間には弘法大師が参籠して菩薩堂を建てたと伝え、貞観7年(865年)に従四位下を授けられ、『延喜式』神名帳に載る式内社となった。鎌倉時代には正一位に昇り、文永11年(1274年)には三社それぞれに勅額が下賜された。江戸時代には紀伊徳川家から造営料銀が寄進されて三社の大造営が行われている。明治6年に郷社、明治37年に県社に列した。男神坐像と扁額三面は国の重要文化財。境内は「つつじ山」とも呼ばれ、約5000株の紫つつじが群生する三重県指定名勝である。
伊奈波神社は五十瓊敷入彦命を祀る神社。縁結び・勝負運のご利益で知られ、古墳時代に創建された美濃国三宮の由緒ある神社です。
伊弉諾神宮は、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀る淡路国一宮。国生み神話で淡路島を生んだ伊弉諾尊が余生を過ごした幽宮の旧跡と伝えられる。古くから国生みの島・淡路を象徴する神社として崇敬されてきた。
伊曽乃神社は、天照大神の荒魂と武國凝別命を祀る愛媛県西条市の古社。伊予国第一の大社として皇室の崇敬を受けたと伝わり、西条祭りでも知られる。
創建年代は不詳。『延喜式神名帳』にみえる伊勢国朝明郡の伊賀留我神社とされる式内社で、旧社格は郷社。古くは「斎宮大明神」とも呼ばれ、伊勢神宮との関わりが深い『神鳳鈔』の「鵤御厨」の地に鎮座する。社蔵の古祭文には貞観3年(861年)に六人部津根呂が旧殿を新修したと伝わる。鵤(いかるが)村は江戸時代の寛永年間に南北二村に分かれ、北は桑名藩の茂福村、南は忍藩飛地の羽津村に属したため、伊賀留我神社も両村に並立することになった。当社はその北側・茂福の社で、主祭神は大日孁貴命、大山祇命を配祀する。
延喜式神名帳に名神大社として載る古社で、上野国三宮とされる。地名「伊香保」は『万葉集』の東歌にも詠まれ、承和6年(839)に従五位下を授けられるなど平安時代に神階を進めた。のちに伊香保温泉の守護神として石段街の最上段の現在地に遷り、温泉・医薬の神である大己貴命と少彦名命を祀る。子宝の神としても信仰を集める。例大祭を中心とする9月18〜20日の伊香保まつりでは、本神輿や樽みこしが365段の石段街を練り上がり、温泉街が一年で最も賑わう。
全国に約3万社ある稲荷神社の総本社。711年創建。千本鳥居で有名で、外国人観光客にも人気が高い。稲荷山全体が御神体で、山頂まで約4kmの参道が続く。
伊佐須美神社は伊弉諾尊・伊弉冉尊・大毘古命・建沼河別命を祀る岩代国一之宮・会津総鎮守。延喜式の名神大社に列し、国幣中社を経て、現在も会津を代表する古社として崇敬されています。
住吉大社は底筒男命・中筒男命を祀る神社。航海安全・お祓いのご利益で知られ、211年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
正保3年(1646)6月29日、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)から江戸へ移り住んだ漁民たちと、住吉の社の神職・平岡権大夫好次が奉じてきた分神霊を、この地に祀ったことに始まる。徳川家康と縁の深かった摂津佃の人々は家康の関東下向に従って江戸へ下り、寛永年間に幕府から鉄砲洲の対岸にあたる干潟を与えられて島を築き、故郷にちなんで佃島と名付けた。祀られたのは住吉三神と神功皇后、そして東照御親命すなわち徳川家康である。佃島は江戸湊の入口にあたることから、海運業者や各問屋組合をはじめ多くの人々が海上安全・渡航安全の守り神として信仰を寄せた。その後、月島・勝どき・豊海・晴海と埋め立てが進むにつれ、これらの地域の産土神としても崇敬されるようになった。
社伝では、三韓征伐を終えた神功皇后が帰途に壱岐へ立ち寄り、住吉大神の加護に感謝して現在の郷ノ浦町大浦触に三神を祀ったのが起こりとされ、のちに神託によって現在地へ遷ったと伝える。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、明治4年(1871)5月に国幣中社となって壱岐で唯一の官社となった。現在は神社本庁の別表神社である。大阪の住吉大社、下関・博多の住吉神社と並べて日本四大住吉と称されることもある。明治4年には境内の神池から大陸系12面・和鏡系5面あわせて17面の鏡が見つかり、壱岐市の文化財に指定されている。境内のクスノキも市の天然記念物で、夫婦クスノキを巡ると良縁に恵まれるという言い伝えが残る。毎年12月には国の重要無形民俗文化財である壱岐神楽の締めくくりとして大大神楽が奉納される。
延久3年(1071)、肥後国司の菊池則隆が摂津の住吉宮から分霊を勧請し、海上安全の守護神として創建したと伝わる。以後は菊池氏の手厚い保護を受けたが、戦国期の争乱で社殿を失った。寛文13年(1673)に熊本藩主の細川綱利が現在地へ再建し、以降は藤崎八旛宮・北岡神社とともに細川家歴代が崇敬する肥後三大社の一つに数えられた。藩主の参勤交代の航路や、有明海に生きる地域の海上安全が祈願され、雨乞い祈祷の記録も残る。第4代藩主・細川宣紀が奉納した高灯籠は日本最古の灯台ともいわれ、島原湾を行き交う船の目印として長く役立った。社地は有明海に面した住吉自然公園の中にあり、照葉樹の自然林が神社の杜として守られてきた。
佐久奈度神社は、社伝によれば天智天皇8年(669年)、天智天皇の勅願を受けた中臣金が瀬田川のほとりに祓戸の神々を祀ったことに始まると伝わる。御祭神の瀬織津姫命・速秋津姫命・気吹戸主命・速佐須良姫命は「祓戸四神」と呼ばれ、大祓詞に登場する神々でもあり、罪や穢れを祓い清める神として古くから信仰されてきた。瀬田川の急流があらゆる穢れを押し流す場とされたことから、平安時代には都を守護する「七瀬の祓所」の一つに数えられ、仁寿元年(851年)に名神に列し、延喜式内の名神大社として重んじられた。安土桃山時代から江戸時代にかけては、豊臣家の家臣や膳所藩主からも社領の寄進を受け、「天下の祓所」として崇敬を集めたという。近代には明治9年(1876年)に村社、大正10年(1921年)に県社へ昇格し、昭和39年(1964年)には天ヶ瀬ダムの建設にともない、瀬田川沿いにあった社殿が現在地の高台へと移された。
佐嘉神社は鍋島直正公・鍋島直大公を祀る神社。開運・商売繁盛のご利益で知られ、1884年(明治17年)に創建された由緒ある神社です。
平成10年(1998年)11月の創建。前年の平成9年に地元有志が結成した「佐川龍馬海援隊」が、佐川にも龍馬ゆかりの名所をつくろうと建立した。鎮座地は、坂本龍馬が土佐藩を脱藩した際に沢村惣之丞とともに越えたと伝わる葉山街道の道筋のすぐそばで、急坂の朽木峠にほど近い山中にあたる。芝生の敷かれた龍馬公園の一角に建つ小さな祠で、龍馬にゆかりのある品を御神体として祀る。宗教法人ではなく、例祭は近隣の神社から神職を招いて執り行われている。毎年3月には脱藩の道をたどるウォーキングイベントが催され、当社前が出発地点となっている。
創建年代は不詳ですが、平安時代末期、備中国に赴任した国司が国内すべての神社を巡拝する手間を省くため、国府の近くに国内324社の神々を勧請して祀ったのが始まりと伝えられます。「総社」という地名もこれに由来します。室町時代には細川氏・毛利氏の崇敬を受け、戦火で社殿を焼失したのち正長2年(1429年)に再建。天正年間に再び焼失し、貞享4年(1687年)に再建されると彩色二十四孝の絵馬が奉納され、地元の豪商たちの寄進を集めて栄えました。明治5年(1872年)11月に県社に列格。昭和52年に本殿を焼失しましたが昭和54年に再建されています。境内には長い回廊や出雲式とされる神池・神島、近隣に類を見ない太さのオガタマノキがあり、平成6年には総社(跡)が総社市の重要文化財に指定されました。
元郷氷川神社は、室町後期に岩槻方の武将・平柳蔵人が武蔵国一宮氷川神社を勧請して創建したと伝えられる。平柳領十五か村の本村であった元郷に社を建て、地域の安寧を祈ったことに始まり、数百年にわたり鎮守として崇敬されてきた。
光雲神社は、黒田官兵衛孝高(如水)公と初代福岡藩主・黒田長政公を祀る福岡市中央区西公園の神社。社名は両公の法名から一字ずつを取って名づけられた。
八坂神社は素戔嗚尊・櫛稲田姫命を祀る神社。厄除け・疫病退散のご利益で知られ、656年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
山国川の河口西岸、吹出浜に鎮座する旧県社で、豊前国宇佐八幡宮の末社にあたる。社伝では欽明天皇6年(545年)、神功皇后の託宣を受けて息長大神宮と称して八幡宮が鎮まり、脇殿に住吉宮が祀られたことに始まるという。細男舞・神相撲の神々を祀る古表社の起源は天平16年(744年)と伝える。川を挟んで東に位置する大分県中津市伊藤田の古要神社とは姉妹社の関係にあり、両社はともに宇佐八幡宮の末社として傀儡子(くぐつ)と呼ばれる木製人形の神事を伝えてきた。人形が舞い、相撲を取る「細男舞・神相撲」は国の重要無形民俗文化財に指定されており、4年に一度の放生会で奉納される。豊前地方の海と川に開けた地に、千年以上にわたって信仰が受け継がれてきた社である。
八幡大神社は、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼け出された江戸・神田連雀町の住民が代替地としてこの地を与えられ、連雀新田を開いたことに始まる。名主松井治兵衛ら村役人が幕府に社寺の建立を願い出て、老中松平伊豆守や寺社奉行の検分を経て許可され、社地1万坪・寺地2万坪が除地として定められた。こうして寛文4年(1664年)、村の鎮守として創建されたのが当社であると伝わる。御祭神は応神天皇(誉田別命)。江戸時代には別当寺であった禅林寺の前身・松之坊の隣接地に社殿が営まれ、享保10年(1725年)に改修、弘化元年(1844年)に再建された。明治6年(1873年)の神仏分離により禅林寺から独立して村社に列格し、現在の社殿は昭和40年(1965年)に新築、平成3年(1991年)に現在地へと移された。例祭で渡御する二之宮神輿の鳳凰の目に用いられたダイヤモンドは、1994年版ギネスブックに日本一として掲載されたことでも知られる。
対馬の中心・厳原の清水山麓に鎮座する対馬国一宮の論社で、旧県社。正式な社名は「八幡宮神社」で「厳原」の地名は入らないが、他所の八幡宮と区別するため「厳原八幡宮」とも呼ばれ、楼門にかかる扁額も「八幡宮神社」と記す。社伝では、神功皇后が三韓征伐からの帰途に清水山へ行啓し、神霊の宿る山として山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったのが起こりとされる。677年(天武天皇6年)、天武天皇の勅命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのが創建と伝わる。上県郡の上津八幡宮(現在の海神神社)に対して当社は下津八幡宮と並び称され、戦国時代頃からは府中八幡宮と呼ばれるようになった。1871年(明治4年)に式内名神大社「和多都美神社」に比定されて改称したことがあったが、1890年(明治23年)に元の八幡宮へ戻している。1874年(明治7年)に郷社、1916年(大正5年)に県社へ昇格した。
鳩森八幡神社の創建には、いにしえの瑞祥にまつわる伝承が残る。かつてこの地の森にたびたび瑞雲が現れ、村人が分け入ると多くの白い鳩が西へ飛び立ったといい、この不思議な出来事にちなんで祠が建てられ「鳩森」と名付けられたと伝わる。貞観2年(860年)、関東巡教中の慈覚大師円仁がこの地に立ち寄った際、村民の願いを受けて神功皇后と応神天皇の御尊像を祀り、「正八幡宮」として崇敬されるようになったという。現在も応神天皇・神功皇后の二柱を御祭神とする。社殿は弘化2年(1845年)に上棟した欅造りであったが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、戦後の復興を経て平成5年(1993年)に戦前の姿へと復元された。戦火をくぐり抜けたご神木の銀杏は、今も境内で命をつないでいる。境内には都内最古とされる富士塚(鳩森八幡神社富士塚)や将棋堂もあり、多くの参拝者に親しまれている。
寛弘年間(1004〜12年)に源頼信が石清水八幡宮の神霊を勧請し、霞ヶ関のあたりに創建したと伝わる。太田道灌の江戸城築城に際して現在地へ遷座した。徳川秀忠の正室崇源院が戦勝祈願の報賽として社殿建立を遺し、その意により寛永11年(1634年)に社殿が造営されている。江戸時代には「江戸八所八幡」の一つに数えられ、八八幡詣として多くの参詣を集めて門前町が栄えた。享保8年(1723年)と文化8年(1811年)の火災で被害を受け、昭和20年3月の戦災では社殿を焼失したが昭和28年に復興。平成27年には失われていた御本社神輿を復興し、平成29年に神幸祭を斎行した。令和元年からは「令和の御造替事業」として施設を再建し、令和3年10月29日に本殿遷座祭が斎行された。境内は縄文期の西久保八幡貝塚としても知られる。
延喜式神名帳に越中国新川郡の小社として載る式内社で、旧社格は県社。創建については、孝謙天皇の御代に桜井庄三日市へ勧請されたとする説のほか、東方の嘉例沢の山頂から御幣が飛来し、現れた三体の神像を「三島大明神」として祀ったのが始まりという伝承も伝わる。天正8年(1580年)に、それまで鎮座していた北方約500メートルの萱堂の地から現在地へ遷ったとされる。明治に入るまでは三島大明神と称し、社名が八心大市比古神社に改められた後も、地元では今なお「三島神社」の通称で親しまれている。主祭神は大山祇神・少彦名神・軻遇突智神の三柱で、天照皇大神を合祀する。古くから氏子は鶏を神の使いとして大切にしたと伝えられ、社宝として鶏之図絵馬が伝わる。2月の折年祭、5月の春祭、10月の秋祭、11月の新嘗祭のほか、6月には茅輪神事が営まれる。
船橋市北部の古和釜町に鎮座する神社。古い伝承では平安時代の大同2年(807年)にはすでに社が営まれていたとされ、地元では「八王子さま」と呼ばれて土地の氏神として敬われてきた。祭神は天之忍穂耳尊・天照大神・豊受姫尊・猿田彦尊・倉稲魂尊の五柱で、それぞれ国家安泰、産業振興、商売繁盛などの神徳があるとされる。千葉県の無形民俗文化財に指定される「七年祭り」に加わる神社の一つで、六年に一度、丑年と未年に大神輿を船橋市三山の二宮神社へ渡御させる。当社は祭りのなかで末子の役どころを務め、およそ500年続くこの神事を氏子や崇敬者が支えてきた。境内の社叢は千葉県の郷土環境保全地域に指定されており、市街化が進んだ地域に残る貴重な緑となっている。
雲南市南部、八重滝にほど近い山中の岩壁のくぼみに社殿を構える神社です。社伝では、須佐之男命が斐伊川で八岐大蛇を退けたのち、八重山の岩窟にひそんで人々を苦しめていた魔神を退治し、二度と魔物が住みつかないよう母神の伊邪那美命と姉神の天照大神を岩窟に祀ったのが祭祀の始まりと伝えられます。江戸時代には松江藩主松平直政が社殿の修復に力を注いだと伝わり、以後「一社一例国主守護之社」として松江藩・広瀬藩の祈願所とされました。一方で氏子を持たない社であったため財政に苦しみ、天保2年(1831)に牛馬市の興行を願い出たことをきっかけに、牛馬の守護神として広く信仰されるようになります。現在の社殿は享保19年(1734)の再建と伝えられ、随身門の随神像と狛犬は正徳3年(1713)の坪内平七郎利忠の作です。
六所神社は、崇神天皇の時代に出雲地方から移住した氏族が柳田郷を開き、祖神である櫛稲田姫命・素盞嗚尊・大己貴尊を石神台に祀ったことに始まると伝えられる。古くは柳田大神と称され、相模国府域の信仰を担った。
出雲国府跡に鎮座し、『出雲国風土記』『延喜式』の双方に記載される古社。社伝では元は佐久佐神社と称したとされ、式内社・佐久佐神社の論社にあたる。奈良時代以降は出雲国の総社としての社格を有し、国内の神社へ幣帛を分かつ班幣式や諸祈願は、出雲国中の神主を当社に集めて国司が斎行した。社名の六所は六柱の神を祀ることによるとも、諸社を管理・統括する「録所」に由来するともいわれる。王朝時代から続く古伝の御田饌(みたげ)神事には勅使の参向があり、観応元年(1350年)を境に熊野大納言が代参するようになった。その行列と儀式を描いた壁画は島根県の文化財に指定されている。本殿は大社造で、神紋は出雲大社の古い神紋と同じ二重亀甲に「有」。出雲国造家とゆかりの深い「意宇六社」の一社に数えられ、大正14年(1925年)に県社へ昇格した。
六殿神社は熊本市南区富合町木原に鎮座する、治承2年(1178)創建の古社。阿蘇大明神・天照皇大神など六柱を総称して六殿大明神と祀り、国指定重要文化財の楼門と流鏑馬神事で知られています。
曽我川の右岸の堤に接して境内を構える旧村社。もとは「六所明神」「保田明神」と呼ばれていたが、神殿に六面の神鏡が掛けられていたことから、明治初期に六縣神社と改称された。祭神の六縣命は、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布という大和国の六つの県(あがた)を司る神々とされる。境内は隣接する富貴寺と一体で、神仏習合の名残をとどめる。毎年2月11日の夜に拝殿で行われる御田植神事「子出来おんだ祭」で広く知られ、水見回り・牛使い・施肥・土こなげ・田植・螺拾いの六つの所作に続いて、妊婦(本厄の男性が演じる)が夫のもとへ弁当を運び出産の所作を見せる安産の神事、さらに種蒔きの所作が演じられる。この神事は平成18年(2006)に奈良県の指定文化財となった。
社伝によると、景行天皇58年に皇子・稲背入彦命が大和国穴師の地に八千矛神を祀ったのが始まりとされる。近江国高穴穂宮への遷都に伴い穴太へ遷り、欽明天皇の御代を経て養老2年(718年)、現在の野洲市五条の地に社殿を造営し鎮座したと伝わる。御祭神の八千矛神は大国主神の別名で、手名椎神・足名椎神を配祀する。延喜式神名帳に名神大社として名を連ねる古社で、近江国屈指の格式を誇り、1915年には県社に列せられた。境内の鳥居と楼門は足利尊氏の寄進と伝えられ、平安時代の作庭とされる池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。2018年には鎮座1300年の節目を迎えた。
岡山市北区高松稲荷に所在する日蓮宗の寺院で、正式には最上稲荷山妙教寺と称し、最上尊信仰発祥の地・総本山とされる。寺伝では天平勝宝4年(752年)、報恩大師が孝謙天皇の病気平癒を祈願した際に、白狐に乗った最上位経王大菩薩が背後の山中にある八畳岩へ降臨したと伝える。延暦4年(785年)には桓武天皇の病気平癒祈願が成就し、勅命によって現在地に龍王山神宮寺が建立された。その後、備中高松城の水攻めによって伽藍を焼失したが、慶長6年(1601年)に花房公が日円聖人を招いて復興させた。明治の神仏分離令に際しては特別に神仏習合の祭祀形態が認められたため、鳥居や神宮形式の本殿など、神仏習合時代の姿を数多く今に伝えている。祈祷本尊の最上位経王大菩薩は五穀豊穣・商売繁盛・開運など多くの福徳を備えるとされ、1200年以上にわたって信仰を集めてきた。
富士山から流れ下った剣丸尾溶岩流の突端に鎮座し、祭神は木花咲耶姫命。公式サイトの由緒によれば、延暦12年(793年)に坂上田村麻呂が東征の折、古吉田の地から富士山に戦勝を祈願して大勝し、その神護に感謝して大同2年(807年)に甲斐国都留郡古吉田の森組の地へ草創したと伝える。古い記録では単に「宮」と記され、富士北麓に住む人々の産土大神・鎮守として信仰の中心にあった。のちに周辺へ浅間神社が増えるなかで富士山から下手にあることから「下ノ宮」「冨士山下宮」と呼ばれるようになり、明治に「小室浅間神社」へ改称。昭和32年(1957年)に山梨県で二番目の別表神社に加列された。馬を第一の神使とし、筒粥祭と流鏑馬祭の占いが地域の生活指針となってきたことから、占い・お神籤を司る神としても知られる。
但馬国一宮で、地元では「いっきゅうさん」とも呼ばれる。祭神は、朝鮮半島から渡来したと伝わる天日槍命と、天日槍がもたらしたとされる八種の宝を祀る伊豆志八前大神で、天日槍と八種の宝は『古事記』『日本書紀』にも記されている。天日槍命は、泥の海だった但馬で円山川河口の瀬戸と津居山の間の岩山を切り開き、濁流を日本海へ流して今の但馬平野を生み出したと伝えられ、治水や産業を興した神として崇敬されてきた。現在の社殿は大正3年(1914)の再建で、三間社流造の本殿、舞殿形式で入母屋造の拝殿、丹塗りの八脚門の神門が並ぶ。国光作の脇差(国指定重要文化財)や条里制の古地図が伝わり、境内北東隅には約600坪の禁足地があって、今も草木を刈ることが許されていない。
出羽三山神社は月読命・大山祇命を祀る神社。家内安全・商売繁盛のご利益で知られ、593年(推古天皇元年)伝承に創建された由緒ある神社です。
出羽三山のひとつ羽黒山の山頂に鎮座する。崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が593年に開山したと伝えられる。山頂の三神合祭殿は月山神社・出羽神社・湯殿山神社の三神を併せて祀る社殿で、現在の建物は文政元年(1818)の再建、平成12年(2000)に国の重要文化財に指定された。冬季に参拝できない月山・湯殿山の里宮の役割も担い、三山を巡る参拝は「生まれかわりの旅」と称される。山麓の杉並木の参道には国宝の五重塔が建ち、羽黒派古修験道の中心地として栄えた歴史を持つ。
出雲大社は大国主大神を祀る神社。縁結び・商売繁盛のご利益で知られ、神代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
出雲大社大阪分祠は、島根県の出雲大社から分祠された神社で、昭和21年(1946年)春、初代教主・吉村亀治によって創建された。亀治の祖父は大峰山の修験道場・龍泉寺の住職を務めた人物で、亀治自身も修験道と深いつながりを持っていたと伝わる。池田市五月山の愛宕神社に関わりのあった内海敏勝から、火之迦具土神(愛宕大権現)の教えを広めるよう託されたことが創建の契機になったとされ、当初は愛宕大権現を祀る河内分社として出発した。昭和23年(1948年)に島根の出雲大社から大国主命の御分霊を拝受し、昭和33年(1958年)に現在の「出雲大社大阪分祠」の名称に改めた。御祭神は大國主命・火之迦具土神・武甕槌大神の三柱で、縁結びの神として親しまれている。
出雲大神宮は、丹波国一宮として崇敬される古社。大国主命と三穂津姫命を主祭神とし、社伝では出雲信仰と深く関わる元出雲の社として伝えられている。御蔭山を神体山とし、古くから縁結び・長寿・金運の信仰を集めてきた。
函館八幡宮は品陀和気命・住吉大神を祀る神社。厄除け・航海安全のご利益で知られ、1445年(文安2年)に創建された由緒ある神社です。
祭神は大山積大神。愛媛県神社庁の由緒によれば、和銅5年(712年)に大領・越智玉澄が伊予国一ノ宮である大三島の大山祇神社の地御前として勧請創建し、その別宮として社殿以下の建造物が本社に劣らぬ壮観であったと『豫陽盛衰記』に記されるという。元亨2年(1322年)の兵乱、昭和20年の空襲と再三の災火に遭いながらも、「別宮さん」として今治の人々の崇敬を集めて現在に至る。拝殿は天正3年(1575年)に来島城主・村上通総が再建したもので、当地方唯一の純和様の神社建築として愛媛県指定有形文化財となっている。隣接する四国八十八ヶ所55番札所・南光坊はもと当社の供僧八坊の一つで、両所を合わせて参る習わしが伝わる。境内の大楠は樹齢350年以上と推定されている。
前鳥神社の社名は、平安以前の地名「さきとり」に由来するとされる。奈良時代の天平7年(735)の記録に大住郡埼取郷が見え、畿内から移り住んだ氏人が御祭神の遺徳を偲び、清浄な地に祀ったことが始まりと考えられている。
劔神社は素盞嗚大神を祀る越前二の宮。奈良時代より祈願の霊場として尊ばれ、織田信長公が氏神として崇敬した社としても知られる。
加藤清正を主祭神とし、清正に殉じた家臣の大木兼能と韓人金宦(良甫鑑)を相殿に祀る。慶応4年(1868)、熊本藩主細川韶邦の弟・長岡護美の建議により、本妙寺にある清正の廟所「浄池廟」を神道式で守るよう朝廷から命じられたのが始まり。神仏分離令の後、明治4年(1871)に熊本城内に社を建てて錦山神社と称したが、城内に熊本鎮台が置かれたため明治7年に京町台へ遷り、西南戦争で失った社殿を明治19年に再建した。明治42年(1909)、清正公三百年祭を機に加藤神社へ改称。昭和37年(1962)に念願の熊本城内への遷座を果たし、櫨方会所跡の現社地に鎮まる。令和7年には熊本地震からの復興を兼ねた「令和の大造営」を終えている。
北口本宮冨士浅間神社は木花開耶姫命・天孫彦火瓊瓊杵尊を祀る神社。安産・火防のご利益で知られ、110年(景行天皇40年)伝承に創建された由緒ある神社です。
北海道神宮は大国魂神・大那牟遅神を祀る神社。開運・金運のご利益で知られ、1869年(明治2年)に創建された由緒ある神社です。
北野天満宮は菅原道真公を祀る神社。学業成就・厄除祈願のご利益で知られ、947年(天暦元年)に創建された由緒ある神社です。
社伝では景行天皇40年、日本武尊が東征の折に天神の櫛玉饒速日命と地祇の八千矛命を祀ったのが始まりとされ、物部天神社・國渭地祇神社として延喜式神名帳に載る古社(登記上の法人名は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社で、北野天神社はその総称)。長徳元年(995)には菅公五世の孫・武蔵国司菅原修成が勅命を奉じ、京都の北野天満宮から菅原道真公の分霊を関東以東で最初に勧請して「坂東第一北野天満宮」と称し、これが「北野」の地名の由来と伝わる。源頼義・義家が社殿を建立、建久6年(1195)には源頼朝が諸神堂を建立したほか、天正18年の前田利家による再興、徳川家康以降の歴代将軍からの朱印状拝領など武家の崇敬が厚かった。明治34年(1901)、埼玉県でも有数の古社であることから県社に列格。室町時代の「北野天神縁起」7幅は埼玉県指定文化財。
承応3年(1654年)の創建と伝わる、菅原道真を祀る天神社です。尾張平野の北部にあたる江南市北野町に鎮座し、学業成就や合格祈願を願う人々の信仰を集めてきました。常駐の神職を置かない無住の神社ですが、1月と2月の日曜日、および毎月25日の月次祭には合格祈願などの祈祷が行われます。この神社を広く知らせているのが、昭和39年(1964年)に始まった筆まつりです。毎年1月中旬に行われ、長さ約4メートル、重さ約50キログラムの大筆を、厄年の男性と新入学児が御所車に載せて神社まで曳き回す大筆奉納行列が最大の見どころとなっています。境内にある石造りの大筆に願いを書くと字が上達するといわれ、書道や学業の上達を願う参拝者が訪れます。
万治元年(1658年)、松前藩の史料『福山秘府』に記録される弁天堂の建立を発祥とする。享和3年(1803年)、樺太南部探検に功績のあった役人が思古津(シコツ)場所の守護神として京都伏見から正一位思古津稲荷大明神を奉斎し、文化2年(1805年)には鮭漁の隆盛に伴い弁財天が勧請された。同じ頃、箱館奉行が「鶴は千年」の故事にちなみ「死骨(シコツ)」を「千歳」と改めたと伝わる。明治8年(1875年)に主祭神を豊宇気比売神と定めて郷社に列し、大正6年(1917年)に千歳神社と改称。昭和51年(1976年)に現社殿が造営された。
千葉神社は、平安時代に関東を治めた武将・平良文が妙見菩薩(北斗妙見)に篤く祈願し、戦のたびに加護を得たと伝わることに始まる。良文を祖とする千葉氏の三代目・平忠常が、長保2年(1000年)に香取山の一画に妙見の分霊を祀る祠を建て、「北斗山金剛授寺」として中興したのが起源とされる。第66代一条天皇が眼病平癒を祈願したところ回復したとの言い伝えから、勅願所として綸旨と寺号を賜ったという。千葉氏と縁の深い源頼朝は自筆の願文や太刀を奉納して武運を祈り、日蓮上人も参籠して妙見を法華経守護の神と讃えたと伝わる。徳川家康も篤く崇敬し、社領二百石を寄進するとともに、十万石の大名に準じる格式を与えたとされる。明治2年(1869年)の神仏分離令により、長く続く妙見大祭の神輿渡御の様式を保つため「千葉神社」と改称し、今日に至る。
南宮大社は金山彦命を祀る神社。金運・金属業守護のご利益で知られ、神代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
南洋神社は、日本の委任統治領であった南洋群島(現在のパラオ共和国などに相当)の行政庁所在地コロールに、群島全体の総鎮守として創建された神社である。1922年に南洋庁による統治が始まって以降、各地に民間有志の手による神社が建てられていたが、庁所在地のコロールには社が無かったため、紀元二千六百年記念事業の一環として1937年から用地選定が進められ、コロール島郊外のアルミズ高地に鎮座地が定められた。1938年から約2年をかけて社殿の造営が行われ、1940年2月には主祭神を天照大神とし、社格を官幣大社とすることが定められた。同年11月1日、勅使を迎えて鎮座祭が執り行われた。しかし太平洋戦争の終結にともない、1945年9月に社殿は焼却され、翌1946年1月には御霊代が宮内省へ遷され、神社としての歴史に幕を閉じた。跡地には1997年に日本の民間団体の手で小さな祠が設けられたが、御神体は宮内省へ遷されたままであり、神道上は先の官幣大社と連続性を持たないとされる。
厳島神社は宗像三女神を祀る神社。海上安全・交通安全のご利益で知られ、593年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
吉備津彦神社は大吉備津彦命を祀る神社。厄除け・五穀豊穣のご利益で知られ、推古天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
吉備津神社は大吉備津彦大神を祀る神社。安産・長寿のご利益で知られ、仁徳天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
創建年代は不詳だが、水の分配を司る天之水分大神を主祭神に、玉依姫命(神像は国宝)以下の神々を祀る古社。「子守宮(こもりのみや)」とも呼ばれ、子授け・安産・子どもの守護神として篤く信仰されてきた。豊臣秀吉が子授けを祈願して秀頼を授かったと伝わり、現在の社殿はその秀頼が慶長9年(1604年)に再建したもの。桃山様式の三殿一棟造の本殿をはじめ幣殿・拝殿・楼門・回廊は国の重要文化財に指定されている。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の霊場「吉野・大峯」の構成資産の一つ。
紀州の熊野三山を模して名取の高舘丘陵に勧請された、熊野本宮社・熊野神社(新宮社)・熊野那智神社の三社をまとめた呼称です。保安年間(1120〜1124年)に熊野信仰を篤くした「名取老女」が勧請したと伝えられ、熊野那智神社は保安4年(1123年)に那智の分霊を合祀して社名を改めたとされます。仙台湾を熊野灘に、名取川を熊野川に、高舘丘陵を熊野の山並みに見立てて三社を配した地理的な対応関係が特徴です。中世以降は伊達氏の崇敬を受け、永正11年(1514年)の伊達稙宗以降、歴代当主と仙台藩主から寄進や奉納を重ねて受けました。三社の中心となった熊野神社の本殿は熊野造の特徴を持つ宮城県指定有形文化財で、春秋の例祭に奉納される熊野堂神楽・熊野堂舞楽は宮城県指定無形民俗文化財です。
名古屋八幡宮は応神天皇・神功皇后を祀る神社。厄除け・勝負運のご利益で知られ、平安時代に創建された由緒ある神社です。
名古屋東照宮は徳川家康公を祀る神社。開運・勝負運のご利益で知られ、1619年(元和5年)に創建された由緒ある神社です。
愛媛県宇和島市和霊町に鎮座し、宇和島藩祖・伊達秀宗の家老を務めた山家清兵衛公頼命を主祭神とし、その子の治郎・丹治・美濃、家従の塩谷内匠とその子の帯刀・勘太郎を配祀する。清兵衛公は、宇和島十万石を賜った若い秀宗を案じた伊達政宗が、自らの信頼する家臣として家老に抜擢し随伴させた人物である。相次ぐ戦乱と領主の悪政で疲弊していた宇和島において、藩費の節約、租税の軽減、産業の奨励、武備の充実などを逐次進め、民生を安定させて藩政を大きく刷新した。その徳望が生き神のごとく仰がれた一方で一部の藩士の反感を買い、元和6年(1620年)6月29日夜に凶刃に倒れる。のち藩主・藩士から領民に至るまでその御霊を慰めようと小祠を建て、承応2年(1653年)6月23・24日に朝廷の承認を経て山頼和霊神社として正式に祀られた。昭和20年7月28日の宇和島空襲で社殿を焼失したが、昭和26年に本殿が再建され、日本各地の和霊信仰の総本社として崇敬を集めている。
文治3年(1187)、源頼朝が安房国の洲崎明神から天比理乃咩命を勧請し、海上交通の安全と祈願成就を祈ったのが創始と伝えられる。元応元年(1319)に二階堂道蘊が宇賀之売命を、文明10年(1478)に太田道灌が素盞嗚尊を合わせ祀り、現在の三柱となった。慶長5年(1600)には徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣する前に参拝して戦勝を祈願し、寛永14年(1637)に徳川家光が東海寺を建立した際には当社がその鎮守と定められて幕府の厚い庇護を受けた。明治元年(1868)には明治天皇の思召により准勅祭社の一社に定められ、現在は東京十社のひとつに数えられる。社殿は元禄7年と嘉永3年の焼失後、いずれも時の将軍の命で再建され、昭和39年(1964)に現在の社殿が再建。令和2年(2020)には天皇陛下の御即位を奉祝して社殿の修復が行われた。
栃木県佐野市の唐沢山山頂、唐沢山城の本丸跡に鎮座し、平安時代の武将・藤原秀郷公を祀る。秀郷公は延長5年(927年)に下野国の押領使に任じられて父祖伝来のこの地に入り、唐沢山に城を築いて治めたと伝わる。天慶3年(940年)には平貞盛と力を合わせて平将門を討ち(天慶の乱)、その功により下野守に進んで武蔵守も兼ねた。以後およそ700年にわたり子孫の佐野氏が城主を務めたが、慶長年間に居城を春日岡へ移し、慶長19年(1614年)に佐野信吉が改易となって大名家としては断絶した。明治13年(1880年)、子孫の佐野氏と旧臣が秀郷公の遺徳を顕彰するため沢英社・東明会を組織し、明治16年(1883年)に古城本丸跡へ社殿を創建、同年10月25日に御霊を奉斎した。明治23年(1890年)12月1日に別格官幣社に列せられ、以後この地方の守護神として崇敬されている。
善知鳥神社は宗像三女神(多紀理毘売命・市寸島比売命を祀る神社。交通安全・海上安全のご利益で知られ、大同年間(806年 - 810年)に創建された由緒ある神社です。
主祭神は南北朝時代の武将・楠木正行で、正平3年(1348)の四條畷の戦いで正行とともに殉じた一族・将士24柱を配祀する。正行は楠木正成の嫡男で、「小楠公」とも呼ばれる。伝えによれば、正行は吉野で後村上天皇に拝謁したのち、如意輪堂に一族の名と辞世の歌を記して出陣し、高師直の軍と戦って弟の正時と刺し違え、23歳で没した。明治に入り、住吉平田神社の神主・三牧文吾らがこの地に神社の創建を願い出て、明治22年(1889)に勅許と社号が下された。地元の人々は境内地や金品を寄進し、土運びや石積みにも奉仕して、明治23年4月5日に鎮座祭が行われた。飯盛山の麓に鎮座し、山頂には出陣する姿の正行の銅像が立つ。
土佐国一之宮の土佐神社は味鋤高彦根神・一言主神を祀る神社。縁結び・国家安泰のご利益で知られ、崇神天皇の時代に創建された由緒ある神社です。
土佐神社は味鋤高彦根神・一言主神を祀る神社。家内安全・事業守護のご利益で知られ、不明(日本書紀に記録あり)に創建された由緒ある神社です。
会津藩初代藩主・保科正之公を祀る神社。正之公は二代将軍徳川秀忠の子(家光の異母弟)で、家光・家綱を補佐し、文治政治への転換を進めて会津藩政の基礎を築いた。寛文11年(1671)に神道家・吉川惟足から霊号「土津」を奉られ、寛文12年(1672)に自ら猪苗代の見禰山を墓所と定めて同年12月に江戸で没し、遺言により当地に葬られた。延宝3年(1675)に社殿が落成し、その荘厳さは「東北の日光」と称されたが、戊辰戦争で焼失。明治13年(1880)に再建されたのが現在の社殿である。こどもと出世の神として信仰される。
滋賀県米原市宇賀野に鎮座し、内宮に天照皇大神、外宮に豊受毘売命を祀る。社伝によれば垂仁天皇8年、天照大神を淡海の甲可日雲宮からこの地へ遷して2年間奉斎したとされ、その御分霊を祀る旧社として古くは坂田宮・坂田大神宮とも称され、坂田郡の総社として信仰を集めた。大神の鎮座地を求めて諸国を巡った倭姫命の神徳を偲び、倭姫命を祀ったことが当宮の起源とも伝えられる。江戸時代には彦根藩井伊家の崇敬が篤く、享保18年(1733)に藩主井伊直惟が社殿を造営して神殿を寄進、以後も社殿修復の費用が献じられ、奥方からは鏡・絵馬・石燈籠などが奉献された。明治14年(1881)に郷社、昭和20年(1945)に県社へ列した。社宝として後陽成天皇宸筆の御神号懸軸(重要文化財)を伝える。
社伝によれば、金津城築城の際に地中から男女二体の神像が掘り出され、城中に伊邪那岐尊・伊邪那美尊として祀って「堀出大神」と奉称したのに始まる。のちに新津氏がこの御神体を受け継いで新津城内の守護神とし、天正元年(1573)に現在地へ社殿を建立して遷座したと伝わる。以来、新津総鎮護として崇敬を集め、8月の例大祭は「にいつ夏まつり」として万灯みこしや祭屋台が町を練り歩く新津最大の祭りとなっている。
寛文3年(1663年)8月13日、前浜村と平磯村の境界をめぐる争いの折、路上の吹きはげた場所に備前焼の忌垣に囲まれた窪みが見つかり、掘ったところ石室が現れて刀・槍・鉾・矢などが出土したと伝えられます。これらは水戸城へ送られ「磯前明神の本体」と判断されました。地元の願いを受けて岡見吉為が小社を建て、のちに寺社奉行の取り計らいで藩の許可を得て社殿が造営され、寛文11年(1671年)8月13日に遷宮式が行われました。掘り出された御神体にちなむ社名で、学問・厄除けの八幡さまとして信仰されてきました。令和元年(2019年)には境内に黄金の鳥居が連なる「ほしいも神社」が創建され、参拝者を集めています。
報徳二宮神社は、二宮尊徳翁を祀る小田原城址の神社。明治27年(1894)に尊徳翁の遺徳をたたえて創建され、明治42年に本殿・幣殿を新築し、拝殿改築と神苑整備で現在の社地景観を整えた。平成6年には創建百年記念奉告祭を斎行した。
八代城下の西方に鎮座する八幡宮。寛永9年(1632年)、八代城に隠居した細川忠興(三斎)が、かねて崇敬していた豊前の宇佐神宮から分霊を勧請して創建したと伝わる。明暦元年(1655年)、八代城主松井興長が現在地へ社殿を移し、八代城下西域を守る鎮守と定めた。以来、塩屋町の氏神として町人の信仰を集めてきた。九州三大祭のひとつに数えられる八代神社(妙見宮)の妙見祭では、当宮が神幸行列の御旅所となる。11月22日に神輿が妙見宮から「お下り」して当宮に泊まり、翌23日の早朝、当宮を起点に「お上り」の行列が妙見宮へ向けて出発する。祭りの二日間、八代の町の中心となる社である。
壺井八幡宮は、寛仁4年(1020)に源頼信が河内国司としてこの地に館を構えたことに始まる。その子・頼義は康平7年(1064)5月15日、前九年の役から凱旋したのち、京都の石清水八幡宮の神霊を私邸東側に勧請して社殿を建立した。これが壺井八幡宮の起源であり、頼信・頼義・義家の三代がこの地に住んだことから、河内源氏の氏神として崇敬されるようになった。天仁2年(1109)には義家の六男・源義時が摂社壺井権現社を創建し、頼信・頼義・義家の霊を祀っている。壺井権現社は京都の六孫王神社、川西市の多田神社と並び「源氏三神社」の一つに数えられる。本殿は度重なる兵火で焼失し、現在の社殿は元禄14年(1701)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したものである。境内には源義家着用と伝わる黒韋威胴丸や僧形八幡神像(いずれも国指定重要文化財)、天光丸の太刀(重要美術品)、源氏の白旗のほか、樹齢1000年ともいわれる大楠が伝わる。
多度大社は天津彦根命を祀る神社。雨乞い・厄除けのご利益で知られ、雄略天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
西暦580年頃の創建と伝えられる和泉国大鳥郡の延喜式内社二十四座のひとつ。主祭神の多治速比売命は女神で、厄除・安産・縁結びの神として崇敬が篤く、本殿には素盞嗚尊と菅原道真公も合わせ祀られている。現在の本殿は天井裏の墨書や棟札から天文10年(1541)の再建と分かる室町時代の建造物で、龍・雲・波・海藻・貝類などの精緻な彫刻で知られ、昭和24年(1949)に国の重要文化財に指定された。境内には坂上社・鴨田社など多数の末社があり、あわせて荒山宮(こうぜんのみや)と呼ばれる。昭和38年(1963)の泉北ニュータウン造成に伴い境内が整備され、神社周辺は堺市の荒山公園として約50品種・約1,100本の梅林が広がる梅の名所となっている。
多田神社は、清和源氏発祥の地とされる多田院の旧跡に鎮座し、源満仲公をはじめ源氏の祖を祀る神社。武家源氏の崇敬を受け、江戸時代には徳川家からも篤く保護された。現在も源氏ゆかりの社として知られる。
多賀大社は伊邪那岐大神・伊邪那美大神を祀る神社。延命長寿・縁結びのご利益で知られ、神代(古事記等)に創建された由緒ある神社です。
天慶元年(938)、武蔵介に任ぜられた源経基が国土豊穣・万世安穏を祈願するため、近江の多賀大社から分祀し勧請したと伝わる。文応元年(1260)には北条時頼が巡行の折にこの地で病に倒れ、古鏡を奉納して祈願したところ治癒したことから、社領七反歩を寄進して祈願所としたという。祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊の夫婦神で、良縁成就や子孫繁栄などの御神徳で知られる。明治26年(1893)に郷社へ昇格。新選組(甲陽鎮撫隊)解散の地としても知られ、境内には樹齢400年余の大銀杏の御神木がそびえる。8月の例大祭は八幡・八雲神社の「下の祭」に対して「上の祭」の別名で親しまれ、八王子まつりでの渡御で有名な宮神輿「千貫神輿」(市指定有形文化財)を有する。
奈良市東部の大柳生に鎮座する氏神で、旧県社。『延喜式』神名帳の大和国添上郡に「夜支布山口神社」(大社、月次・新嘗)として記され、宮殿造営の御料林を伐り出す山の口に坐す神を祀った大和十三山口神社の一つに数えられる。『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)に従五位下、『日本三代実録』貞観元年(859年)に正五位上を授けられ、同年には風雨を祈って幣帛が奉られた。社名は養布・養父とも表記され、俗に高野宮・天王社とも呼ばれた。もとは南方約600メートルの上出集落に鎮座していたが、中世に巨石を神体とする立磐神社の境内へ遷ったと伝わる。摂社・立磐神社の本殿は、春日大社本社本殿の第四殿を延享4年(1747年)7月に移築したもので、国の重要文化財に指定されている。現在の祭神は素盞嗚命とされるが、山口神の性格から本来は大山祇命を祀ったとする説もある。
大分八幡宮は応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祀る福岡県飯塚市の古社。神亀3年(726)の創祀と伝え、筥崎宮の元宮とされる。
栃木県真岡市の延喜式内社・大前神社の若宮社(別宮)で、平成元年(1989年)12月9日に本社から事代主神の御神霊を分ける分祀祭、翌10日に鎮座奉祝祭を斎行して成った社である。御祭神は恵比寿様こと事代主神で、大前神社の主祭神である大国主神(大国様)の御子神にあたる。親子で産業発展の礎を築いた神とされ、大前神社の大国様とあわせて「二福神」と称される。境内には大谷石造りの台座に立つ巨大なえびす像がそびえ、高さ20メートルで「日本一えびす様」と呼ばれる。金運招福・商売繁盛・健康長寿・災難厄除の神徳で知られ、宝くじの当選や商売の成就を願う参拝者が全国から訪れる。境内には回遊式日本庭園「五行神水園」と五行福銭水、幸せの黄金釜、おもかるコイ石などが設けられている。
1500年余りの歴史を持つと伝わる延喜式内の古社。神護景雲元年(767)に社殿が再建され(ご造替の初見)、延喜5年(905)に「延喜式」の式内社に選上された。御祭神は大己貴大神(だいこく様)と御子神の事代主大神(えびす様)の親子二柱で、開運招福・縁結び・商売繁盛の神として信仰される。平将門が戦勝を祈願したと伝わり、江戸時代には二宮尊徳が当社のみそぎ所に籠もって大前堰を改修した事業でも知られる。極彩色の彫刻で飾られた本殿・拝殿及び幣殿は国の重要文化財。境内には「日本一えびす様」と呼ばれる高さ20mのえびす像が立ち、宝くじ当選祈願の神社としても名高い。
延暦3年(784年)、桓武天皇の長岡京遷都に際し、藤原氏の氏神である奈良・春日大社の神々を小塩山の東麓のこの地に祀ったのが始まりとされ、「京春日」の別称をもつ。平安京へ遷都した後も朝廷の崇敬は続き、国家の大事に奉幣を受ける二十二社の一つに数えられた。嘉祥3年(850年)には、藤原冬嗣を祖父にもつ文徳天皇が社殿を造営し、翌仁寿元年(851年)に初めて勅祭が行われて、春秋二季の祭典が定められた。藤原氏の娘が后妃となるよう祈る社でもあり、寛弘2年(1005年)には中宮彰子が父・藤原道長や紫式部らを伴って参詣したと伝わる。本殿四殿に建御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比賣大神を祀り、紫式部の氏神の社としても知られる。
大和神社は、日本大国魂大神・八千戈大神・御年大神を祀る大和の古社。古代から朝廷の祭祀に関わり、国家鎮護の神として崇敬された。戦艦大和ゆかりの社としても知られ、現在も大和国の古い信仰を伝えている。
滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座し、大己貴神を主祭神とする神社。火産霊神・豊受大神・天児屋根命・小毘古神・菅原道真公を配祀する。社伝によると慶応4年(1868年)までは山王大権現と称し、その後に大國主神社と改号した。勧請の年代は不詳だが、天授6年(1380年)に田井から現在地へ遷座したと伝える。永正8年(1511年)の「御宮年中行事」には、4月初申日に上郷・下郷によって例祭が行われた旨が記されている。延宝年間には甲府宰相から東西32間・南方143間の土地が寄進された。貞享年間の明細帳では境内社が7社あったが、慶応4年の山崩れで5社となり、さらに大正元年(1912年)にすべて天神社へ合祀された。明治9年(1876年)からは例祭を5月12日と定め、午前に祭典、午後に神輿渡御と流鏑馬・走馬の奉納が行われた。神輿は応永元年(1394年)に3基が寄進されたと伝える。
大國魂神社は大國魂大神を祀る神社。厄除け・縁結びのご利益で知られ、111年(景行天皇41年)伝承に創建された由緒ある神社です。
地元では「山王神社」「山王さん」と呼ばれ、氏神として親しまれています。奈良時代に能登国守の守護神として、近江国の日吉大社(山王社の総本宮)から分霊を迎えて創建されたと伝わり、古くは加夫比古神社と称したともいわれます。室町時代には七尾城主の畠山氏が祈祷所とし、寛永12年(1635)には祇園牛頭天王社が鍛冶町から山王社の地へ移されました。明治15年(1882)に山王社と天王社が統合されて現在の社名となりました。御祭神は大山咋神・素盞嗚尊・伊許保止命の三柱です。拝殿は大正2年の建築で、創建1300年を迎えた平成30年(2018)には、日吉大社の山王鳥居を参考にした二の鳥居が再建されました。
康平6年(1063)、源頼義が前九年の役平定の途上、大空に八条の白雲がたなびくのを八幡大神の加護の瑞兆と感じ、乱の平定後に京都・石清水八幡宮から分霊を勧請して創建したと伝わる。子の八幡太郎義家も後三年の役ののち社殿を修築し、千本の若松を植えたと伝えられる。かつて「武蔵国八幡一之宮」と称された。昭和44年(1969)には境内から弥生時代の祭祀遺跡が発掘され、太古からの聖域であることが確認された。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。「東京のへそ」とも呼ばれ、安産・子育て厄除けの信仰を集める。
大宮氷川神社は素戔嗚尊・奇稲田姫命を祀る神社。縁結び・家内安全のご利益で知られ、紀元前473年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
大山祇神社は大山積神を祀る神社。海の守護・戦勝祈願のご利益で知られ、推古天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
大山(標高1252m)の山頂と中腹に社殿を持つ神社。雨降り山(あふりやま)とも呼ばれ、雨乞いの神として農民に信仰された。江戸時代には「大山詣り」が盛んで、多くの参拝者が訪れた。
大崎八幡宮は応神天皇・仲哀天皇を祀る神社。厄除け・必勝祈願のご利益で知られ、1607年(慶長12年)に創建された由緒ある神社です。
大御神社は天照大御神を祀る「日向のお伊勢さま」。神武天皇が東征の際に参拝し、武運長久と航海安全を祈願したと伝わる神社です。
神護景雲元年(767)の創建と伝わり、疫病が流行した際に僧・勝道が巨杉を神籬として三輪明神を祀ったという伝承をもつ。主祭神は倭大物主櫛甕玉大神で、仁治2年(1241)に京都・今宮神社から大己貴命と少彦名命を勧請合祀した。「あんばさま」の愛称で親しまれる、関東・東北に分布する大杉神社の総本宮。厄除け・八方除けの祈祷で知られ、享保10年(1725)に始まった「あんば囃子」は関東一円に広まり、国の選択無形民俗文化財となっている。豪華な社殿群から「茨城の日光東照宮」とも称される。
三重県伊賀市阿保に鎮座する式内社。主祭神の大村の神は第11代垂仁天皇の皇子・息速別命で、『古事記』『日本書紀』には伊許婆夜和気命、池速別命と記される。伊勢の神宮を奉鎮した倭姫命の弟にあたり、この地に宮室を築いて一帯を開拓した神として、また土地の鎮め・地震除災の守り神として古くから信仰を集めてきた。『日本三代実録』には863年に神階が正六位上から従五位下へ昇叙されたとあり、『延喜式』神名帳(927年)にも社名が載る。相殿の武甕槌命・経津主命は、神護景雲元年(767年)に常陸・下総から奈良の三笠山へ遷る途次に当社で休息し、その際に霊石「要石」が奉斎されたと伝える。要石は地下深くまで広がって大地を揺るがす大なまずを押さえているという。天正15年(1587年)建立の旧本殿「宝殿」は国の重要文化財。
大阪府羽曳野市高鷲に鎮座し、素盞嗚尊・奇稲田姫命・天日鷲命を祀る。延長5年(927)にまとめられた『延喜式』に「大津神社」と明記された式内社で、「丹下の郷の大宮」「河内の大宮」と称えられた。応神天皇の頃、難波と大和を結ぶ要路にあたるこの地には渡来系の葛井氏・船氏・津氏が勢力を張っており、そのうち津氏一族がこの地を「大宮山」と称して守護神を奉斎したのが創祀と伝えられる。津氏が朝廷に召されて大和へ移った後は、周辺九か村の氏神として受け継がれた。仏教の隆盛に伴い本地垂迹説に基づいて「午頭天王社」と称し、宮寺・大宮山南之坊が置かれて神仏混淆となり、「北宮の午頭さん」と親しまれた。明治5年(1872)に村社に列格して大津神社に復し、現在は羽曳野市西部・南西部の氏神として信仰されている。配祀神は大山咋命と菅原道真公。
兵庫県赤穂市、旧赤穂城内の大石内蔵助屋敷跡に鎮座する神社。明治天皇の宣旨を契機として明治33年(1900年)に神社創立が公許されたが、造営資金が集まらず着工は明治43年(1910年)にずれこみ、大正元年(1912年)11月に四十七義士命を祀る神社として鎮座した。主祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と、討ち入り前に自刃した中折の烈士・萱野三平命。あわせて赤穂藩主浅野長直・長友・長矩の三代と、その後に赤穂を治めた森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀する。大石邸庭園には、元禄7年(1694年)に大石内蔵助が笠間から勧請したと伝える大石稲荷社が鎮座する。かつて藩民の信仰を集めた七つの古社は平成12年(2000年)に境内社合祀殿へまとめられ、山鹿素行命を祀る山鹿社や天満宮、八田社などが並ぶ。大願成就の神として広く信仰を集めている。
三輪山を御神体とする日本最古の神社のひとつ。本殿を持たず、拝殿から三輪山を直接拝む形式をとる。大物主大神を祀り、酒造りの神としても知られる。創建は有史以前とされる。
大荒比古神社・鞆結神社は、滋賀県高島市マキノ町浦に鎮座する、大荒比古神社と鞆結神社の二社を合わせ祀る神社である。社伝によれば仲哀天皇の時代に創建されたと伝わり、のちにこの一帯を指す鞆結郷の総社として崇敬を集めてきた。大荒比古神社には豊城入彦命・大荒田別命・大己貴命・須勢理姫命が祀られ、須佐男命と菅原道真公が配祀されている。一方の鞆結神社の主祭神は誉田別命(応神天皇)である。両社はともに平安時代の延喜式神名帳に記載された式内社の有力な比定先(論社)の一つとされるが、いずれも他に論社があり確定はしていない。明治9年(1876年)には郷社に列せられた。神紋には「鍬形」が用いられている。
大阪天満宮は菅原道真公を祀る神社。学業成就・厄除けのご利益で知られ、949年(天暦3年)に創建された由緒ある神社です。
大鳥大社は延長5年(927年)完成の延喜式神名帳に「名神大社」として記載された古社で、和泉国の一宮に数えられる。祭神の日本武尊は東国平定などの功をなした後、伊勢国能褒野で没し、その御霊は白鳥となって大和・河内を経て最後にこの地へ舞い降りたと伝わり、これが創建の由来とされる。境内の「千種の杜」は、白鳥が舞い降りた際に一夜にして木々が生い茂ったという伝承にちなむ名である。相殿には大鳥氏の祖神と伝わる大鳥連祖神も祀られている。清和天皇の代に従三位に叙せられ、のちに正一位へ昇階するなど朝廷からも篤く崇敬され、平清盛・重盛父子が和歌と名馬を奉納したほか、織田・豊臣・徳川の歴代武将も社領の寄進や社殿造営を行った。社殿は「大鳥造」と呼ばれる古い様式で知られるが、兵乱や火災でたびたび焼失し、現在の社殿は明治42年に従来の形式にならって再建されたものである。
大鳥神社は、東京都目黒区下目黒に鎮座し、目黒区内で最も古い祈願所の一つとされる神社である。社伝によれば、景行天皇の御代にすでに国常立尊を祀る社がこの地にあり、その後、東国平定に向かった日本武尊がこの地に立ち寄って戦勝と部下の眼病平癒を祈願したところ願いがかなったという。日本武尊の没後、その御霊が白鳥となってこの地に舞い降りたと伝わることから「鳥明神」として祀られるようになり、大同元年(806年)に社殿が造営されたとされる。御祭神は日本武尊を主神とし、国常立尊・弟橘媛命を相殿に祀る。室町時代に描かれた最古級の江戸図とされる「長禄の江戸図」にも「鳥明神」の名で記され、江戸時代には江戸近郊の主要な九社「江戸九社」の一つに数えられた。社紋には鳳凰が用いられている。
大鷲神社の創建年代は明らかではないが、日本武尊が東国平定に向かう途上、この地に祖神を祀ったのが始まりと伝わる。景行天皇40年(西暦110年)頃のこととする説もある。祭神には天乃日鷲命・大巳貴命・少彦名命に加え日本武尊を祀る。江戸時代には「鷲宮」「鷲賀岡神社」と呼ばれていたが、明治26年頃に現在の大鷲神社という社名に改められた。現存する本殿は江戸後期の天保2年(1831)の造営と伝わり、栄町の有形文化財に指定されている。また、江戸時代には三代将軍徳川家光の乳母として知られる春日局の崇敬を受けたとされ、家光がまだ竹千代と呼ばれた幼少期にこの社で出世を祈願し、のちに将軍となった際、報恩として自身の御座船「天地丸」に飾られていた金色の鷲の意匠を当社に納めたという言い伝えが残る。
大鷲神社は「花畑おとりさま」の名で親しまれ、酉の市発祥の地として知られる。創建の年代は定かではないが、平安時代後期、奥州へ向かう新羅三郎源義光がこの社前で戦勝を祈願したとの伝承が残る。応徳年間(1084年頃)から、酉の日に行われる祭礼が賑わいを見せるようになったと伝わり、江戸時代には花又村の鎮守として崇敬を集めた。祭神である日本武尊の命日が11月の酉の日にあたると伝えられることから、この日に神恩感謝の祭りが営まれるようになり、後に近隣の農民が鎮守に鶏を奉納した収穫祭という形で発展したとされる。この門前で開かれた市が、現在全国各地で行われている「酉の市」の起源になったといわれている。
大麻比古神社は大麻比古大神・猿田彦大神を祀る神社。方除・厄除のご利益で知られ、神武天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
那覇市泊に鎮座する琉球八社の一社。『琉球神道記』(1608)に「天久権現」、『琉球国由来記』(1713)に「天久山熊野三社大権現」、『琉球国旧記』(1731)に「天久山三社」、『球陽』(1745)に「天久山権現」「天久宮」と記されるなど、古記録に繰り返しその名がみえる。創建は成化年間(1465〜1487)と伝えられる。縁起では、銘苅村の翁子が天久野で気高い女人と法師に出会い、女人が中腹の洞窟のあたりで消えるのを見て王に奏上したところ、国王が臣下に命じて洞窟へ香を供えさせると自然に火がついたため社殿を造営したという。のちに「我は熊野権現なり。女人は国家の守護神・弁財天である」との神託があったと伝わる。御祭神は伊弉冉尊・速玉男尊・事解男尊。昭和19年(1944)の空襲で社殿を焼失し、戦後は御嶽形式で祀られたが、昭和47年に本殿を建立、本土復帰と同じ5月15日に宗教法人となった。
創建年代は明らかではないが、社伝によれば、中世にこの地が伊勢神宮の神領「葛西御厨」であった頃、領主の葛西三郎清重が皇大神宮を勧請し、氏神として祀ったのが始まりと伝わる。かつては神明社・明神社と呼ばれ、のちに三社明神、江戸時代には三社大明神と称されるようになった。江戸期の地誌『新編武蔵風土記稿』には三社明神社として記載があり、曲金村・細田村・新宿町・鎌倉新田の鎮守であったこと、別当寺が真言宗豊山派の金亀山神宮院観蔵寺であったことが記されている。明治6年(1873)、社名は現在の天祖神社に改められた。御祭神は天照坐皇大御神で、建甕槌命・経津主命を合わせ祀る。
太宰府天満宮は菅原道真公を祀る神社。学業上達・厄除けのご利益で知られ、919年(延喜19年)に創建された由緒ある神社です。
太皷谷稲成神社は、津和野藩主・亀井矩貞公が城の鬼門鎮護と領民安穏を願い、京都の伏見稲荷を勧請したことに始まると伝えられる。日本五大稲荷の一つに数えられ、願望成就・商売繁盛の信仰を集める。
社伝によれば、日本武尊が東国平定に向かう途上、この地に祠を祀ったのが起源とされる。のちの貞観2年(860年)、无邪志国造の子孫にあたる出雲族がこの地に社殿を再興し、「奥氷川大明神」と称したと伝わる。明治2年(1869)に現在の奥氷川神社へと改称された。祭神には素戔嗚尊と奇稲田姫命を祀る。大宮の氷川神社、所沢の中氷川神社とあわせて「武蔵三氷川」と呼ばれ、この3社が一直線上に並ぶことから本社・中社・奥社の関係にあるとも語られている。境内には御神木「氷川三本杉」があり、根元から3メートルほどの高さで幹が3本に分かれ、樹齢は700年、鎌倉時代に植えられたと伝わる。都内でも屈指の巨木として東京都の天然記念物に指定されている。
創建年代は詳らかではないが、景行天皇40年(西暦110年)頃、東国平定に向かった日本武尊にまつわる伝承が起源とされる。尊が三浦半島から房総へ渡ろうとした際に暴風雨に見舞われ、妃の弟橘媛(弟橘姫命)が海に身を投じて海神を鎮め、一行を救ったと伝わる。その後、東征を続けた尊がこの湯島の地に立ち寄った際、亡き妃を偲んで嘆いたとされ、郷民がその心情に心を寄せて尊と妃を祀ったのが当社の起こりと伝えられている。江戸時代には「妻恋稲荷」とも呼ばれ、「関東総司稲荷神社」「稲荷関東惣社」の名でも知られた。王子稲荷神社と並んで参詣人の多い稲荷社として親しまれ、江戸の「日本七社(七稲荷)」の一つに数えられていたという。
福島県いわき市平の中心部、揚土に鎮座する。延喜式神名帳に載る磐城七社の一つとされるが、中世のうちに社は絶えた。江戸時代に磐城平藩主・内藤義概が調査を行い、桜町に稲荷の小社が残り付近から勾玉が出土した伝えがあることから、そこを当社の古跡と同定。復興にあたって現在の揚土の地に社殿が造営された。御祭神は稲倉魂命(倉稲魂命)で、「子鍬倉」という社名は子・鍬・倉すなわち衣食住を表すとされる。境内のヒイラギは樹高7.2m・幹周1.6mで、昭和55年(1980年)9月1日にいわき市の天然記念物に指定されている。地元では「県社」の愛称で親しまれている。
JR城端線福光駅の西、旧福光町の市街地に鎮座する。社伝によれば天平勝宝2年(750年)、大伴家持が越中守であった頃にその子・大伴持豊が福光城において、石黒庄の総社として豊前の宇佐から分霊を勧請したことに始まるという。古くから痘瘡除けの守護神として広く信仰を集め、寛仁元年(1017年)には別当寺である寛仁寺が建立された。春の福光春季例大祭は220年以上の歴史をもつ祭礼で、厄年の男性が神輿を担いで丸1日かけて市街地を巡行する行事として知られる。
慶長年間(1596〜1615)、徳島藩祖・蜂須賀家政に招かれて播磨国から移住し、撫養で塩田を開いた馬居七郎兵衛らが八幡宮を勧請し、斎田村の氏神として祀ったのに始まる。1644年に現在地へ遷座し、1673年に本殿、1688年に拝殿を創建。現在の本殿・拝殿は1770年・1778年の造営で、明治5年(1872)に郷社に列した。斎田・黒崎の総氏神として崇敬され、創建の頃より子宝・安産の守り神として知られる。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。毎年10月13日には女性が主体となって供物を献上する「お御供神事」(徳島県指定無形民俗文化財)が行われる。
宇佐神宮は八幡大神・比売大神を祀る神社。勝運・厄除けのご利益で知られ、725年(神亀2年)に創建された由緒ある神社です。
宇倍神社は、武内宿禰命を祀る因幡国一宮。孝徳天皇大化4年(648)の創建と伝えられ、延喜式では鳥取県内唯一の名神大社に列した。明治以降は国幣中社となり、御祭神像と社殿が紙幣図柄に採用されたことでも知られる。
名張の地の氏神として信仰されてきた延喜式内社で、伊賀二十五社の一社に数えられる。主祭神の宇奈根命は水と穀物の神で、御神体である赤岩が名張川のうねりのそばにあることから「うねる」が転じて宇奈根になったと伝えられ、社名も「潤うふし水」に由来するという。『日本三代実録』には貞観15年(873年)に宇奈根神が従五位上を授けられた記事が見える。天正8年(1580年)の天正伊賀の乱で社殿・宝物・古文書をことごとく焼失したが、境内には元久2年(1205年)銘の石燈籠が残り、元和2年の棟札からこの年に再建されたとみられる。のちに伊賀領主筒井定次の重臣松倉勝重、次いで藤堂高吉から神領の寄進を受け、明治14年11月に県社に列した。藤堂家から譲り受けた能面45面は三重県の文化財に指定されている。
社伝では第10代崇神天皇の御代に遡る古社。第16代仁徳天皇の御代に毛野国が上下二国に分けられた際、御祭神豊城入彦命の四世孫・奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられ、祖神豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりで、承和5年(838年)に現在の臼ヶ峰に遷座したと伝わる。延喜式神名帳に下野国唯一の名神大社として記載され、「下野国一之宮」と呼ばれる。宇都宮の地名は一之宮の転訛とする説もある。相殿に大物主命・事代主命を祀り、藤原秀郷・源頼朝・徳川家康ら武将の崇敬も篤かった。宇都宮はこの神社の門前町として発展し、今も郷土の総氏神として親しまれている。
岡山市東区西大寺一宮の宮城山(別名・鶴山)に鎮座する古社で、旧備前国の一宮とされる。創立年月は不詳だが、『続日本後紀』承和8年(841)2月8日の条に「安仁神、名神に預る」とあるのが初見で、『延喜式神名帳』には備前国の名神大社として載る。古くは「兄神社」または「久方宮」とも称したと伝えられ、社名の「安仁」は初代神武天皇の「兄」を仮名書きしたことに由来するという。御祭神は神武天皇の兄にあたる五瀬命・稲氷命・御毛沼命。元宮は標高80mほどの山頂にあり、その後、備前藩主池田家の祈願所として現在地に鎮座した。明治4年に国幣中社に列せられ勅使の参向を受けている。かつては鶴山の麓まで海が入り込む良港で、後方の山には磐座や列石が残り、神武東征の船の艫綱を掛けたと伝える綱掛石神社もある。
安房神社は天太玉命・天比理刀咩命を祀る神社。産業創始・商売繁盛のご利益で知られ、紀元前660年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
創祀年代は不詳です。独鈷山の麓、塩田平の古安曽に鎮座し、鈴子・石神・柳沢の三地区の産土神として崇敬されてきました。社伝では崇神天皇の御代に国家安泰を祈願して各地に社が建てられた際、「阿曾山舎社阿曾大明神」の勅額が奉納されたと伝えます。清和天皇の貞観年間(860年頃)には信濃権守の岑嗣が阿曽山舎社を再建し、仁和4年(888年)にも勅額が奉納されたといいます。寿永年間(1185年頃)に源頼朝が諸国の神社を修理させた折、地頭の芳沢光綱が地主神・石上布留社の境内に社を建てて遷座しました。明治29年9月に郷社に列格。諏訪の神を祀ることから神紋は梶で、境内には二階建ての随身門が残ります。
社伝によれば、第13代成務天皇5年(135年)、勅命によって比止禰命(ひとねのみこと)がこの地の安積国造に任じられ、祖神である天湯津彦命と五穀の神である和久産巣日神を祀ったのが起源とされる。以来、郡山の総鎮守として長きにわたり崇敬を集めてきた。のちに坂上田村麻呂にゆかりの八幡大神、安積伊東氏の稲荷大神も合わせ祀られるようになった。現在の拝殿は文化7年(1810)に再建されたもので、本殿は流造の壮麗な社殿として知られる。境内には学問の神を祀る安積天満宮のほか、当社神職の家に生まれ江戸時代後期を代表する儒学者として名高い安積艮斎(あさかごんさい)を顕彰する記念館も設けられている。
安里八幡宮は、琉球王国・第一尚氏第七代の尚徳王によって1466年(文正元年)に創建されたと伝わり、『中山世鑑』や『琉球神道記』などの史書にその由来が記されている。尚徳王が喜界島への遠征に向かう途中、安里の地で空を飛ぶ鳥を見て「この矢で射落とすことができれば遠征を成就させたまえ」と祈願し、見事に射止めたという。さらに那覇港を出港する際、波間に梵鐘が浮き沈みしながら軍船のそばを離れず漂っていたため、尚徳王はこれを八幡大菩薩の加護と考え、戦勝を誓ったと伝えられる。遠征を成し遂げて凱旋した尚徳王は、矢を射た場所に社殿を建てるとともに、梵鐘を納めるための光明山千手院という寺院も隣接して建立した。御祭神は応神天皇・玉依姫命・神功皇后。琉球王国の官社であった「琉球八社」の一つに数えられ、その中で唯一八幡神を祀る神社である。
社伝によれば、天平感宝元年(749年)、孝謙天皇の勅願所として創建されたと伝わる、古い歴史を持つ神社である。「厄除八幡」「厄神さん」の通称は、神護景雲3年(769年)の故事に由来する。宇佐八幡宮への勅使として派遣された和気清麻呂が、道鏡の放った刺客に襲われた際、どこからか現れた巨大な猪が清麻呂を守り難を逃れさせたと伝えられ、これにちなみ厄除けの神として篤く信仰されるようになった。村上天皇の勅宣を受け、応和年間(961〜964年)には大規模な社殿の造営が行われたが、天正6年(1578年)の三木合戦の兵火により焼失。現在の社殿は天正16年(1588年)に再建されたものである。主祭神は品陀別命(八幡大神)で、脇座に息長足媛命・仲姫命を祀る。
皇居の吹上御苑にある賢所・皇霊殿・神殿の三殿をまとめた呼称で、三殿を一括して賢所と称することもある。南面して建つ三殿の中央が皇祖天照大御神を祀る賢所、その西が歴代天皇・皇后・皇族の霊を祀る皇霊殿、東が天神地祇八百万神を祀る神殿にあたる。明治維新後に宮中の祭祀が段階的に整理され、明治5年(1872年)に現在に連なる三殿の形が整ったと解されている。現在の建物は宮内省一等匠手を務めた木子清敬の設計により明治21年(1888年)10月に竣工し、翌明治22年1月9日に遷座された。単層入母屋妻入の白木造で、屋根は当初の檜皮葺から後に銅板葺へ改められた。昭和19年(1944年)には空襲を避けて皇居内の防空壕へ、平成16年(2004年)には耐震劣化調査のため仮殿へ一時動座している。祭祀は宮内庁とは別の内廷組織である掌典職が担う。
宮地嶽神社は息長足比売命・勝村大神を祀る神社。開運・商売繁盛のご利益で知られ、約1700年前(伝承)に創建された由緒ある神社です。
宮崎神宮は神日本磐余彦天皇(神武天皇)を祀る神社。開運・国家安泰のご利益で知られ、神代の時代の創建とされる由緒ある神社です。
富士山本宮浅間大社は木花之佐久夜毘売命を祀る神社。安産・火災消除のご利益で知られ、紀元前27年(伝承)に創建された由緒ある神社です。
寒川神社は寒川比古命・寒川比女命を祀る神社。八方除・厄除けのご利益で知られ、雄略天皇の時代(伝承)に創建された由緒ある神社です。
寒河江八幡宮は応神天皇・神功皇后を祀る山形県寒河江市の神社。厄除け・勝負運のご利益で知られ、寒河江荘の総鎮守として900年以上の歴史を持つ古社です。
射楯兵主神社は、射楯大神と兵主大神を祀る播磨国総社。播磨国内の大小明神を合わせ祀り、国司が国内諸社を一所で祭祀した総社の歴史を伝える。姫路城下の総鎮守としても崇敬されてきた。
小国神社は、大己貴命を祀る遠江国一宮。欽明天皇16年(555)の鎮斎と伝えられ、遠江国の総鎮守として崇敬された。広大な社叢に鎮座し、縁結び・開運・産業守護の神として信仰を集める。
長久元年(1040)、肥後の阿蘇大宮司が家臣を遣わして阿蘇神社の分霊を勧請し創建されたと伝わる。御祭神は健磐龍命をはじめとする阿蘇十二神。天正年間には社領の没収や社殿の焼失に遭ったが、のちに加藤清正によって社領が回復されたと伝えられる。境内には、勧請の際に神霊を奉じた船を繋いだと伝わる御神木「船繋ぎの樟」(樹高約35m・幹周約13m、樹齢1300年以上)がそびえ、市指定天然記念物となっている。10月の秋季大祭は400年以上の歴史を持ち、奴舞・獅子舞・亀蛇舞の三つの伝統芸能が奉納される。
後醍醐天皇の側近であった公卿・藤原師賢公(文貞公)を祀る。師賢は元弘の変(1331)で天皇の身代わりとなって比叡山に登り鎌倉幕府の軍と戦ったが、敗れて捕らえられ、翌元弘2年に下総国名古屋の地へ遠流となり、同年旧暦10月29日に32歳で生涯を閉じた。没後、後醍醐天皇から太政大臣を追贈され「文貞公」の諡号を賜っている。明治期に地元住民の願いを受け、明治12年(1879)明治天皇の勅旨により創建が許されて「小御門神社」の社号を賜り、明治15年(1882)に御剣を賜って鎮座祭を行い、別格官幣社に列格した。建武中興十五社の一社。「身代わりの神」として除災招福・病気平癒の信仰を集め、境内林は千葉県天然記念物「小御門神社の森」となっている。
正式名称は小松神社だが「星田妙見宮」の名で広く知られる。創建は平安時代の弘仁年間(810〜824年)と伝わり、弘法大師空海が交野を訪れて獅子窟寺で秘法を唱えた際、天上から七曜の星(北斗七星)が交野の三か所に分かれて降ったという降星伝説を起源とする。その一つが落ちたとされる地が当社で、大師自ら妙見を祀ったのが始まりという。江戸時代までは仏教では北辰妙見大菩薩、陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神として信仰され、明治の神仏分離を経て天之御中主大神ほかを祭神とするようになった。御神体は影向石と呼ばれる巨岩で、織女石(たなばたせき)とも呼ばれ、古代の磐座信仰の名残とされる。平成28年(2016年)には鎮座1200年の奉祝大祭が営まれた。
武蔵国一之宮を称する古社で、公式サイトの由緒では安寧天皇18年2月の鎮座と伝える。主祭神は武蔵国開拓の祖神である天下春大神、瀬織津比咩大神、稲倉魂大神の三柱。元慶8年(884年)に正五位上の神階を授けられ、延喜式神名帳には武蔵国八座の一社として載る。国府の近くにあったことから国司や住民の崇敬が篤く、総社六所宮創建の際には東殿第一の席を与えられて一之宮と称されたという。鎌倉末から戦国期にかけて戦乱と多摩川の洪水で荒廃したが、棟札によれば慶長14年(1609年)に徳川二代将軍によって造営再興された。明治の神仏分離で文珠菩薩を移座し郷社に列格。大正15年の失火で社殿を焼失したが昭和2年に本殿・拝殿を再建し、昭和39年に随身門、昭和49年に末社の再建を終えている。
大阪・道修町は豊臣期の頃から薬種取引の場として薬種業者が集まる町だった。薬は人命に関わるうえ品質の見極めが難しいことから、神の加護を得て職務を正しく果たそうと、安永9年(1780)に京都の五條天神から少彦名命を仲間の寄合所へ迎え、以前から祀っていた中国医薬の祖神・炎帝神農と併せて祀ったのが始まりとされる。以来「神農さん」の愛称で親しまれ、日本医薬総鎮守として病気平癒・健康成就の信仰を集めてきた。文政5年(1822)に大坂でコレラが流行した際、薬種仲間が虎の頭骨などの和漢薬を配合した丸薬「虎頭殺鬼雄黄圓」を作り、病名と薬に「虎」の字が当てられていたことから張り子の虎の守りとともに施与した。これが家内安全・無病息災を願う当社独自の授与品として全国へ広まった。
尾崎神社は鎌倉時代以前からの歴史を持つ古社で、「奥の院」「奥宮」「本宮」「里宮」の四社から成る。宝剣を祀る場所を奥の院、青出し浜の社を奥宮、尾崎白浜の社を本宮、釜石の市街地にある社を里宮とする。享保4年(1719年)に大明神の号を受け、寛政11年(1799年)には朝廷から正一位の位記を賜り、「正一位尾崎大明神」と称されるようになった。里宮は、元禄12年(1699年)に釜石の豪商・佐野家の邸内に御祭典の御旅所として設けられたのが始まりで、その後海岸沿いへ移された。明治から大正にかけては遙拝所・御拝殿と呼ばれ、昭和3年(1928年)に里宮へ昇格したが、昭和8年(1933年)の津波で社殿を失った。昭和11年(1936年)に高畑山へ、さらに昭和27年(1952年)に現在地へと遷宮し、今日に至っている。
尾張大国霊神社は、尾張地方の国霊神である尾張大國霊神を祀る古社。尾張の人々がこの地を開拓し、日々の糧を生み出す国土の霊力を神として敬ったことに由来するとされる。国府宮の名で親しまれ、尾張総社として地域の崇敬を集めてきた。
居多神社は越後国一宮として知られる古社で、大国主命・奴奈川姫・建御名方命・事代主命を祀る。弘仁四年(813)に朝廷から従五位下、貞観三年(861)には従四位下を賜り、延長五年(927)の延喜式神名帳にも記載された式内社である。中世以降は越後国司や越後守護上杉家、上杉謙信からも篤く保護され、越後一宮として崇敬を集めてきた。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が越後に配流された際、上陸してまず参拝したと伝わる神社としても知られ、境内には聖人にまつわる「越後七不思議」の一つ、片方にしか葉を付けない片葉の葦が群生する。
高知市鷹匠町に鎮座し、土佐藩主山内家の歴代当主を祀る。前身は文化3年(1806年)、10代藩主豊策の時に藩祖・山内一豊とその夫人見性院(千代)、2代藩主忠義を祀るため高知城内に建てられた藤並神社である。明治4年(1871年)の廃藩置県の年、最後の藩主で初代知藩事の山内豊範が祖霊を祀るため、藤並神社の御旅所があった現在地に社殿を造り、3代忠豊から14代豊惇までの霊を祀った。昭和7年(1932年)には幕末維新に功績のあった15代豊信(容堂)と16代豊範を顕彰する神社を新たに造ることとなり、両公を除く歴代藩主の霊を藤並神社へ移したうえで、昭和9年4月に「別格官幣社山内神社」が創建された。昭和20年の戦火で両社とも焼失したが、昭和45年に社殿を再建して藤並神社と合併し、藩祖夫妻以下歴代藩主を合祀した。平成2年には高知城内にあった熊野・春日・住吉の三社を境内に遷し、平成14年には容堂公の銅像を境内に建立している。
京都市北部の京北地域、旧山国郷に鎮座する延喜式内社です。社伝では光仁天皇の宝亀年間(770〜780)の鎮座と伝えられ、延暦13年(794)の平安遷都にあたって大内裏造営の用材がこの郷から徴されたため一帯が御杣料地と定められ、修理職の官人が本殿を造営し、和気清麻呂が祭主を務めたといいます。以後、大嘗祭の悠紀殿・主基殿の用材を調える役も担いました。長和5年(1016)には三条天皇から正一位を賜り、御祈願所として菊花の紋章を許されたと伝わります。源平の争乱や元弘の乱でたびたび社殿を失いましたが、細川頼之の執奏により応永6年(1399)に復旧し、このとき足利義満が奉納した丸に二つ引きが以後の神紋となりました。慶長元年(1596)に後陽成天皇によって再建され、明治6年(1873)に郷社、明治33年(1900)に府社へ列格。幕末に官軍として東征した山国隊ゆかりの社としても知られます。
山形縣護國神社は山形県出身の英霊を祀る神社。国家安泰・勝負運のご利益で知られ、1869年(明治2年)に創建された由緒ある神社です。
滋賀県米原市能登瀬、天野川中流域の丘陵上に鎮座する式内社で、『延喜式神名帳』に近江国坂田郡の小社として名を連ねます。社伝では奈良時代、この地を本拠とした豪族・息長氏が祖神を祀ったことに始まるとされ、天平神護2年(766年)に近江の地6戸が神封として寄せられたと記録されます。祭神は国常立尊。仁寿元年(851年)に正六位、貞観8年(866年)に正四位下の神階を受け、寛平9年(897年)には金勝寺の鎮守として年分度者が認められました。暦応2年(1339年)には朝廷の祈願により社殿が修造され、文和3年(1354年)にも勅願があるなど、朝野の崇敬を集めて社領の寄進もたびたび行われました。中世は「青木の宮」と称しましたが明治に旧社号へ復し、明治14年に郷社、大正10年に県社へ列格しました。明治15年の参道拡張工事の際には境内から全長約46mの前方後円墳(山津照神社古墳)が見つかり、金銅製冠や銅鏡、馬具などが出土しました。現在も近郷20か村の氏神として崇敬されています。
山王神社は、長崎市坂本に鎮座する神社。山王権現を祀る地域の鎮守として崇敬され、原爆で被災した二の鳥居と境内の大クスが平和の象徴として知られる。戦災を越えて復興した社として、地域の祈りを受け継いでいる。
崇徳天皇の永治元年(1141年)、摂津国の住人で現在の宮司家の祖にあたる小山田清寧が勧請したと伝えられる。元亀2年(1571年)、その子孫が御神体を奉じて平泉へ向かう途中に小牛田で宿を取ったところ、御神体を持つ者が動けなくなり、この地に鎮まることを望んでいると考えて住み着いたという口伝が残る。天正3年(1575年)に祠を建てて御神体を鎮め、寛文2年(1662年)には仙台藩が小牛田駅を開くのに合わせて間口9間・奥行4間の社殿を造営し遷座した。1700年代には男性中心の山神代参講と女性中心の山神代参婦人講が結ばれ、安産・子授けの神として東北一円から北海道まで信仰が広がった。明治41年の大火で全焼した後、大正6年(1917年)に現在の斎の台へ遷座している。
東郷町の西端、白土地区に鎮座する社で、氏子区域が東郷町白土と名古屋市緑区神の倉にまたがる珍しい神社です。兼務する富士浅間神社の由緒では「奉勧請山神一社」と記された文化4年の棟札から江戸時代後期の勧請と伝えられ、『東郷村誌』などにもとづく記録では寛政11年(1799)4月に傍示本村白土の元山へ勧請したとされます。棟札には元山を「山ノ神」と敬い、その下の磨砂を採ることを禁じる旨が記されており、白土という地名の由来ともなった磨砂の産出とともに集落が発展してきた歴史がうかがえます。祭神は大山咋神。勧請当時の氏子はわずか8戸で、祭礼の日には山仕事を休んで神前に集い一日を過ごす「山の子遊び」が行われていたと伝わります。境内には津島神社・秋葉神社のほか、地元出身の戦没者を祀る白土神社が鎮座しています。
岩木山神社は顕国魂神・多都比姫神を祀る神社。家内安全・五穀豊穣のご利益で知られ、780年(宝亀11年)伝承に創建された由緒ある神社です。
岸和田城の東側に鎮座する城下の総鎮守。南北朝時代に京都の八坂神社から素戔嗚尊を勧請して牛頭天王社と称し、岸和田村の鎮守としたのに始まると伝わる。のちに小出秀政が岸和田城を築いた際に八幡大神(品陀別命)を合祀し、明治維新に際して岸城神社と改称した。岸和田だんじり祭の起源には諸説あり、当社は延享2年(1745)に町方が当社の祭礼へ献灯提灯を揚げたことに始まると伝えて「岸和田祭発祥の宮」と称している。宮入りでは、こなから坂を駆け上がるだんじりの姿が名物となっている。岸和田城の別名・千亀利(ちきり)城にちなみ、縁結びの神としても信仰される。
桓武天皇の弟・早良親王を祭神とする。親王は藤原種継暗殺事件に連座して廃太子となり、淡路へ配流される途上で没した。その後、都で疫病や近親者の不幸が相次いだことが親王の祟りとされ、鎮魂のために当社が創建されたと伝わる。創建年は詳らかでないが、御霊信仰が広まった貞観年間(859〜877)頃とされる。鎌倉から室町期にかけて周辺の廃絶した社を合わせ、上高野一帯の産土神となり、江戸時代には「高野御霊」と呼ばれた。明治41年(1908)には式内社・伊多太神社を境内へ遷座し、大正4年(1915)には出雲高野神社と小野神社を再興して合祀している。崇道天皇のみを祭神とする神社としては京都で唯一とされる。
川勾神社は、相模国二之宮として崇敬される古社。大名貴命などを祀り、古くから相模国府域の信仰を担った。社蔵宝物や御由緒を伝え、現在も二宮町周辺の鎮守として地域の祭礼を支えている。
川越氷川神社は素盞鳴尊・奇稲田姫命を祀る神社。縁結び・夫婦円満のご利益で知られ、541年(欽明天皇2年)伝承に創建された由緒ある神社です。
市谷亀岡八幡宮は、東京都新宿区市谷八幡町に鎮座する八幡宮。文明11年(1479年)に太田道灌が江戸城西方の守護として鶴岡八幡宮の分霊を勧請したことに始まります。
社伝では第十一代垂仁天皇の御代の創建と伝え、延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳に武蔵国多摩郡の式内社として名を連ねる多摩地方有数の古社である。当初は少名毘古那神一柱を祀っていたが、文明9年(1477)に多摩川の洪水を避けて「古天神」と呼ばれる旧地から現在地へ遷り、そのとき菅原道真公を配祀した。江戸時代に甲州街道が整備されると上石原・下石原・上布田・下布田・国領の五宿が成立し、当社はその総鎮守として「五宿天神」と崇められた。明治22年(1889)に布田五宿が飛田給・上ヶ給と合併して調布町となってからは、調布町の総鎮守となっている。境内には豊臣秀吉が発した「太閤の制札」が伝わる。
明治16年(1883年)、静岡県松崎出身の依田勉三らが晩成社を組織してオベリベリ(現在の帯広)へ入植し、同18年から祭礼(天王祭)を営んだことが創祀と伝えられる。明治42年に社殿造営の議が起こり、町内会議を経て現在地への創立が決まった。翌43年に仮殿を造営し、同年9月24日に札幌神社(現在の北海道神宮)から御霊代を迎えて鎮斎した。以来この日が例祭日となっている。大正7年に郷社、昭和5年に県社へ昇格し、昭和51年には別表神社に加列された。祀るのは北海道開拓の守り神とされる開拓三神で、十勝平野の開拓の歩みとともに歩んできた社である。
常磐神社は、水戸藩主の徳川光圀公と徳川斉昭公を祀る神社。明治初年に両公の遺徳を慕う人々により創建され、明治6年に県社、のち別格官幣社に列した。偕楽園に隣接し、水戸学と水戸藩の歴史を伝えている。
常陸国出雲大社は大国主大神を祀る神社。縁結び・商売繁盛のご利益で知られ、1992年(平成4年)に創建された由緒ある神社です。
社伝によれば仁和2年(886年)、京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)の御分霊を迎えて創建されたという。主祭神は別雷之大神で、開拓・殖産のほか雷除け・嵐除け・災難除け・勝運の神として、古くから「雷電様」の名で親しまれてきた。応仁の乱の兵乱で社殿は荒廃し、正徳年間には廃頽するに至ったが、当時の領主・平出孝政が領民とともに浄財を募って本殿を再建した。天保5年(1834年)に再改築され、元治2年(1865年)には「雷電宮」の称号を受けている。7月第4日曜日の夏大祭では豊年を祈願する梵天奉納神事が行われ、地域の夏の行事として続いている。
平塚三嶋神社は大山祇命・事代主大神を祀る、神奈川県平塚市夕陽ケ丘の神社。湘南のえびす様として親しまれ、商売繁盛・家内安全・開運招福の信仰を集めています。
平安神宮は桓武天皇・孝明天皇を祀る神社。開運招福・厄除けのご利益で知られ、1895年(明治28年)に創建された由緒ある神社です。
創建年代は不詳。天永2年(1111年)に太政官の命を受けて陰陽寮が当社の遷宮の日時を占ったことが石清水文書に見えることから、それ以前の鎮座は確実で、出雲国最古の八幡宮とされる。一帯は京都・石清水八幡宮の社領であり、当社は「平浜別宮」と呼ばれて石清水の社家の支流が奉仕した。のちに出雲国八所八幡宮の総社と位置づけられ、戦国期には亀井氏・尼子氏・毛利氏によって社殿が造営され、江戸時代には松江藩主の直轄下に置かれた。昭和17年(1942年)に県社へ列格。境内西隣には武内宿禰を祀る境内社・武内神社が鎮座し、「武内さん」の愛称で延命長寿の神として広く信仰を集めている。
和歌山県有田郡広川町に鎮座する八幡宮で、社伝では欽明天皇の御代に河内国の誉田八幡宮から勧請されたと伝える。御祭神は誉田別命・足仲津彦命・気長足姫命。神功皇后が三韓征伐の帰途に有田の広村へ行幸したという縁起を持つ。室町時代初期の応永年間に土豪の梅本覚言が現在地へ遷宮したと記録され、摂社の棟札から応永20年(1413年)頃の造営が推定されている。天正年間の豊臣氏による紀州征伐で一部を焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の手厚い保護を受けて興隆した。本殿や楼門など複数の建物が国の重要文化財に指定されている。安政の津波の際には濱口梧陵が村人とともに逃れた避難場所となり、「稲むらの火」の舞台として知られる。境内には勝海舟が撰文と題額を手がけた濱口梧陵碑が立つ。
天平年間、遠江国司であった桜井王が国の安寧と繁栄を祈願し、国府庁舎内に八幡神を祀ったのが始まりと伝わる。延喜式内社には数えられなかったものの、歴代の国司に守られ続けてきた。中世には足利氏や今川氏からも篤い崇敬を受け、徳川家康は磐田御殿での鷹狩りの折に参詣し、関ヶ原合戦への出陣に際してもこの地から発したと伝えられる。江戸時代には2代将軍徳川秀忠が鳥居を、末娘の東福門院が本殿を寄進するなど幕府とも縁が深く、寛永12年(1635)には現在の楼門と社殿が再建された。明治22年の鉄道開通以降は中泉の総氏神として、今も地域の人々に守られている。
廣島護國神社は、広島県出身の戦没者を祀る護國神社。明治元年の戊辰戦争戦没者を祀った水草霊社に始まり、のち官祭招魂社、護國神社として整えられた。原爆で社殿を失った後、広島城跡に復興され、県民の追悼と平和への祈りを受け継いでいる。
奈良盆地を流れる川が合流する河合の地に鎮座し、水を司る神として信仰されてきた。社伝では崇神天皇9年、廣瀬の河合の里長への神託により沼地が一夜で陸地に変わって橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建てて祀ったのが始まりという。『日本書紀』には天武天皇4年(675年)に大忌神を廣瀬の河曲に祀ったとあり、これが毎年4月と7月に営まれた大忌祭の起こりとされる。龍田の風神と一対をなす祭祀として朝廷に重んじられた。『延喜式』神名帳の名神大社で、朝廷奉幣二十二社のうち中七社の一社。弘仁13年に従五位、永保元年(1081年)に正一位を授けられ、明治4年に官幣大社へ列した。現在は神社本庁の別表神社である。
明治2年(1869)、戦国の乱世で天下統一や朝廷儀式の復興を進めた織田信長の功績に対し、明治天皇から神社創立の宣下があったことに始まる。翌明治3年に「建勲(たけいさお)」の神号が下され、明治8年(1875)に別格官幣社に列して船岡山に社地を賜った。明治13年(1880)に社殿を新たに造営するとともに嫡男の信忠を配祀し、明治43年(1910)には本殿以下の諸建物を山麓から山上の現社地へ移している。社地の船岡山は、平安京造営の際に北の基点とされたと伝わる小高い丘で、境内からは比叡山や大文字山などの東山の峰々を望める。正式な読みは「たけいさお」だが、「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」の呼び名でも親しまれている。
社伝によれば崇神天皇5年、天皇が諸国に池や溝を開いて農事を勧めた際、金剛葛城の山麓に水神を祀ったのが創建とされる。天御中主神を中心に天水分神・国水分神・罔象女神・瀬織津姫神の五柱を祀り、霊峰金剛山の総鎮守、付近十八ヶ村の産土神として崇敬されてきた。建武元年(1334)には後醍醐天皇の勅により、当地を本拠とした楠木氏の楠木正成が山下にあった社殿を現在の山上へ遷して再建。この本殿三棟は国の重要文化財に指定されている。摂社の南木神社は楠木正成を祀る。
建部大社は日本武尊を祀る神社。開運招福・厄除けのご利益で知られ、316年(景行天皇46年)伝承に創建された由緒ある神社です。
広島県廿日市市の篠尾山に鎮座する天満宮。承久2年(1220年)に藤原親実が厳島神社の神主として着任し、守護神として天神を祀ったことに始まり、天福元年(1233年)に鎌倉の荏柄天神を勧請して篠尾山に社殿を構えたと社伝は伝える。親実は厳島神社の造営のため鎌倉から多くの職人を伴っており、その子孫がこの地に定住したことが廿日市の町の発展の基礎になったとされる。慶安5年(1652年)には町民から寄進を集めて社殿が再建された。明治17年(1884年)の火災で社殿を焼失したが、明治22年(1889年)に再建され現在に至る。学問の神である菅原道真を祭神とすることから、合格祈願の参拝者が多い。
社伝によれば、神功皇后が三韓からの帰途、忍熊王の挙兵を知って当地に弓矢と甲冑を納め、熊野大神を祀って祈ったところ戦に大勝したという。背後の峰を弓弦羽嶽(弓矢)とも六甲山(甲冑)とも呼ぶのはこの故事による。皇后が里の泉に姿を映したことから、この地は「御影」と呼ばれるようになったとも伝わる。8世紀末に弓弦羽ノ森が神領と定められ、嘉祥2年(849)正月14日に神祠を造営して改めて熊野大神(伊弉册尊・事解之男命・速玉之男命)を祀った。現在の本殿は明治3年(1870)の再建。平成7年の阪神・淡路大震災では社務所や鳥居が倒壊し、平成10年に再建された。八咫烏の導きにちなむ勝利祈願の宮としても知られ、「祭・地車(だんじり)」は神戸市登録無形民俗文化財の第1号、境内の椋木は市指定天然記念物である。
平安時代初期、坂上田村麻呂が東夷東征の折に岩木村へ宇佐八幡宮の分霊を勧請し、戦勝を祈願したのが始まりと伝わる。御祭神は誉田別命・息長足姫命・比売女神。慶長十七年(1612)、二代藩主津軽信牧の治世に、それまで大浦城の鎮守として崇められていた八幡宮が現在地へ遷座した。本殿と唐門は桃山様式を伝える代表的な神社建築として昭和十一年に国宝指定を受け、現在は国の重要文化財に指定されている。
例大祭は各神社で最も重要な年に一度の大祭です。一般に「お祭り」と呼ばれる行事の多くが例大祭やその関連行事にあたります。
各神社の公式サイトやSNS、地域の観光協会の情報で確認できます。毎年同じ日の神社と、「第3土曜日」のように曜日で決まる神社があるため、訪問前の確認をおすすめします。
担ぎ手・氏子以外が触れるのは一般的に控えます。見物する際は神輿が通る方向を向いて、軽く頭を下げて敬意を表すのが作法です。